2018年11月18日『私たちを待つ永遠の世界』(黙示録21章1~8節) | 説教      

2018年11月18日『私たちを待つ永遠の世界』(黙示録21章1~8節)

 今日は、召天者記念礼拝ですので、聖書の箇所は天国のことを記した黙示録の21章1節から8節を取り上げます。ほとんどの人は、神様を信じる信じないに関わらず、人が死んだ後には、天国や地獄があると考えています。自分の愛する人が亡くなったら、その人は消えてしまったのではなく天国にいると考えます、というか、天国にいることを期待しています。その人は地上の人生を終えて消えてしまったとは思いたくありません。では、なぜ人は死んだ後に天国や地獄があると考えるのでしょうか?聖書にはちゃんとその答えが記されています。旧約聖書の伝道者の書に次のような言葉があります。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」私たち人間は、神様によって創られ、そして永遠を思う能力が与えられているのです。聖書は、人は神のかたちに創られたと教えています。神のかたちというのはただ外見のことだけでなく、神様のような性質、神様のような能力が与えられていることを意味します。多くの人は進化論を絶対的なものと考えていますが、よく考えてみると進化論では説明のできないことがたくさんあります。ごく簡単に言えば、進化とはすべて偶然の働きです。細胞が分裂していくうちに、不思議なことに今の私たちの体のような本当に素晴らしい体が現れるのです。それは、例えで言えば、腕時計をバラバラに分解して、バラバラになった部品を放り投げたら、また元の腕時計ができるようなもので、どう考えてもあり得ません。人間の体がこんなに素晴らしく創られて生まれるのは、そのような設計図があり、それに従って細胞が働くからです。その設計図を描いたのは神様としか考えられません。先日NHKの「ためしてガッテン」で人間の体の免疫力がテーマになっていましたが、人間の体が持っている免疫システムは本当にうまくできていることを教えていました。一人の大学教授が、人間の体は神様によって創られたとしか思えないと言っていました。偶然の進化の中で、私たち人間がすべて永遠に関する思いを持っていることは進化論では説明できません。また、私たちの心には共通の善悪の基準を持っています。これも、偶然の結果の進化論では説明できません。私たちは、神様によって創られたからこそ、永遠に対する理解があり、誰もが良いことと悪いことの基準を持っているのです。
 聖書では、私たち一人一人は神様の作品であると書かれています。たまに、人間の親には望まれないで生まれてくる人がいますが、神様に望まれないで生まれた人は一人もいません。一人一人が神様にとっては特別に大切な一人です。そして、地上の生活においても、私たち一人一人と関わってくださる神様であり、また、地上の生活が終わった後は、天国において、私たちはまったく新しい神様との生活が待っています。今日は、特に、地上の生活が終わった後の天国の生活がどのようなものか、聖書に書かれていることに基づいて考えて行きたいと思います。

 1節には「以前の天と以前の地は過ぎ去り」と記されており、4節には「以前のものが、もはや過ぎ去った」と記されています。ここで強調されていることは、古いもの、以前のものは過ぎ去る時が来るということです。この黙示録を書いたのはイエスの弟子のヨハネのという人物ですが、彼は1節で「新しい天と新しい地とを見た。」と言っています。「新しい」という言葉には2つの意味があります。一つは古くはない、新鮮であるという意味です。例えば「新しい魚」という場合です。もう一つは「まったく性質の違うもの」という意味で、例えば「新種の魚」とか「新型の車」という時の「新しい」です。ここで言われている新しい天と新しい地というのは、まったく性質の違うものという意味です。神様は私たちが整った環境で生活ができるようにこの世界を作ってくださいましたが、聖書によれば、この世界はいつか過ぎ去る時が来ます。科学においても、将来太陽が巨大に膨れ上がって、地球はいつか溶けてしまうと見られていますが、聖書は、この世界はいつか過ぎ去る時が来ることを2000年前から預言していました。しかし、神様は、古い世界が過ぎ去った後にまったく新しい世界を創られるのです。
 1節の終わりに「もはや海もない」と書かれていますが、なぜ、新しい天国に海がないのでしょうか。このことは、現在の地球ではその表面の4分の3が海であることを考えると、ちょっと不思議です。地球が他の星と違うのは、そこに水があり海があるからです。海はすべてのいのちの源であり、すべての生き物が人間をも含めて海や水に頼っています。また、海がないのですから雲ができたり雨が降ったりという現在の気候とはまったく異なる気候でしょう。いずれにせよ、神様が創られる新しい天・新しい地は現在とは全く違う世界なのです。また、聖書では、海はもともとあまり良いものとしては描かれていません。海から悪い獣が現れるという幻が聖書の中に何回か出てきます。私も一度夜の海辺で波が打ち寄せる様子を見ていたことがありますが、暗闇の沖のほうに白い波が浮かぶと何か飲み込まれるような感じを抱いたことがあります。そのような意味で、もはや新しい天には人を恐怖に陥れるようなものがないことをも意味していると思います。
 2節には「聖なる都新しいエルサレムが夫のために飾られた花嫁のように整えられて神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」と書かれています。新しい天、新しい地についてもう少し詳しい描写が描かれています。新しい天が新しいエルサレムと呼ばれています。ただ天国と言うとあまりにも漠然としていますが、天国が新しいエルサレムというのは、天国は、今、私たちが生活している都市と同じような社会的な構造を持っている場所、住むための場所だという意味だと思います。一つの都市で生活をすると、そこには他の人々との交わりがあり、いろいろな活動があり、また果たすべき責任があり、互いに助け合うということがあります。天国も、そのような場所であることをエルサレムという都市で表しています。地上のエルサレムでは、いろいろな人間の罪や悪があり、争いや不正なことが起きています。しかし、新しい天は聖なる都です。なぜなら、そこに住む人はすべて神様によって聖なる者とされているからです。私たちは、主イエスを救い主として信じる時に、過去のすべての罪は赦されますが、実際の生活では、100%聖なる者として生きることはできません。神様の教えに反することを行ったり、神様の願ってはいないような生き方をすることが多いです。その都度、私たちは神様の前に悔い改めるのですが、私たちが地上の生涯を終えて新しい天に受け入れられる時に、私たちの内側が聖なる者に変えられると聖書は教えています。ですから、天国においては一切の争いや憎しみや、痛みや苦しみがないのです。私たちは、神様を信じて生きていても、この世では、いろいろなところで、人間の罪による痛みや苦しみを経験します。この世では、ほかの人々の悪意によるいじめや裏切りや憎しみなども経験します。そのために人の心には傷があります。しかし、神を信じる者には希望があります。私たち自身が新しくされ、そして聖なる都で新しい生活をするのです。そこには、悪に関するものは何一つありません。地上で経験するような嫌なことは何一つない世界なのです。

