2022年4月3日 『イエスの復活の証拠』(ヨハネ20章1-10節) | 説教      

2022年4月3日 『イエスの復活の証拠』(ヨハネ20章1-10節)

 主イエスは金曜日の午後3時に息を引き取りました。イエスの遺体は、国会議員であったアリマタヤのヨセフとニコデモが、それまで隠していた自分の信仰を告白して、ヨセフが用意していた新しい墓に埋葬しました。イエスの体は、日曜日の夜明け前までその墓の中にありましたが、主イエスは日曜日の早朝のどこかで復活されたので、夜が明けることには、墓の中にはイエスの体はありませんでした。他の福音書を合わせ読むと分かるのですが、日曜日の早朝、エルサレムから4人の女性がイエスの墓にやって来ました。ただヨハネは、その女性たちの中の一人であったマグダラ出身のマリアに焦点を当てて書いていますので、ここにはマグダラのマリアだけが登場します。これらの女性たちがイエスの墓にやって来たのは、彼女たちがイエスの復活を信じていたからではありません。彼女たちは、イエスの遺体が傷まないように香油を塗って差し上げたいと思ったのです。実は、彼女たちは、ヨセフとニコデモがイエスの遺体に没薬とアロエを塗って亜麻布で巻く様子を近くで見ていました。ヨセフとニコデモは、金曜日の日没の時間が迫っていて、安息日が始まろうとしてしていたので、かなり急いでイエスの遺体に亜麻布をまいていました。したがって彼女たちの目には二人のした埋葬が少し雑に行われたように見えたはずです。彼女たちは、イエスの遺体をきちんと埋葬したいと思って、安息日が終わって夜が明けるのを待ちきれずに、日曜日の早朝、イエスの墓に向かいました。ところが、彼女たちがイエスの墓に着いた時、イエスの墓の入口に立てて封印されたいた大きな石が取り除かれていて、墓の入口が開いていました。彼女たちはびっくりすると同時に怖くなりました。怖くて、彼女たちはイエスの墓に近づくこともできませんでした。マグダラのマリヤは、墓の中を確かめずに直感的に、誰かがイエスの遺体を盗んで行ったのだと思いました。マリアは、このことをすぐに弟子たちに伝えなければならないと思って、他の女性たちをその場に残して弟子たちのところへ走って行きました。恐らく、彼女はヨハネの家に行ったのだと思います。ヨハネの家にはイエスの母マリアがいました。そして、そこにはペテロもいました。彼女の話を聞いて、ヨハネとペテロはイエスの墓に急いで向かいました。

 3節と4節を読むと、二人は一緒に墓に向かって走って行きましたが、ヨハネが先に墓に着いたと書かれています。なぜ、ヨハネがこのことを書いたのか不明です。多くの人がなぜヨハネが先に墓に着いたのかということについてあれこれ理由を挙げています。ヨハネの方が若かったからだとか、ぺテロは主イエスを知らないと3回も言ってしまったことが頭に残っていて、全速力で走れなかったのだなどと理由を挙げていますが、このことには特に意味はないと思います。単に、その時、ヨハネのほうが先に着いただけのことです。また、墓に着いたヨハネは、中に入らずに、入口から中を覗き込んでいましたが、後に着いたペテロは、ためらわずに墓の中に入って行きました。墓の中には主イエスの遺体はなく、ただ、イエスの体を巻いていた亜麻布だけが残っていました。このことにでも、なぜ、ヨハネがすぐに中に入らずペテロが先に入ったのかということについて、人々はあれこれ理由を考えて、ヨハネは慎重な性格の持ち主であるのに対してペテロはすぐに行動に出る性格だったからなどと説明していますが、これも理由は分かりません。聖書を読むときには、あまり想像力を働かせると、大事なことを見逃してしまうので、シンプルにそのまま読むほうが良いと思います。

