2017年1月1日『失われた者を捜す救い主』(ルカ19:1-10) | 説教      

2017年1月1日『失われた者を捜す救い主』(ルカ19:1-10)

 明けましておめでとうございます。2017年に入りました。世界の情勢は各地でテロリストが活動し、地震など多くの自然災害が起こり、戦争や内戦があり、多くの人が生活の場を失ってさまよっています。主イエスが2000年前に預言していた世の終わりの姿にますます似てきたように思います。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」(マタイ24:7)また、この預言の後イエスは言われました。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」聖書のメッセージは世界が始まった時から変わっていません。それは神を信じる者は決して滅びることがないというメッセージです。今のような不安な時代こそ、神の言葉には力があります。この一年も、ルカの福音書を通して、神様についてもっと深く知りたいと思います。今日の聖書箇所には、ルカの福音書のテーマそのものと言える出来事が記されています。今日の箇所では、主イエスがエリコという町でザアカイという取税人との出会いが記されているのですが、この出会いは、主イエスが十字架にかかる前の最後の個人的な出会いです。

 エリコは、死海の北にある大都市で、ヨルダン川とエルサレムに通じる道の交差点にもなっているため古くから栄えていました。世界で最も古い時代に作られた町の一つで、今も行われている発掘作業は10000年前にまでさかのぼるそうです。エリコを取り囲む山は緑ではなく茶色の岩山で、周囲も砂漠に近い状態です。しかし、エリコには大きなオアシスがあるので、エリコの街中には緑の木がたくさん生い茂っています。当時ローマ帝国に支配されていたユダヤ人たちは、ローマに税金を支払う義務がありました。当時のイスラエルの三大都市は、ガリラヤ湖畔のカペナウムとエリコとエルサレムでした。3大都市の一つエリコで取税人の長として働いていたザアカイは、非常に裕福でした。取税人は貧しい住民から税金を絞りとって、税金を払えない人には金を貸して借金を作らせるなど、あくどいことも行われていたようです。ザアカイはそういう取税人たちの頭だったわけですから、やくざの親分のような生き方をしていたのではないでしょうか。もちろん、人々からは嫌われていました。誰もザアカイに逆らうことはできなかったでしょうが、心の中では、彼を軽蔑し憎んでいたはずです。そんなザアカイが住むエリコに主イエスがやって来ました。人々は噂を聞いて、イエスを一目見ようとイエスが通る道沿いには大勢の人が集まっていました。3節に「彼は、イエスがどんな方か見ようとした」と訳されていますが、ギリシャ語では、「彼はイエスがどんな方か見たかった」と書かれています。ザアカイは、イエスに会いたいと思いました。なぜ、彼はイエスに会いたかったのでしょうか?彼は、イエスの弟子マタイからイエスのことをあれこれ聞いていたとのではないでしょうか。マタイは、イエスの弟子になる前は取税人として働いていました。ザアカイの仕事仲間です。イスラエルは小さな国ですし、取税人は人々から嫌われていたので、取税人仲間としか付き合わなかったので、マタイから直接聞いたか、それともマタイの仲間たちからイエスの噂を聞いたのかもしれません。また、主イエスは、社会の中で立場の弱い人、罪の生活をしている人、肉体的なハンディを持っている人には特別に優しさを表しておられたので、一般の人々からは「取税人と罪びとたちの友」と呼ばれていました。ザアカイは、そんな噂も聞いていたはずですから、イエスがどんな方なのか見てみたかったのでしょう。また、彼はお金には困っていませんでしたが、仕事柄、人々からはいつも嫌われ、冷たい視線を向けられていたので、どことなく心の中にむなしいものを感じていたかもしれませんし、いつも人々から冷たいし視線を投げかけられることに疲れていたということもあるでしょう。他人の目から見ると、うらやましい生活をしているように見えたと思いますが、彼の心の中では、自分の人生がこのままでいいのかと不安を感じることもあったはずです。とにかく、ザアカイは、主イエスに会ってみたかったので、イエスが通る予定の道沿いに行って見ました。ところが、悲しいことにすでに道沿いには大勢の群衆が集まっていたため、彼には通りの様子が見えませんでした。もちろん、ザアカイのために場所を譲ってくれる人はいません。むしろ、彼に群衆の中に入らせないように人々はわざと邪魔をしていたと思います。いつもの恨みをこの時ばかりと晴らしていたことでしょう。ザアカイはイエスに会うのをあきらめたでしょうか。あきらめるどころか、何とかイエスに会える方法はないかと、あれこれ考えていたはずです。彼はグッドアイデアを思いつきました。4節に「イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。」と書かれています。彼は取税人の頭ですから、おそらく年齢は50歳以上だと思います。これぐらいの年齢の人はあまり人前で走りません。ゆっくり歩くほうが威厳がありますから。しかも、彼はいちじく桑の木に登りました。会社の社長ややくざの親分は木登りなんかしません。これまで社会からのけ者にされてただ金儲けだけに生きてきた男が、ここではイエスに会うために子供のようになって走り、木に登っています。主イエスは「幼子のようにならなければ天国に入れない」と言われましたが、私たちは、どうしても周囲の人の目が気になって、格好つけたり、周囲の人に合わせるために自分のやりたいように行動できないことが多いのですが、その姿勢は神様の祝福を受けるためには妨げになります。

