2022年4月17日 『恐れから勇気へ』(ヨハネ20章19~23節) | 説教      

2022年4月17日 『恐れから勇気へ』(ヨハネ20章19~23節)

 今日読んだ個所には、主イエス・キリストが復活された日の夜の出来事が記されています。主イエスは神の子として地上で約3年間働かれました。12弟子を選び、彼らを教え、彼らにいろいろな働きをさせられました。しかし、12弟子も、その他の信者たちも、真剣に主イエスの復活を信じる人は一人もいませんでした。イエスが復活された日の朝、最初に主イエスの墓が空っぽであるのを発見したのは、マグダラのマリヤと数人の女性でしたが、彼女たちも、主イエスの復活を信じていたのではなく、イエスの遺体に香油を塗ってあげたいという思いで、イエスの墓に行きました。ある人は、キリスト教に復活信仰があるのは、信者たちの間に主イエスの復活に対する強い期待があったので、それが、いつの間にか復活信仰に変わったと言いますが、2000年前の人間にとっても、死者の復活はありえないことでしたので、主イエスが何回も自分の復活について彼らに話していたにも関わらず、誰もイエスの復活を期待していませんでした。

 その夜、12弟子のうち10人が鍵をかけた部屋の中に集まっていました。イスカリオテのユダは、イエスを裏切った後、そのことを後悔して彼は自殺していました。もう一人、トマスという弟子は、理由は分かりませんが、その時、彼らとは別の場所にいました。10人のイエスの弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、その部屋に隠れていました。主イエスが十字架に掛けられたのは、3日前の金曜日のことです。ユダヤ教の指導者たちは、イエスに対する自分勝手な憎しみと妬みから、イエスを十字架にはりつけにするために必死になっていましたから、当然、イエスの弟子たちに対しても同じことをする可能性がありました。レビ人と呼ばれた人々の中に、エルサレムの神殿を警備する警察の働きをする人々がいました。弟子たちは、その神殿警察に見つかったら自分たちも十字架にかけられるのではないかと恐れていたのです。彼らには、まだ、全能の神を信じる信仰がありませんでした。神様のご計画、御心を理解せずに、自分の力で自分のいのちを守ろうとしていました。その日、夕方までに、福音書に記されている出来事だけで、復活の主は4回弟子たちの前に姿を現わしておられます。最初に、主イエスはマグダラのマリヤに現れました。これは先週読んだ個所の出来事です。また、他の女性たちにも姿を現わされました。その後、主イエスは、個人的に弟子の一人ペテロの前に現れました。ペテロは、主イエスが十字架に掛けられた時、ユダヤ人からイエスの仲間なのかと尋ねられた時に、3回繰り返して「自分はイエスを知らない」と嘘をついたことでひどい自己嫌悪に陥っていたので、主イエスは、ペテロを立ち直らせるために個人的に現れてくださいました。その後、夕方には、イエスの復活を信じられず落ち込んでいた二人の信者の前に姿を現わされました。ただ、二人はイエスであることに気づかずに、十字架でイエスが死んだことを嘆いていたのですが、イエスと歩きながら話している内に不思議と心が燃えてくるのを感じました。二人がイエスを自分の家に招いていっしょに食事をした時、二人は初めてその方がイエスであることが分かったのですが、その瞬間、イエスの姿が見えなくなりました。この二人は主イエスの復活を知って、喜びのあまり、夜にも関わらず、大喜びでエルサレムに戻り弟子たちが集まっていた部屋にやって来ました。今、弟子たちが集まっていた部屋には、少なくとも10人の弟子と、この二人の信者がいました。10人の弟子たちは、復活の主に出会ったペテロや二人の信者の話を聞いたはずですが、それでも、彼らは主イエスの復活を確信することができず、部屋の中に隠れていました。

