2022年4月24日 『疑いから確信へ』(ヨハネの福音書20章24~29節) | 説教      

2022年4月24日 『疑いから確信へ』(ヨハネの福音書20章24~29節)

 主イエスが、初めて12弟子たちが集まっていた場所に現れたのは、主がよみがえられた日の夜のことでした。弟子たちは、エルサレムの町のユダヤ人たちがイエスを十字架につけろと叫んでいるのを知っていたので、自分たちも彼らから襲われるかもしれないと恐れていました。そのため、彼らはかぎをかけた部屋に隠れていましたが、そこに突然復活の主イエスが現れたので、弟子たちの恐れは消え去り、彼らの心は喜びで満ちあふれました。ただ、その夜、弟子の一人のトマスだけはその場にいませんでした。なぜ、トマスだけがそこにいなかったのか、その理由は分かりません。トマスは、主イエスが十字架で死んだことがあまりにも悲しくつらいことだったので、一人になりたかったのかも知れません。自分が、すべてをささげて従っていた主イエスが死んでしまったことで、トマスは人生の生きがいを失い、将来に対する希望も消えてしまって、彼の心はどん底まで落ち込んでいました。そのため、他の弟子たちとおしゃべりするような気分ではなく、一人になりたかったのかも知れません。

 24節に、彼について、デドモと呼ばれるトマスと書かれていますが、デドモとは双子のことですので、彼には双子の兄弟がいたと思われます。トマスのことについてはヨハネの福音書以外の福音書には、12人の弟子のリストに名前が記されているだけで、彼について何も記していません。しかし、ヨハネの福音書では、トマスは11章と14章に出て来ます。そこにしるされた記事を読むと、トマスは、かなり悲観的な考え方をする人物であったように思われます。11章を見ると、その時、主イエスと弟子たちはエルサレムから遠く離れたヨルダン川の東の地方に滞在していました。それは、それまで彼らはエルサレムにいたのですが、ユダヤ教の指導者たちと論争になり、ユダヤ人たちがイエスを石打ちにして殺そうとしました。しかし、主イエスが十字架にかかる時はまだ来ていなかったので、イエスと弟子たちは、エルサレムを離れて、ヨルダン川の東に退かれたのです。すると、彼らのところに、エルサレムの近くのベタニヤという村に住んでいた、知り合いのラザロが病気で死にかけているという知らせが届きました。主イエスは、その知らせを聞いても、二日間は、何も行動を起こされなかったのですが、三日目に、主イエスは弟子たちに「もう一度ユダヤに行こう」と言われました。ユダヤとは、エルサレムやベタニヤがある地方のことです。その言葉を聞いて、弟子たちはびっくりしました。それで、弟子たちは主イエスに言いました。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」弟子たちは、今、主イエスがエルサレムに行くことがどれほど危険なことかよく知っていたのです。しかし、主イエスは、弟子たちがいろいろ言っても考えを変えず、「さあ、ラザロのところへ行きましょう」と言われました。弟子たちは、どうすれば、イエスにユダヤに行くのを思いとどまらせることができるのか、途方にくれていました。その時、突然、トマスが口を開きました。彼は「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」と言ったのです。主イエスは、ユダヤ教の指導者たちと対決するためにユダヤに行くのではありません。親しい友であるラザロを死から生き返らせるために行くのです。しかし、トマスは、ユダヤに行けば祭司長やパリサイ人たちと争いになり、主イエスは殺されるかも知れないと思いました。トマスは、主イエスとユダヤ教指導者たちの対立はすでに絶望的な状況になっていることを感じていました。ただ、トマスが「自分たちもイエスと一緒に行って死のう」と言ったのは、彼が心から主イエスを愛していたからです。主イエスが死んでしまうのなら、自分たちも一緒に行って死ぬほうがましだと考えたのです。彼は、死に至るまで、どこまでも主イエスに従いたいと願っていたのです。

