最愛の妻が天に召され、妻の信仰を思い出し支えられた……! | 北本福音キリスト教会      
長老:石黒 早苗 兄平井 紹子 姉新井 あき子 姉伊東 雅和 兄松沢 順子 姉F・H 兄海島 晴由 兄遠藤 浩範 兄河村 幹夫 兄山田 恵 姉

最愛の妻が天に召され、妻の信仰を思い出し支えられた……!|伊東 雅和 兄

 記念礼拝の召天者の一人として加えてくださりありがとうございます。 妻・操子は、神奈川県の江ノ島に近い藤沢からこの北本に移り住んで17年になります。その間ずっと腎臓の苦しみと股関節脱臼の痛みと闘ってまいりましたが、今年の2月7日未明、主は御国へと移してくださいました。79才と11ヶ月の生涯でした。去年の秋頃から、北里への通院も無理となり、自宅で医師・看護婦の往診を受け寝たきりのベッドの上の生活となり、食事、トイレ、寝起きも自分ではできなくなり、医師からは万一のことを覚悟していてくださいと告げられていました。

 その前日までふつうにお粥の食事をとり、話を交わして休み、夜半に時折様子を見たときはスヤスヤと眠っておりました。そして明け方雨戸を開けてベッドを見たときには、心臓の鼓動はもうありませんでした。息絶えるその前に、必死に私を呼んだかもしれません。しかし、難聴の私には聞こえませんでした。そのことが今でも唯一の心残りです。そして驚いたのは、眠っているような妻の顔がつやつやと光り輝いて、安らぎに満ちた顔であったことです。 寝たきりとなったこの半年の間、寝ていても覚めていても苦痛にゆがんだ、見るに忍びない顔をしていたのに……。

 私はハッとして聖書の「モーセは、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。」(出エジプト記34章29節)の一節を思い浮かべました。妻は天に帰りきっと主とお話をしたのだ。そして光り輝く顔に変えられ安らぎを与えられたのだと思いました。 それからどっと悲しみが押し寄せ、私は妻の横たわるベッドに顔を埋め、夜明けの淡い光の中で慟哭し、やがて慟哭は祈りの声と変えられました。 『天の父よ、御心を感謝します。妻を病の苦しみから解放してくださり、天に引き上げてくださったことを感謝いたします。あなたが、この、神の何たるかも知らなかった者に妻・操子を与えてくださり、52年の間、夫婦として必ずしも平坦ではなかった人生の幾山河をあなたの支えによって、その一つひとつを乗り越えて今日まで来ることができました。そして家庭を築き、良き子供や孫、ひ孫まで与えてくださったこと、大きな祝福を感謝でございます。妻・操子はあなたに選ばれたクリスチャンとして、妻として、そして母として成すべきことを成し終えて、みことばに忠実な者として、この地上の生涯を終えることができました。ありがとうございます。

 「神の幕屋人と共にあり、人神の民となる」と聖書にある、その天の故郷に帰った妻の目の涙をぬぐい去りたまわんことを、死も、悲しみも、叫びも、苦痛もない、とこしえの平安を妻に与えたまわんことをひたすらにひたすらにお願いいたします。主の御名によって心から感謝して御前に祈ります。アーメン』  時の流れは早く、妻が旅立ってから十月二日で八ヶ月になります。残された私はどうなのでしょうか。何と不甲斐なき者よと吾ながら首をかしげる男となりました。勿論、夫を妻を、愛する者を失った人はこの地上に数え切れないほどいるでしょう。虚しいのは、淋しいのは私ばかりではないのですが、私は家の中に他に誰もいない、その空間の大きさに、妻という存在がいかに切実に必要な愛する存在であったことを思い知らされております。

 神は何故アダムにエバをお与えになったか? 無から天地万有を造られ、そして人間を造られた神は、造り主として人間の全てをご存じなんだな~とあらためて今思っております。 御存知の通り、私は薬の副作用で両方の耳の聴力を失いました。そのため教会生活にも少し困難を感じております。お交わりもままなりません。毎日の孤独と沈黙には慣れましたが、教会からの孤立感と虚無感、何かをする意欲の消失はどうしても拭えきれないのです。 どうしたらよいか?  私は妻の信仰を思いました。彼女の信仰は、われは在りて在る者(I am that I am.)といわれる父なる神、十字架のイエス、聖霊のお働きを、「吾信ず、只信ず」と幼子のように従順に信じ従う信仰でした。私の信仰はどちらかといえば理屈の多い信仰です。妻が今の私であったら、私ほどうろたえたり迷ったりしたであろうかと……? そうです、信仰とは理屈理論ではないのです。信じるか信じないかなのです。妻が天上からおろおろしている私を見て、笑っているでしょうね。そんな気がします。

 著名な評論家であった江藤淳さんも奥さんを亡くされ、いくばくもなく、あまりの虚しさに後を追って自殺しました。死を選んだ江藤さんのその胸中は、私には切ないほどわかります。日本の知性のような江藤さんにしてさえ最愛の妻の死には耐えられなかったのです。ですが、私は弱い者ではありますがキリスト者であり教会の末席に連なる者、自殺はしません。そんな勇気もありません。 私にあるのは何でしょうか。いかなるときでもキリストにあって生きる信仰です。あやまりのない神の言葉である聖書です。先週のメッセージで聖書の詩篇のみことばを覚えなさいと小西先生が言われたことを記憶しております。 私に示されたみことばは、詩篇119篇105節~107節です。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。私は誓い、そして果たしてきました。あなたの義のさばきを守ることを。私はひどく悩んでいます。主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。」 みことばが恵みとなって私を導きととのえてください。神のときの中で聖霊のお働きによってこの欠けだらけの土の器が迷いから立ち直り、文字通りみことばのとおりに生かしてくださることをかたく信じております。教会のみなさまの日頃の暖かい励まし、とりなしの祈りを感謝いたします。