2013年3月31日『主イエスの復活の意味』(ルカ23:50~24:12) | 説教      

2013年3月31日『主イエスの復活の意味』(ルカ23:50~24:12)

 新約聖書には4つの福音書があって、それぞれ主イエスが地上で過ごされた様子が描かれていますが、福音書は主イエスの伝記ではありません。福音とは、良い知らせという意味ですが、主イエスの生涯を通して私たちに与えられている素晴らしいメッセージです。別の言い方をすれば、福音書は主イエスの生涯についていろいろな情報を与える書物ではなく、主イエスに対して私たちがどのような道を選ぶのか、私たちにチャレンジする書物です。福音書の中心は主イエスの十字架と復活です。そのために、どの福音書も十字架と復活に非常に多くのページを割いています。今日は主イエスの復活をお祝いする日、イースターです。死んだ者が蘇るという教えは、2000年前の科学があまり発達していなかった時代の人々にとっても信じられないことでした。しかし、主イエスの復活は当時、多くの人々の生き方を変え、何よりも、世界の歴史を動かし、当時最強の国であったローマ帝国の大迫害にも打ち勝つほどの力を与えました。主イエスがユダの裏切りによってローマの兵たちたちに逮捕された時、弟子たちは皆逃げて行きました。ペテロは3回も主イエスを知らないと言いました。しかし、そんな弟子たちが、主イエス復活によってすっかり変えられ、自分の信仰を貫いて殉教しました。彼らがこのように変わったのも、主イエスの復活を目撃したからです。主イエスの復活は、私たちにとってどんな意味があるのか、共に考えたいと思います。

 主イエスの十字架刑は本当に残酷なものでした。自分たちの宗教が衰退することを恐れて人々の心を引きつけていた主イエスを邪魔者だと感じて十字架刑にすることに必死になっているユダヤ教指導者たち、イエスには死刑に値するような犯罪が見つからないことを何度も宣言しておきながら、ユダヤ教指導者や群衆の脅迫の言葉に負けて、裁判官としての自分の責任を放棄して主イエスを死刑にしてしまったローマ総督ピラト、十字架の上で苦痛と恥を味わっていた主イエスを嘲笑い、罵るローマの兵隊や群衆。人間の内面に潜む恐ろしいほどの邪悪な心がいやというほど見せ付けられる主イエスの十字架です。ある人は、その姿は、大人の身勝手な理由で虐待を受け、いのちを落とした幼子のようであると言います。弱い立場の者が、強い立場の人間によって虐待され、弄ばれて、殺される。このような人間の残酷さは人間の歴史のはじめから今日にいたるまでずっと続いています。主イエスの十字架は、人間の悪意や憎しみや嫉妬、残酷な心、そのようなものを全部受け取ったものです。しかし、主イエスの場合は、それを自分から進んで私たちのために身代わりとなって受け取ってくださいました。十字架の光景には、憎しみや妬みがうごめいていましたが、中には、主イエスの十字架を通して神様からの恵みを受け取った人々もいました。主イエスは、39回の鞭打ちを受けた後、十字架を背負わされて、ローマ総督ピラトの官邸から十字架が立てられるゴルゴタの丘に向かって歩き始められました。体がボロボロであったので、主イエスは何度も倒れ、途中で十字架を運ぶことができなくなりました。その時、たまたまそばにいたクレネ人(エチオピア人)のシモンがローマ兵の命令で代わりに十字架を背負って歩くことになりました。彼は主イエスと一緒に歩きました。周りに集まっていた群衆は、主イエスに嘲りの言葉を浴びせています。恐らく主イエスはこのシモンという男に愛にあふれた言葉を掛けられたことでしょう。イエスの地上の生涯の最後の何分間か、シモンは主イエスと二人きりの交わりという宝のような時間を過ごしました。彼はこの間にイエスを信じました。マルコの福音書を見ると彼にはアレキサンデルとルポスという息子がいました。そして、ローマ人への手紙の最後のところで使徒パウロは「主に選ばれたルポスによろしく」と挨拶を書いていますが、このルポスはクレネ人シモンの息子と見なされています。また、十字架刑の執り行っていたローマの兵士たちのリーダー百人隊長は、主イエスが十字架を担ぐ姿、十字架に貼り付けになる姿を目撃し、主イエスが十字架の上で語られた言葉を聞いていました。ユダヤ人の群衆や兵士たちは、イエスを嘲っていましたが、この百人隊長は、主イエスが息を引き取った後に、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と証言しています。さらに、イエスと一緒に十字架に付けられた犯罪の二人のうちの一人は、最初は、イエスを罵っていましたが、十字架の上でのイエスの様子を見、イエスの言葉を聞いて彼も、主イエスに心が開かれました。彼は十字架刑になるほどの極悪人です。一般の人々にとっては生きている資格のない人間でした。しかし、彼は死ぬ直前に、自分がしてきたすべての悪事を認めて、主イエスに「イエス様、あなたが天国に行かれる時には、私を思い出してください。」と言いました。すると、主はこの犯罪人に向かって「あなたがそのような思いでいるのであれば、今、あなたは私とともにパラダイスにいる。」と言われました。このように、主イエスの十字架は、人間の心の様々な悪を集大成したような出来事でしたが、その中でも、主イエスに心が開かれた人々は、その十字架によって新しい人生が開かれました。