 次に、トマスが現れるのは14章です。最後の晩餐の時です。主は、弟子たちと食事をしながら、いろいろなことを彼らに教えられたのですが、14章で、主イエスは、まもなく自分が弟子たちから離れて天国に行くことを告げられました。主はこう言われました。「わたしはあなたがたのために場所を用意しに行きます。わたしが、行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがもいるようにするためです。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」主イエスは、弟子たちに、すばらしい約束の言葉を語られました。主は、これまでにも、弟子たちに自分がどういう者であり、これからどのようなことをするのかということを、繰り返し話しておられました。主イエスは、自分が神の子であり、私たち人間の罪を身代わりに背負って十字架にかかって死ぬこと、それから三日目に復活すること。復活した後、天に戻って、天に戻ったら、弟子たちのために居場所を準備して、その準備ができたら、弟子たちを迎えに来るということを、繰り返し話しておられたのです。しかし、トマスも、他の弟子たちも、まだ主イエスの言葉の意味が分からずにいました。彼らは、主イエスが間もなく死ぬのではないかとは思っていました。しかし、その先のことが分からなかったのです。トマスが「主よ、どこに行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるのでしょうか。」と言いましたが、その言葉には、主が死ぬのであれば、主がどこに行くのかを知ることよりも、主イエスと一緒に死ぬほうがましだというトマスの気持ちがこめられたいたと思います。トマスは、悲観的な考え方の持ち主でしたが、主イエスを慕う気持ちは非常に強かったのです。

 最初のイースターの夜が過ぎ、2,3日後にトマスは、弟子たちが集まっていた場所に戻って来ました。すると、他の弟子たちの様子がすっかり変わっていました。皆、なぜか、うれしそうでニコニコしています。そして、彼らがトマスに言いました「私たちは、主を見た。」彼には、大きなショックでした。彼は、もう二度と主イエスに会うことはないと思い込んでいたからです。彼は、他の弟子たちの言葉を信じようとしませんでした。他の弟子たちが、すっかり様子が変わって喜んでいる姿を見て、トマスは、自分だけが仲間外れにされているように感じたこともあったのか、感情的になったトマスの口から、不信仰な言葉が出てしまいました。「私は、その手にくぎの跡を見て、くぎの跡に指を入れ、その脇腹に手を入れて見なければ、決して信じません。」トマスは、こんな言葉を言ってしまったために、「疑い深いトマス」というあだ名をもらうことになりました。しかし、主イエスの復活を疑っていたという点に関して言えば、他の弟子たちもトマスと同じでした。ルカの福音書によると、墓に行った女性たちが弟子たちのところに来て、イエスが死から復活したことを報告しましたが、話を聞いた弟子たちは、その話がたわごとのように思えたので信じなかったと書かれています。他の弟子たちもトマスと同じように、最初はイエスの復活を信じることはできなったのです。トマスは、主イエスの復活の確信を持っていませんでした、そして、主イエスが死んだことによる悲しみが、トマスの場合、人一倍強かったために、主イエスの復活をすぐに受け入れることはできませんでした。ただ、トマスは、その後、弟子たちと一緒の場所にとどまっています。心のどこかで、主イエスが再び弟子たちの前に姿を表すのではないかと期待していたのではないでしょうか。信仰について、心の中に疑いの気持ちが起こったとしても、他の弟子たちから離れないことが大切です。もし、トマスが、自分だけのけ者にされたことに気分を害して、他の弟子たちから離れてしまっていたら、トマスは復活の主イエスに会わないまま、信仰を失っていたかもしれません。信仰生活に疑いや迷いが生じたとしても、教会や信仰の仲間から離れないことが大切なのです。