 5節から8節にかけて、ヨハネとペテロが、イエスの遺体に巻かれていた亜麻布を見たことが記されていて、「見る」という言葉が3つ使われていますが、ギリシャ語では、3つとも違う言葉が使われています。最初に墓についたヨハネは、墓の中に入らず入口から中を覗き込んで、亜麻布を見ていますが、この時には「見る」という言葉ではもっとも一般的な「ブレポー」という言葉が使われています。単に、彼の目で見て、その物体が見えたという意味です。次に、ペテロがヨハネの後に墓に着きましたが、まっすぐ墓の中に入って、墓の中で亜麻布を見ました。その時には「セオレオ―」という言葉が使われていますが、これは注意深くじっと見るという意味を持つ言葉です。ペテロは、墓の中ですぐ目の前にある亜麻布を見ました。イエスの頭に巻かれていた布は、体に巻かれていた亜麻布とは別の場所に、丸められたまま置かれていました。ペテロはイエスの体にまかれていた亜麻布と頭にまかれていた布をじっとみて、これはどういう意味なのだろうかとじっと考え込んだと思います。そして、その後にヨハネが墓の中に入って、彼も墓の中にイエスの体はなく、亜麻布だけが残されているのを見たのですが、この時に使われているのは、「オラオー」という言葉で、これはあるものを見て何かのことに気がつく、何かを理解して見るという意味を持っている言葉です。8節には、「ヨハネは見て、信じた」と書かれていますので、ヨハネはこの時、亜麻布とイエスの頭にまかれていた布を見て、主イエスが復活したことを信じたのです。ヨハネは、この時初めて、主イエスが十字架に掛けられる前に言われていた言葉、「わたしは死んだ後よみがえる。」という言葉をはっきりと信じました。一方、ペテロは、まだ完全にイエスが復活されたことを完全に信じることができず、頭が混乱したまま墓から立ち去って行きました。9節に「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。」と書かれているますが、彼らとは、この場合、ペテロと後から墓に着いたマグダラのマリアを指していると思います。このように、同じものを見ても、信じることができる人もいれば、信じられない人もいます。ヨハネは、彼ら以上にイエスの言葉を理解することができました。

 この出来事の後、復活された主イエスは弟子たちの前に姿を現わされますが、まず最初に現れたのはマグダラのマリヤでした。その次に、墓にいた他の女性たちに現れました。その後、第1コリント15章の記事によると、主イエスはペテロと1対1で会っておられます。このことの中にも、主イエスの心が現れています。主は、信仰的に大失敗をしていたペテロのために特別に彼が一人の時に会われてくださって、彼を特別に慰められたのです。ヨハネは、墓が空であったこととそこに残されていた亜麻布を見て、主イエスの復活を信じることができたので、主イエスはヨハネに特別に会う必要はないと分かっておられたので、主イエスがヨハネのために特別に現れることはありませんでした。

 当時、遺体をどのように埋葬するのかは、国によって違っていました。エジプトでは、ミイラが造られていました。ローマ帝国やギリシャでは、火葬にしていました。一方、イスラエルでは、体に香油を塗って亜麻布で巻き、棺に入れずに、岩に掘った墓の中に仰向けにして納められていました。亜麻布は肩の上半分を残して体に巻きつけられていました。そして、頭の上部には亜麻布がターバンのように巻かれていていました。おそらく、アリマタヤのヨセフとニコデモは、当時の習慣にならって同じようにイエスの遺体を埋葬したはずです。ニコデモが持ってきた30キロもの没薬を体に塗り、亜麻布の間にも塗りながら、主イエスの遺体を亜麻布でぐるぐる巻きにしました。そのような状態で埋葬されていた主イエスは、いったい、どのようにして死から復活したのでしょうか。亜麻布に巻かれた状態で、目を覚まして、体を揺り動かして包帯をほどいて起き上がったのでしょうか。それは復活ではなく、息を吹き返したということにすぎません。主イエスは、死んだ時と同じ体で復活したのではありません。もし死んだ時の体のままで復活したのであれば、イエスの体には多くの没薬やアロエの粉が塗られていたので、きちんと体を洗わないと、きれいな体にはならなかったでしょう。イエスが復活されたとき、亜麻布にまかれていたイエスの体は一瞬にして消えてしまったか、あるいは、一瞬にしてまったく新しい体、今までとは全然違う素晴らしい体に変わって、体を巻いていた亜麻布をすり抜け行ったのです。イエスが復活した瞬間、イエスの体が抜けていったので、体にまかれていた亜麻布も、頭にまかれていた亜麻布も、そのままのかたちで残されていました。ペテロとヨハネは、墓の中に入った時に、そのようになった亜麻布を見たのです。