 主イエスによって人生を変えられた人がユダヤ人の指導者の中にもいました。一人はアリマタヤという町に住んでいたヨセフです。彼はサンヘドリンと呼ばれるユダヤの最高議会のメンバーでした。密かに主イエスを救い主として信じていました。主イエスは逮捕された後、ユダヤの最高指導者である大祭司カヤパの家で主イエスを死刑にすることを決めて、死刑を宣告する権利を持っていたローマ総督ピラトのところへ国会議員全員でイエスを連れて行きました。(23:1)ですから、恐らく、この時、アリマタヤのヨセフはたまたまいなかったのか、あるいは意図的に呼ばれなかったのか、いずれにせよ、その場に居合わせなかったようです。彼は、後で、国会議員たちが主イエスを死刑にしたことを聞いて愕然としたでしょうが、もう彼にはそれを止めることはできませんでした。彼は、それまで、国会議員ということで自分の信仰姿勢をはっきりさせていなかったと思いますが、イエスの十字架を見て彼は自分の信仰をはっきりさせる決心をしました。それで、彼はローマ総督ピラトのところへ行って、イエスの遺体の引取りを願い出ました。そのようなことをすれば、彼が国会議員の地位を失うことは明らかです。しかし、ピラトが自分の地位を守るために、罪がないことを知りながらイエスを死刑にしたのとは違い、ヨセフはこの世の地位を失う危険を犯しても、救い主として尊敬していた主イエスの遺体を自分の墓に埋葬することに決めました。ユダヤでは土曜日が安息日でどんな仕事もしてはいけないのですが、安息日は金曜日の日没から始まるので、ヨセフはとても急いでいました。またヨハネの福音書を見ると、この時、同じ国会議員のニコデモという人も、当時の習慣で遺体に塗る香料を30キロばかり持ってやって来ました。二人は、急いで、十字架から主イエスの遺体を下ろして、香料と一緒に亜麻布で巻きました。ニコデモは、かつて人の目を恐れて夜、一人で密かに主イエスのところに来て、いろいろな質問をしました。しかし、彼も、主イエスの十字架を見て、自分の信仰を隠すことをやめて主イエスの教えを実践する人になることを決心したのです。これらの人々はイエスの十字架を目撃したことがきっかけで人生を変える決心をしましたが、彼らは、主イエスが、み言葉や主イエスご自身の言葉で預言されていたように、三日目に復活することを知りませんでした。皆、主イエスの十字架の死を悲しみました。彼らは希望を失っていたのです。

 土曜日は安息日ですから、何事もなく、そして週のはじめの日曜日の朝が来ました。イエスの体に塗る香料と香油を用意した女たちは、明け方早くに、準備した香料を持ってイエスの遺体が収められている墓へ急ぎました。この女性たちは、主イエスが神の子としての働きを中心的に行われたのは北のガリラヤ地方でしたが、そこから主イエスについてエルサレムに来ていた女性たちです。彼女たちは、ヨセフについて行って、亜麻布に包まれたイエスの遺体が、ヨセフが用意した新しい墓に入れられる様子をじっと見守っていました。そして、彼女たちは、家に戻ると、主イエスの遺体にもっと丁寧に香油と香料を塗るために準備をしました。急いで埋葬されたためにイエスの遺体の処理が十分ではなかったので、安息日が終わったら、墓に来て遺体に香料を塗ろうと考えていたのです。当時の墓は岩に掘られた小さな部屋のような穴の中に柩を収めました。そして、入口は大きな石で蓋をして封印をしました。彼女たちの不安は、どのようにして大きな石の蓋を開けることができるだろうかということでした。その時、マタイの福音書を見ると大きな地震が起こりました。主イエスが十字架で息を引き取る時も地震がありましたが、イスラエルでは大きな地震は300年に1回しか起こっていません。この時に3日間に2度も大きな地震が起こったので、ユダヤ人たちはどれほど驚き、不安を感じたことでしょうか。彼女たちが墓に着くと、心配していた石は墓から脇にころがしてありました。