 そんなところへ、突然、主イエスが部屋に入ってきて弟子たちの真ん中に立たれました。部屋の入口には鍵がかけられていましたが、復活の主イエスの体は栄光の体に変わっていたので、壁をすり抜けて中に入られました。10人の弟子たちは、主イエスが十字架に掛けられる前にローマの兵士たちによって逮捕された時、ペテロとヨハネ以外は、皆、イエスを見捨ててどこかへ逃げてしまい、姿を隠しました。ペテロは、イエスから遠く離れて後をついて行きましたが、自分がイエスの仲間だと尋ねられた時、イエスを知らないとイエスを裏切りました。彼らの中で、主イエスが十字架に掛けられた時に、近くにいたのはヨハネだけでした。3年間、主イエスの教えや訓練を受けていた弟子たちでしたが、彼らの信仰はイエスが期待していたものにはほど遠いものでした。しかし、主イエスは、彼らの前に現れた時に、弟子たちの信仰の無さを叱ることをせず、最初に言われた言葉は、「平安があなたがたとともにあるように」という、彼らをなぐさめ、彼らを励ます言葉でした。これはヘブル語では「シャローム」という言葉ですが、これは、今でもユダヤ人が挨拶するときに使う言葉です。日本語では、「平安があなたがたとともにあるように」と訳されていますが、ヘブル語のシャロームも英語のピースも、平和という意味と平安という意味を持っています。ですから、この言葉は、平和がありますようにとも訳すことができます。主イエスは、不安と恐れに襲われていた弟子たちに「シャローム」と言われた言葉には、ただ単なる挨拶以上の意味がありました。その言葉には、二つのシャロームが含まれていたと思います。。1つは神との平和であり、もう一つは神の平安です。この2つのことについてもう少し考えてみましょう。

 ローマ人への手紙5章1節に次のような言葉があります。「こうして、私たちは信仰によって、義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」主イエスを信じることによって与えられる第一の祝福は「神との平和」です。2月にロシアが突然ウクライナに侵略したことから、今、誰もが平和の大切さを覚えると同時に、私たちが願う平和が本当にもろいものであることを痛感しています。それは、聖書が言っているように、人間は心の奥底は誰もが自己中心なので、人間がこの世で平和を作り出すことは本当に難しいのです。聖書は、人間がこの世界に平和を創り出すためには、まず神様と平和の関係に入らなければならないことを教えています。私たちは、本来、神に造られた者であり、神の教えに従って生きる時に、一番、幸せなのですが、人間が神から離れて自分勝手に生きるようになったために、神の怒りを受ける者になりました。この状態を聖書は罪と呼んでいます。しかし、そのような人間でも神様は愛しておられ、神と人間の関係を修復するために、人間に対する怒りをひとり子イエス・キリストすべて負わせられました。キリストの十字架のおかげで、私たちは、もはや神からの怒りを受けることがなくなり、神との平和の関係に入ることができたのです。この神との平和が与えられた人は、様々な祝福を経験します。神様がこれまでは敵であったのですが、神様との平和が与えられたことにより、神様は私たちの味方となってくださいます。聖書の神様は全能の神様です。この神様が私たちの味方であるなら、私たちはどんな人間の敵をも恐れることはありません。また、私たちは、自分の姿を見て悩む必要がなくなりました。神様は、自己中心の私たちを愛してくださったので、私たちのためにわざわざ神の御子イエス・キリストをいのちを犠牲にしてでも、私たちの罪を帳消しにしてくださいました。私たちの中の罪はなくなってはいないのですが、イエスキリストが、私たちの代わりに罪の罰を受けてくださったので、神様は私たちを神の家族の一員として受け入れてくださいました。主イエスを信じることによって、私たちは、神様から本当に愛されていることを知ります。人間の心は修行や努力をしてもなかなか変わりませんが、大きな愛で愛されていることを知る時、私たちの心は変わります。そして、神との平和を持つ者は、死を恐れることがなくなります。聖書は、人間は一度死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが定まっていると教えていますが、神との平和を持つ者はもはや死んだ後にさばきを受けることはありません。私たちは、復活された主イエスと同じように、私たちの肉体は一度死を経験しますが、私たちの魂は、神のもとで永遠に生きることが約束されています。

