2018年11月11日 『復活と結婚』(ルカ20章27-40節) | 説教      

2018年11月11日 『復活と結婚』(ルカ20章27-40節)

 今日の説教のテーマは死後の世界です。「死んだら終わり。すべてが無になる。」という人も多いですが、実際には全世界の様々な民族や人々の中に死後の世界を期待する考えがあります。エジプト人がミイラを造ったのもその現れでしょうし、古代ギリシャ人は死者の口の中に銀貨を入れていたそうで、それは、その死者が死の世界と新しい世界を隔てる川を渡る時の代金でした。アメリカのインディアンは、死者が生き返った時に必要な道具として弓矢や馬を一緒に埋葬していたとのことです。なぜ、人間は死後の世界を考えるのか、それは、人間はそのように作られているからです。伝道者の書の3章11節に次のような言葉があります。「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」いつも言っていますが、人間は神様によって他の動物とはまったく異なった作り方をされています。物質的に言えば、人間も他の動物もそんなに違いがないのですが、人間だけが神のかたちに造られていて、そして、神の霊を吹き込まれて初めて生きる者となっているのです。
 旧約聖書も、死後の世界があることを繰り返し語っています。例えば、ヨブ記19章25-27節には次のように書かれています。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。」ヨブは、自分の肉体が死後よみがえって、その肉体の目で神を見ることを固く信じていました。また、ダビデも詩篇の16篇10節で「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」と告白しています。このように主イエスの時代のユダヤ人たちは、死後の復活を信じていました。ところが、例外として「サドカイ派」と呼ばれる人々は、死後の世界も死後の復活も、いっさい否定していました。サドカイ人は、エルサレムの神殿を中心とした祭司の家系の人々で裕福な上流階級でした。サドカイという名前の意味も不明なのですが、彼らはBC2世紀ごろに姿を現します。当時、イスラエルはアレキサンダー大王の死後、ギリシャ人の支配を受けていたのですが、ギリシャ人支配者がユダヤ教をなくしてユダヤ人をギリシャ人にしようとしたために反乱が起こって、、ユダヤ人が独立を獲得するということが起こりました。その後、イスラエルはローマ帝国の支配を受けるまでの100年間あまり独立しハスモン家という家系の王が支配する時代になります。その時に古い祭司たちが排除されて、新しい祭司が選ばれます。この祭司たちはハスモン家を支持するグループになり政治的な影響力を持つようになります。この人々がサドカイ派の人々になります。彼らは権力者の側の人間であり、パリサイ人は民衆の宗教指導者という立場だったので、イエスの時代は、この2つのグループの主導権争いが続いていました。彼らの信仰は、「モーセ5書」と呼ばれる旧約聖書の最初の5つの書物に記された律法だけを神の権威の言葉として受け入れていたので、そこに書かれていない死後のいのちや復活という教えを完全に否定していました。主イエスが、友人のラザロを死からよみがえらせるという奇跡がありましたが、その時主イエスは言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」そしてラザロはよみがえったのですが、この奇跡を見て多くの人がイエスを信じました。サドカイ派の人々はこれに強い危機感を感じました。ヨハネの福音書の12章9-11節に次のようなことが記されています。「大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。」彼らは主イエスの教えと奇跡の業を見て非常に強い危機感を感じていました。

(1)サドカイ人の質問
 サドカイ人たちは政治的影響力を持っていました。ユダヤの最高議会サンヘドリンは70人のメンバーで構成されていましたが、多くはサドカイ人でした。彼らは国会とエルサレムの神殿の勢力を抑えていたので、数は少なかったのですが、影響力が大きかったのです。彼らは死後の世界も復活も信じていなかったので、彼らは、生きている時代、この世の生活のことだけに関心を持ち、この世の権力や財産、高い地位や影響力をつねに求めていました。そして、この世の力を得るためであれば、彼らはローマ帝国にも積極的に協力していました。今日の出来事の直前にはパリサイ人たちがイエスに難しい質問をしてイエスを罠にはめようとしましたが、彼らはイエスの口からローマ帝国に逆らうような答えを引き出すことによってイエスを陥れようとしていました。一方、パリサイ人たちは、復活に関してイエスが答えられないような質問をして、イエスが答えることができないのを民衆に見せることによって、民衆のイエスに対する信頼をなくさせようとしました。彼らの質問には、旧約時代のユダヤ人の間で行われていた一つの習慣が関係していました。それは、旧約聖書の申命記25章5-6節に書かれていることです。「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。」ユダヤ人にとって家系、自分の家の名前は非常に大切なものでした。彼らは、自分たちが「~部族の、~の家系の~」であることを誇りにしていました。そのため、長男夫婦がこどもがいないままで夫が死んだ場合、その家系の本家の跡取りがいないことになってしまうので、長男の妻は夫の弟と結婚するように定められていました。イエスに質問をしたサドカイ人たちは、この習慣に絡んで、イエスに質問しました。実際にはありえない状況ですが、7人の男兄弟がいて、長男が結婚していましたが、子どもがないままで死んでしまいました。それで妻は次男と結婚しましたが、次男も子供のいないまま死んでしまい、そういうことが七男まで続いたというのです。そして、やがて、みんなが死んだ時に、天国ではこの女の人は誰の妻になるのかという質問でした。サドカイ人たちは、さすがのイエスでも、この質問には答えられないだろうと確信し、答えに困ったイエスを人々の目にさらして、イエスの評判を落とそうと考えたのです。