 主イエスの体は、十字架で死ぬまでは私たちと全く同じ体でした。しかし、主イエスが復活された時は、同じ姿ではありましたが、まったく次元の違う栄光に満ちた体に変わっていました。イエスが埋葬された時、その直前に主イエスは、鞭を打たれ、唾を吐きかけられ、くぎを打たれ、槍で突き刺されて、ぼろぼろの体になっていました。私たちの罪のために限りなく痛め尽くされた体でした。しかし、復活された主イエスの体には、傷跡は残っていましたが、新しい力に満ち溢れ、閉ざされていた墓から抜け出し、どんなところにも自由に生ける体、天国で生活するのにふさわしい体に変えられていました。キリストの復活は、私たちにとってのモデルです。主イエスを救い主と信じる者は、主イエスと同じように復活すると聖書は約束しています。死からの復活は、死ぬ前の体で復活するのではなく、まったく次元の違うすばらしい体で復活するのです。パウロはそのことを植物の種に例えて説明しました。私たちは花を咲かせるために種をまきます。しかし、地面に埋められた種は一度死ななければなりません。種の殻が破れた時に、中から根が出て芽が出て来ます。そして芽が成長すると、黒くて丸い種とはまったく異なる美しい色の花が咲きます。神様が、その種に新しい体を与えてくださるからです。パウロは、第一コリントの15章で次のように述べています「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」私たちの復活の体は、もはや自然の法則に縛られることがありません。今の地上の体とは異なって、自由で力に満ちた体に変えられるのです。その体は、病気になることがなく、死ぬこともありません。永遠に生きる体になるのです。

 主イエスの復活はキリスト教信仰の中心です。イエスの復活を信じないクリスチャンはあり得ません。本当の信者ではありません。主イエスの復活がなかったら、主イエスの十字架の死は意味のないものになります。イエスは死んで復活して、初めて、ご自分が神であることを証明されたのですから。使徒信条でも、私たちは、主イエスのよみがえりを信じると告白しています。それをただ口で唱えるだけでは無意味です。真実にその告白を信じなければなりません。

 今日の出来事の中に、主が復活されたことの証拠があります。今日は、そのいくつかを考えましょう。第一のことは、主イエスの復活の第一発見者が女性であったという点です。当時のユダヤの社会では、女性の権利は認められていませんでした。当時、女性は裁判で証言することさえ許可されていませんでした。もしも、主イエスの復活を物語として造ったものであるとすれば、第一発見者を女性にすることは絶対にありません。女性の証言には価値がないからです。しかし、すべての福音書がイエスの墓が空であったことを最初に発見したのは女性であると記しています。第二の証拠は、イエスの墓が空であったことです。すべての福音書はイエスの墓の中にイエスのからだはなかったと記しています。誰もイエスの墓が空だったことについて反論していませんし、誰も、イエスの遺体を見つけ出すことはできませんでした。ある人は、弟子たちがイエスの遺体を盗んだと考えましたが、イエスの墓にはローマ兵が見張っていましたので、弟子たちが盗むことは不可能でした。たとえ盗んだとしても、ローマの兵士が全力を挙げて探し出せば、弟子たちがどこにイエスの遺体を隠したとしても、必ず見つけ出すはずです。しかし、最後まで、イエスの墓が空っぽであったとい事実をひっくり返すことはできませんでした。第三に、ヨハネが墓の中にあった亜麻布を見て信じたことです。後に、他の弟子たちも復活の主イエスと出会って、イエスの復活を信じました。彼らは元々弱さを持った弟子たちでした。イエスがユダの裏切りによって逮捕された時、彼らのほとんどはイエスを見捨てて逃げて行きました。主イエスのいのちを守ろうとせず、自分のいのちを守るために逃げ去ったような弱い弟子たちでした。しかし、彼らは、主イエスの復活を信じた時に、すっかり変わりました。彼らは、自分のいのちをかけて人々に主イエスの復活を宣べ伝える弟子に変身しました。もしイエスの復活は、弟子たちが考え出した作り話だとした場合、人間は、死んだ者が生き返るというようなありえない偽りのできごとに、自分のいのちをかけて生きることがあるでしょうか。イエスが復活したことを人々に宣べ伝えても、お金儲けになることはまったくありません。むしろ、自分の身に危険が起こり、人々からバカにされるだけです。しかし、主イエスの弟子たちの大部分は、主イエスの復活を信じる信仰によって、いのちを落としました。この弟子たちの変化は、主イエスの復活が実際に起こっていなければ説明できないことです。主イエスは確かによみがえられました。そして、主イエスの復活は、クリスチャンにとっては、自分が死ぬときに、主イエスと同じように新しい栄光の体で復活するという栄光に満ちた約束を保証するものなのです。私たちは死を恐れる必要はありません。主イエスを信じる者は、死んでも生きると約束されています。私たちは、主イエスとまったく同じように、朽ちる弱い体で死にますが、朽ちることのない栄光の体でよみがえるからです。あなたは永遠のいのちに向かって生きていますか。それとも、永遠の滅びに向かって生きていますか。あなたはいつでも永遠のいのちへの道に入ることができるのです。主イエスを救い主と信じる信仰を持つことによってです。

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