 その時、戸惑っていた女たちの前に御使いが現れると、彼女たちにこう言いました。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で探すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」御使いは、彼女たちが、主イエスが以前言われた言葉を忘れていることを指摘しました。「まだガリラヤにおられたころ主イエスがお話になったことを思い出しなさい。主は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目に蘇ると言われたでしょう。」この言葉を聞いて女たちは主イエスから聞いた言葉を思い出しました。ただ、主イエスは例えで話すことも多かったので、彼女たちは、その言葉の意味がよく分からなかったと思います。しかし、今は、その時語られた主イエスの言葉の意味がはっきり分かりました。そして、彼女たちは、急いで11人の弟子たちのところへ行って、自分たちが見聞きしたことを弟子たちに話しましたが、弟子たちの信仰の目も閉ざされていて、彼女たちの言葉を戯言と思って、彼女たちの言葉を信じませんでした。このように、主イエスの復活という出来事は2000年前の人間にとっても信じがたいことでしたが、その後、復活の主は、疑い深い弟子たちの前に現れてくださったので、彼らもようやくイエスの復活を信じ、そして喜びに満たされました。希望を失っていた弟子たちに復活のイエスが新しい希望と新しい使命を与えられたので、イエスが復活から40日目に天に登って行かれた時、弟子たちは、主イエスが離れて行かれたことを悲しむのではなく、むしろ非常に大きな喜びに満たされ、その後、彼らは、いつもエルサレムの神殿に行って、神様を礼拝し、賛美していました。

 このように弟子を変えた主イエスの復活は私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。イエスの弟子たちさえ、十字架のイエスを見て、絶望していました。人間の心のあらゆる醜いものの犠牲になってイエスは、恥と悪の象徴であるローマの十字架刑で死にました。イエスに敵対する人々は皆、これですべてが終わったと思いました。イエスの弟子たちでさえ、すべてが終わったと思いました。この世の悪が愛の大切さを訴えたイエスを滅ぼしたかのように思えました。しかし、実際には、すべてが終わったのではなく、ここからすべてが始まって行くのでした。キリストの復活、父なる神が主イエス・キリストを死から復活されました。それは、神様が、人間の悪巧み、人間の陰険な行為のすべてを打ち砕いたことを表しています。ユダヤ教の大祭司であろうと、ローマ総督ポンテオピラトであろうと、ローマ皇帝であろうと、どんなに人間が悪を働いても、神の前にはまったく無力であることを、神様は、主イエスの復活によって示されました。神は人よりも強く、神は悪・罪よりも強いお方です。
 私たちが生きるこの世界は神様によって創られた世界であり、私たち人間も皆、神様によって創られた者です。神様はすべてのものを良いものとして創られたのですが、最初の人間が神様に反抗して神様の掟を破ったことによって、人の心に罪が入り、この世は罪が支配するようになってしまいました。主イエスを十字架につけたのはそのような罪に支配された人間たちの悪意、憎しみ、傲慢でした。悪に満ちあふれたこの世がイエスを葬りました。しかし、そのイエスを神が復活させられたことは、神様が、よいものとしてお創りになったこの世界を最終的には良いものにする力を持っておられることを証明されたことになります。クリスチャンは、現実の罪と悪がどのようなものであっても、最後に残るものは、良いものであり、良い世界であると信じて、いつも希望を持って生きています。そして、主イエスの復活は死をも滅ぼしましたので、クリスチャンも死はこの世の終わりではなく、神様が用意されたまったく新しい世界の始まりであることを信じています。あなたは、主イエスの復活に対してどのように生きる道を選ばれるでしょうか。 
 

 

2013年3月
« 2月   4月 »
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31  

CATEGORIES

  • 礼拝説教