 いちじく桑はこの地域に特有の木ですが、幹が太いくて短く、太い枝が広がっているために木登りがしやすい木でした。しかし、やくざの親分のようなザアカイが木に登って木の枝に腰かけて上からそっとイエスを見ようと見降ろしている姿は、周囲の人の目にはこっけいに見えたかもしれません。ただ、イエスはザアカイがどんな気持ちでその木に登ったのか全部知っておられました。彼はどきどきしながらイエスが来るのをイチジク桑の木の上で待っていました。近づいて来た主イエスは、そんなザアカイに向かって「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われました。主イエスは、ザアカイが金持ちではあっても喜びがない孤独な生き方をしていることを知っておられたので、あえて「ザアカイ」と名前で呼ばれました。全知全能の主イエスです。「あなたの家に泊まることにしてあるから。」と訳されていますが、ギリシャ語では、私は今夜あなたの家に泊まらなければならない」と書かれています。イエスは、「あなたの家に泊まりたい」と言ったのではありません。「泊まらなければならない」と言われました。イエスは、「この日私がエリコに来たのは、ザアカイ、お前の人生を新しくするためにだったのだよ。」と言われたのです。
 そう言われたザアカイは、大喜びで木から下りて、イエスと弟子たちを自分の家に案内しました。もしかすると、この時、エリコの町の有力者たちはイエスを歓迎するために何かをしょうと考えていたかもしれません。ところが、こともあろうに、主イエスは、悪人で名高いザアカイの家に行かれました。彼らのイエスに対する熱狂的な思いは一気にさめて、逆にイエスを批判的に見るようになりました。しかし、罪人のザアカイの家の中には、言葉で表せないほどの喜びがあふれていました。彼の人生に喜びがあふれる前に、ザアカイは救い主であるイエス、旧約聖書では「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれていたイエスを自分の家に迎え入れ、心の中にイエスを迎え入れていました。それが彼の喜びの源でした。

 彼はイエスを信じてから人生観、価値観がすっかり変わりました。今までは、お金を稼いで財産を増やすことだけを考えて生きてきました。そのためには平気で人をだまし、また苦しめてきました。彼は表向きは、自分の権力や財産の力を見せていましたが、心の中には寂しさや将来への不安を感じていたに違いありません。その彼が、心の中に喜びが満ち溢れ、あれほど大切に考えていたお金や財産はどうでもよいものになりました。それで、イエスと弟子たちと一緒に食事をしている時に彼は立ち上がって言いました。「「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」彼には、もうお金への執着はすっかり消えていました。財産の半分は貧しい人々のためにささげ、人からだまし取ったものについては4倍にして返すことを宣言しました。旧約聖書には、人からだまし取ったものを返す時には2倍にして返すことが決められていました。しかしザアカイはそれ以上に返すことにしました。その結果、彼の財産はほとんど消えたと思います。彼は、恐らく、イエスと出会った後も取税人の頭として仕事を続けたと思いますが、今までとはまったく違った働き方をしたと思います。税金を集める仕事は簡単な仕事ではありません。また、お金を扱う仕事のため誘惑も多くあります。しかし、彼はその中でクリスチャンとして清く正しく、そして神と隣人を愛する生活をすることによって、人々に救い主イエスを信じることの素晴らしさを伝えて行ったと思います。

 主イエスは、ザアカイを見て言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」アブラハムとは、最初のユダヤ人で、神様はアブラハムから生まれる子孫に祝福をもたらすことを約束しておられました。すべてのユダヤ人は自分がアブラハムの子孫であることを誇りに思っていました。彼らから見ると、ザアカイは、外国人の国ローマ帝国のために働き、自国民のユダヤ人から税金を不正に取り立てているので、とてもアブラハムの子孫とは言えない人物でした。しかし、主イエスは「彼もアブラハムの子孫」だと認めて、イエスを信じるならばアブラハムに約束された祝福を当然与えられる人であることを皆の前で宣言されました。そして、自分が人となってこの世に来たのは「失われた人を捜して救うため」であったと言われました。「失われた人」とはどんな人を意味するのでしょうか。英語では「lost」という言葉が使われていますが、これは「迷子」という意味を持っています。こどもが迷子になるのは、親から離れてしまうからです。親から離れると子供はとても不安になってすぐに泣きだします。聖書は、神から離れている人間は迷子だと教えています。迷子だから、不安を感じます。寂しさを感じます。恐れを感じるのです。新約聖書で「罪」と訳されている言葉はギリシャ語では、「ハマルテイア」と言います。この言葉のもともとの意味は「的外れ」という意味です。弓の矢は的に命中すると点数になりますが、的外れると0点です。聖書が教える罪というのは、神から離れて生きることなのです。的が外れている人は的のところに行けば良いのです。迷子の子どももお母さんを見つけてお母さんに抱かれるともう何も問題ありません。それと同じように、私たちも、神様のもとに戻るときに、本当の平安、本当の喜びを経験することができます。ザアカイも、主イエスを信じて自分の家に招いた時から新しい人生が始まりました。あなたも、2017年、主イエスを信じて新しい人生を歩んでみませんか。

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