 このような神との平和を持つようになると、人は、この世界で生きる時、自分の周りが戦争や自然災害でどんな状態に陥ったとしても、神の平安を経験することができるのです。私たちは、この世で生活をするときに、何となく不安を感じたり恐れを感じることがあります。そんな時、私たちは何かに頼ろうとします。親しい友だちとの交わりを持つこと、カウンセリングを受けること、経済的な安定を確保すること、保険に入ることなど、私たちは、いろいろな方法を使って、平安を感じようとするのですが、聖書は、この世の中のもので私たちに揺るがない平安を与えるものはないと教えています。揺るがない平安とは、神様の平安です。ピリピ人への手紙4章6-7節には次にような言葉が書かれています。「何も思いわず煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。聖書は、本当の平安は、ポジティブな考え方を持つことで得られるのではありません。他の人と調和して生きて行くことで得られるのでもありません。楽しい気持ちを保つことによって得られるのでもありません。本当の平安は、全能の神様がすべての状況をコントロールしておられることを知ることによって得ることができます。私たちは、主イエスを信じる時に、神の家族に加えられます。神様が家族の長です。そして、神様がすべての状況を支配しておられることを知れば、私たちは何も恐れる必要はありません。私たちは、いつでもどこにいても、神様に祈ることができます。直接自分の状況、自分の気持ちを神様に伝えることができます。本当に頼りになるものに頼るときに、私たちは本当の平安を感じることができます。この平安は、自分の頑張りによって得られるものではありません。知識を増やすことによって得られるものでもありません。神様が与えてくださるものなのです。だから、人間の理解を超えているのです。ピリピ4章7節に「神の平安があなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」と書かれていますが、ここで「守ってくれる」と訳されている言葉は、軍隊の言葉です。「見張りの兵士が敵の攻撃から守る」という意味の「守る」です。この言葉は、パウロという人がピリピという町にあった教会に書き送った手紙ですが、ピリピは現在のギリシャ北部にあった都市ですが、ローマ帝国が直接支配する特別な都市でした。そのため、ピリピの町には大勢のローマ軍の兵士がいて、町を守っていました。この言葉は、ピリピの人にとってなじみのある言葉でした。彼らはローマの兵士に守られていたので、安全だったのです。そのように、神様の平安は、私たちの心を、恐れや不安やパニックからしっかりと守ってくれるのです。1555年にイギリスの教会の司教であったニコラス・リドリーという人が迫害を受けて殉教します。彼が処刑される前の番、彼の兄がニコラスに最後の夜、彼が入っている牢屋で一緒に過ごそうと申し出ました。しかし、ニコラスは兄の申し出を断って、こう言いました。「兄さん、僕は、いつもと同じようにひとりで床に入って、いつものように眠りにつきたいんだ。僕は、神の平安を知っている。僕は、これから永遠に、神様の力強い腕に抱かれているのだから、何も心配することないんだよ。」彼は、そのように最後の夜を牢屋で過ごし、翌日処刑されました。この神の平安は、主イエスを信じるすべての人に与えられます。私たちも、どんな時も、神の平安を持つことができるのです。

 主イエスは、自分が幽霊でなく、本当に自分が十字架につけられた死んだ後よみがえったイエスであることを弟子たちに教えるために、手の傷跡とわき腹のやりで刺された跡を弟子たちに示されました。これで、弟子たちもようやく、主イエスが死から復活したことを信じました。20節の後半に、弟子たちは主イエスを見て、特に主イエスの手足とわき腹を見て、目の前に立ってるのが幻でも幽霊でもなく、確かに十字架にかけられたイエスであることを信じました。その傷跡は、私たちの罪のためにイエスが身代わりに受けられたものです。その傷は、私たちの罪が赦されていること、私たちが神の家族に入れられたことを保証するものでした。弟子たちの悲しみは、主イエスが彼らの所に来られたことによって、そして、失敗した自分たちを見捨てることなく、逆に、神様との平和、神様の平安を与えてくださったことよって、喜びに変わりました。彼らの信仰もよみがえりました。

 そのような弟子たちに、主イエスは、新たに、十字架と復活の知らせを世の中で苦しんでいる人々に伝えるように、もう一度その働きを弟子たちに委ねられました。それは大きな責任がともなう働きです。世の中に向かって出て行くことは勇気がいることです。彼らには自分の力ではできないという思いがあったかも知れません。その時、主は、彼らに「聖霊を受けなさい」と言って息をふきかけられました。最初の人間が造られたとき、他の動物と同じように土からかたちづくられましたが、まだ、その時点では、人間が生きていませんでした。神様が人の鼻から息を吹き込まれた時に、初めて生きる者となりました。ギリシャ語もヘブル語も「霊」という言葉と「息」という言葉は同じです。最初の人が神の霊を受けて初めて生きる者になったのと同じように、弟子たちも、これから世界に、主イエスの教えを宣べ伝えて行くために、神の霊が必要でした。復活の主は、弟子たちに大きな使命をお与えになっただけではなく、神の霊を与えることによって、弟子たちに新しい力を備えてくださいました。この時から、弟子たちは変わりました。ユダヤ人を恐れて隠れて集まっていた弟子たちが、いのちの危険も顧みず、世の中に福音を伝える弟子たちとなりました。ローマ帝国は、キリスト教を破壊するために、激しい迫害を300年続けましたが、キリスト教は滅亡せず、反対に、ローマ帝国がキリスト教の国になり、福音がこの世の力に勝利しました。主イエスの復活がなければ、世界の歴史はこのようにはならなかったでしょう。主イエスは確かに復活されました。そして、今も生きておられます。私たちは、いつでも、主イエスに祈ることができます。私たちは主イエスがともにおられることを感じることができます。21世紀は、どのような世紀になるか分かりません。しかし、復活の主が私たちとともにおられるなら、私たちは何も恐れる必要はありません。

2022年4月
« 3月    
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930

CATEGORIES

  • 礼拝説教