死の恐怖の中で祈り続け、イエス・キリストに出会った! | 北本福音キリスト教会      
長老:石黒 早苗 兄平井 紹子 姉新井 あき子 姉伊東 雅和 兄松沢 順子 姉F・H 兄海島 晴由 兄遠藤 浩範 兄河村 幹夫 兄山田 恵 姉

死の恐怖の中で祈り続け、イエス・キリストに出会った!|長老:石黒 早苗 兄

 「なぜ、クリスチャンになりましたか」とよく訊ねられます。よく考えて答えるとすれば、「そうでなければ生きられなかったからです」ということになります。 私は、両親が再婚し、父69歳、母42歳の時に産まれました。20歳以上年上の兄や姉がいて、その複雑な家庭のため、何時も争いの絶えない家庭でした。父の長男は、父のめかけの子である姉に恋心を持ってしまい、心に深い傷を負いました。母の前の夫の隠し子は母を激しく恨んでいましたし、母の実子である兄は、嫁姑の問題で母と別居し、私と母の二人だけの生活でした。私は次男でしたが、父親のような3人の長男を戴いていたのです。複雑で、争いの絶えない家庭は世間の笑いものでしたし、私は小さい時から、周囲の軽蔑の目を意識して生活しておりました。 そのような私を助けたのは「学校での成績は誰にも負けない」ということでした。しかし、その自慢の支えも高校3年の10月、膵臓炎と十二指腸潰瘍になり、成績での敗北を経験することになったのです。さらに大学に入ってから、病気で休学し、再発のため、胃の手術を受けることになったのです。経済的に大変なので、手術して早く治りたいとの焦りも手術に踏み切らせる大きな要因でした。しかし、手術後はさらに不調が続き、医者になることを諦めねばならないかと悩む状況に至ったのです。

 一年大学を遅れて、この試験をパスしなければ、また一年遅れるという1960年1月、絶望して、自殺をしようと前橋市に帰ってきたのです。しかし、年をとった母のことを考えるとなかなか実行することが出来ず、悶々としていたのです。そんな時、「自殺する前に一度教会に行ってみよう」と、1960年1月19日、日本基督教団前橋教会聖日礼拝に出席したのです。 礼拝堂の明かり取りのガラスは緑色で、そこから入る光が白髪の森下牧師を浮き立たせており、何か別世界に行ったような気がして、私は「これで生きていけるかもしれない」とその時思い始めたのです。 その日から、教会で行われるすべての集会に出席し、学ぼうと努力をしたのです。しかし、医学部の専門課程に進級してから、再び倒れ入院してしまいました。病気を治すため、良いと勧められれば何でもしたのです。勧められて、玄米菜食主義を実行しましたが、それは全くの失敗でした。胃を切除していた私は、玄米菜食で激しい下痢を起こし、全く食べられなくなりましたが、それを止めようとはしませんでした。なんとしても治りたかったのです。それは、経済的にも許されない状態になっていて、医療費もなく、大学の研究費で治療してもらっていましたが、それも切れて、生活保護を受けるようになっていました。

 その頃の生活保護給付の条件では、大学を止めねばならなかったのです。治るか、大学を止めるかの二者択一を迫られていたのです。下宿で玄米菜食を続けて、食べられなくなると野菜を搾ったジュースだけになり、最終的に断食をすることになりました。聖書で知ったイエス・キリストの40日の断食に習い、癒しの祈りと断食を続けていました。そして、ついに体重は35キロ以下になったのです。(その後入院してある程度食事を摂ってからの体重が35キログラムでした)。一日の尿量が4リットルにもなり、体重はどんどん減っていったのです。今考えると栄養失調で、死の危険が近づいていたと考えられます。死の恐怖が眠りを奪い、全く眠れませんでした。いろいろなキリスト者が訪れて、祈りを指導してくれました。しかし、その時癒しは問題では無くなり、最大の問題は死の恐怖でした。 そのような状況の時に、須田先生が来て、「あなただけに断食はさせませんよ、私も断食して祈りましょう」と言ってくれ、次ぎの御言葉を示して「この御言葉だけ唱えて、祈りなさい」と言われました。その御言葉は「イエスはこれを聞いて、言われた。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』」(ヨハネ福音書11章4節)でした。

 指導されたように、真剣に祈り続けました。そして、ある日イエス・キリストに出会ったのです。寝ていた下宿の部屋で、誰も居ない時、イエス・キリストに出会ったのです。 その時から、この方に比べられるものは何も無くなりました。同級生達が心配してくれて、先輩の医師を連れてきて診察をしてくれました。そしてその先輩が「どうして早くしなかったのか」と大変心配しているようでした。しかし、不思議なことに私の心には、死の不安は全く無くなっていました。 直ぐ入院させてもらい、治療を受けました。入院後、“精神的におかしくなり、新興宗教の治療をして、失敗した者”としての扱いを、先輩である主治医から受けました。しかし、すべては問題ではありませんでした。私は内部から湧き上がってくる力を感じ、希望が当面の困難を打倒しました。 “何時も共に居て下さる方がいる”という喜びが、肉体の苦痛を忘れさせ、リハビリテーションに励ませることになりました。 復学したその年は時々低血糖を起こし意識を失い、数時間たって意識を回復するということがあり、学業について行くのが精一杯でしたが、次ぎの年からは、教会でも、大学でも熱心に伝道を始めました。最大の送り物は、イエス・キリストを知らせることだと知ったからです。