 主イエスは、トマスの心の思いをすべて知っておられました。そして、そのトマスの不信仰を責めるためではなく、彼の疑いを解決するために、1週間後に、主イエスは再び、弟子たちが集まっているところにやって来られました。この時はトマスも他の弟子たちと一緒にいました。もちろん、主イエスはそのことを知っておられました。この時も、彼らが集まっていた部屋の戸は閉じられていましたが、突然、復活の主が彼らの前に姿を現わされました。そして、一週間前と同じように、主は、集まっていた弟子たちに「平安があなたがたにあるように」と言われました。その後、主は、まっすぐにトマスに近づき、彼に向かって言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」トマスが他の弟子たちに言った言葉は、彼が感情的になった時の言葉で、彼は、実際に主イエスの手のくぎの跡に指を突っ込んだり、イエスの脇腹に手を突っ込んだりしたかったのではありません。彼は、それをしないと信じられないほど、復活を信じることが難しかったのです。しかし、主イエスはトマスの不信仰を責めることなく、トマスが言った言葉のとおりするようにとトマスに言われました。主イエスの言葉は、トマスの言葉をそのまま繰り返しておられます。トマスは「くぎの跡に指をいれて」と言いましたが、イエスは「あなたの指をここに当てて」と言われました。トマスは「その手にくぎの跡を見て」と言いましたが、イエスは「わたしの手をみなさい」と言われました。トマスは「脇腹に手を入れてみなければ」と言いましたが、主イエスは「手を伸ばしてわたしの脇腹に入れなさい」と言われました。そして、主は、彼の疑いを晴らすために、トマスに、自分の手と体を差し出されました。

 主が、トマスの言葉を繰り返して言われたということは、主イエスはトマスの言葉を聞いておられたのです。そして、彼の気持ちを理解して、何よりも、彼の疑いを晴らすために、トマスに近づかれました。主イエスの復活を疑っていたトマスでしたが、イエスの一言で、彼の悲観的な疑いの心はすべて消え去りました。自分の言葉を主イエスが知っておられることに驚きました。そして、目の前に、自分が慕っている主イエスが立って、自分に優しく話しかけてくださったことに、トマスは、胸がいっぱいになるのを感じました。彼は、主イエスの前に恐れおののいて、イエスに答えました。「私の主、私の神よ。」このトマスの信仰告白は、ペテロの「あなたは生ける神の子キリストです。」と言った時の信仰告白と同じように、弟子たちの信仰告白の中でもっとも素晴らしい告白です。彼は、主イエスの前に、自分の不信仰を認めて、ひれ伏しました。主イエスは、トマスが率直に自分の不信仰を認めたことを見て、彼の信仰告白を受け入れられました。トマスは、主イエスの復活を確信すると、主イエスの弟子として死に至るまで従うことを決心しました。その後のトマスについては、はっきりしたことは分かりませんが、インドまで行って宣教し、そこで、殉教したと言われています。「トマス行伝」というトマスの宣教を記した書物があり、その中に「グンダファル」という名前のインド王が出て来るのですが、最近、インドで、グンダファル王の名前を記した貨幣が発掘されて、グンダファル王が実在の人物であることが証明されました。また、インドには聖トマス教会という教会があり、その教会は、このトマスの宣教によっ設立されたと言われています。トマスは「疑い深いトマス」というニックネームがつけられましたが、彼はただ、疑っただけではありません。そこから真理を求めて、真理を確信した後は、そのためにいのちを捧げる人となりました。

 疑いを持つことは、必ずしも悪いことではありません。疑いを持つことによって、その答えを探し求めて、その答えを見出して受け入れるならば、疑いは、その人の信仰をより強いものにします。しかし、疑いを持つときに、答えを見つけようとせず心を頑なにして信じないと心に決めてしまうと、信仰は消えてしまいます。映画にもなった歴史小説「ベンハー」を書いたリューズ・ワラスは、元々無神論者でした。彼は、聖書の教えを完全に否定して、人類をキリストに関する迷信から解放させるための本を書くことを、友人と約束して、本を書くために中東やヨーロッパマで出かけて多くの資料を集めました。そして、聖書に記されたイエス・キリストの物語が作り話であることを証明するための本を書き始めました。その本の第一章を書き終えて、第二章の最初のページを書き始めた時に、彼は、どうしてもイエスのことを否定できないことを悟って、彼はイエスの真実の前にひざまずきました。彼は、涙を流して、トマスと同じように、主イエス・キリストに向かって「あなたは私の主、私の神です。」と告白したのです。その後、彼は莫大な費用をかけて資料を集めていたので、それをどうしようかということになり、クリスチャンであった夫人が「それでは、今度は、その資料を使って、イエスが間違いなく神の子であり、救い主であることを証明する本を書けばいいのでは」と提案したことで、彼は新しい本を書き始めました。それが「ベンハー」なのです。神様は、私たち一人一人が神様の前にへりくだって、「信じる者にならないで、信じる者になる」ことを願っておられます。

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