 3節と4節には、新しい天で私たちと神様がどのような交わりを持つのかが記されています。2節に新しいエルサレムが夫のために飾られた花嫁のように整えられて天から下って来たと書かれていますが、もちろん、それは新しいエルサレムが美しさに満ちている場所であり、同時に喜びに満ちた場所であることを表していますが、それだけではありません。3、4節の言葉とつながっていますが、花嫁も花婿も、結婚式においては誓いの言葉を述べます。元気な時も病気の時も、裕福な時も貧しい時も、一生相手に誠実を誓って相手との関係を結びます。そのように、神様は、永遠に私たちの神として私たちとともに生きることを誓っておられるのです。それをはっきり示しているのが3節の「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」という言葉です。幕屋とはテントのことですが、実は、旧約聖書のモーセの時代、イスラエルの民の中心に大きな幕屋がありました。そこは神様がおられる場所でした。旧約聖書の時代、誰も神様を直接見ることは許されず、人々はその天幕に昼は雲の柱が現れ、夜は日の柱が現れて神様が自分たちとともにいることを知りました。神様と直接交わりが持てるのはモーセだけでした。今も、私たちは、神様がともにおられることを感じることができます。聖書の言葉を読むときに、聖書の言葉がまるで自分に語られているように感じる時があります。また、どうしようもなくて神様に祈る時に、不思議に自分の問題が解決するのを経験すると、神様が自分のすぐそばで働いておられるのを感じます。しかし、目には見えませんから、やはり、その交わりは完全なものではありません。しかし、天国においては、神様が私たちとともに住んでくださり、私たちは神様の民となると約束されています。例えで言えば、天皇陛下と一緒におしゃべりしながらご飯を食べたりするとどんなものなんだろうと想像しますが、今は少し遠い存在である神様が、自分の目の前におられる、それはどれほど頼もしく、またどれほど楽しいものでしょうか。
 4節には、神様が「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。」と書かれています。これは、私たちが天国に泣きながら行って、そこで神様が涙を拭いてくださるということではありません。天国には、もはや涙を流すような悲しいことは何一つないことを意味しています。地上の生活では、私たちは涙を流すことは数多いでしょう。しかし、地上においても、悲しみの時に慰めを与えてくださる神様がいます。讃美歌「いつくしみ深き」の作詞者は、自分の結婚式の日に結婚式場に向かっていた婚約者が乗っていた船が沈没して婚約者を失いました。私たちには想像することもできないほどの悲しみを経験していたことでしょう。しかし、その中で、彼は「いつくしみ深き友なるイエスは、われらの弱きを知りてあわれむ。悩み悲しみにしずめる時も、祈りに応えて慰めたまわん。」と歌いました。一人では乗り越えられない悲しみを神様が慰めて彼を助けてくださったのです。クリスチャンは地上においてこのような神様からの助けや慰めを経験できることは本当に感謝なことですが、天においては、そのような悲しいことは何一つありません。4節に書かれているように、天国には、もはや死ぬことがなく悲しむことがなく、叫ぶことも苦しむこともありません。なぜなら以前のもの、この世のものはすべて過ぎ去ってしまうからです。

 5節で、御座に着いておられる方が言われました。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」黙示録は主イエスの弟子ヨハネが見た幻を記したもので、ヨハネは幻の中でいろいろな声を聴いているのですが、天の御座についておられる方、すなわち父なる神自身の声を聴いたのはこの5節が初めてなのです。神様が何を言われたのか。それは、すべてを新しくするということでした。6節では、そして、これらは信ずべきものであり真実であると神様が宣言されました。今日は召天者記念の礼拝です。私たちの教会で信仰生活を過ごし、地上の生涯を終えて天に召された人々のことを思う時です。一人一人、地上の生活の状況は異なっています。すべての人が、この世的な基準で大きなことをしたわけではありませんし、ほとんどの人はごく普通の生涯であったと思います。しかし、聖書の約束は、イエス・キリストを死んでこの世を去る者は、この黙示録に記されている新しいエルサレムに移されて、体も心も栄光に満ちた聖なるものに変えられて、今までとは違って、神様と直接に交わりながらともに生活をする者になるのです。これこそがクリスチャンに与えらえる最大の希望です。先に召された方々は今それを実際に味わいながら生きておられます。主は言われました。「これらのことばは信ずべきものであり、真実である。」

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