(2)イエスの答え
 マタイの福音書によると、サドカイ人たちの質問に対して主イエスは厳しく答えています。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」私たちの周りにも聖書のことを批判する人は多いですが、本当に聖書をきちんと読んで内容を理解しないままに批判する人が多いのです。主イエスの答えはシンプルです。主イエスは次のように答えられました。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。」ここでイエスが言われたことは、私たちが生きる時代には「この世」と「あの世」というまったく異なる世界があって、それぞれの世界では、人はまったく次元の違う生活をすると言うことです。もちろん、私たちは自分自身のアイデンティティはそのままで、他の人を見ても誰であるかが分かります。しかし、あの世にはもはや死ぬことがありません。ですから結婚して子孫を残す必要もないのです。そのため、あの世では夫と妻、親と子という関係はありません。これを聞いて「よかった」と思う人もいれば、「寂しいな」と思う人もいるでしょう。いずれにしても、わたしたちはキリストの栄光の姿に帰られているので誰に対しても私たちは地上とは全然違う愛をもって愛しあう仲間となります。36節には、あの世での私たちがどのようなものであるか3つのことが語られています。1)もう死ぬことができない者であること。2)み使いのような者になること。そして3)復活の子として神のこどもであることです。死ぬことがないということは体が老化することもないということです。髪の毛が薄くなったり白髪になったりすることもなく顔にしわがふえることもありません。また、わたしたちがみ使いのようになるということは、知力においても体力においても今よりもはるかに優れた者になることを意味しています。預言者の幻によくみ使いが登場しますが、み使いは何をしているかと言うと、神様に仕えて働き、神様を礼拝して賛美しています。私たちは、み使いのように、天国では神様のために働き神様を賛美する者となるのです。また、み使いのようになることは一切の罪の性質から解放されることを意味しますので、私たちは、もはや自己中心な欲望や考えを持つことなく、争いや憎しみもなく、傲慢なることも気持ちが落ち込むこともありません。私たちは復活して神の子どもとなります。第一コリント15章に記されているように、私たちの体も弱い体から強い体へ、卑しい体から栄光ある体へと変えられて、私たちは神のことどもとして神様との完全な交わりの中に入れられます。サドカイ人たちは、この世の生活と復活の後の生活が全く違うことを知らなかったために、非常に愚かな質問を主イエスにしていたのでした。
 さらに、主イエスは、サドカイ人たちが聖書と認めていたモーセ5書の記事も取りあげて、復活を信じない彼らに反論しています。37節を読みましょう。「それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。』と呼んで、このことを示しました。」これはモーセ5書の中の出エジプト記の3章に記されている出来事なのですが、エジプトで苦しむユダヤ人を救いだすリーダーとして神がモーセを呼んでいる箇所です。出エジプト記の3章5節で、神様はご自分のことを「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と言われました。細かいことですが、もし、モーセの時代にアブラハム、イサク、ヤコブという先祖たちが死んでいたならば、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」と言うほうが正しいと思います。死んだ人間がすでに存在していないならば、そのような人間はもはや神を礼拝することはできません。だとすると、神がそのような人々の神であるということはおかしいのです。このことからも、人は死ぬことによってその存在がなくなるのではないことが明らかです。
 マルコの福音書によると、主イエスがサドカイ人の質問に答える時に、最初に「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」と言われました。サドカイ人たちが自分は信仰者だと思っていたとしても、実際には聖書の言葉の意味も神の力も知らなかったのです。私たちはどうでしょうか。聖書の言葉と神の力を本当に知っているのでしょうか。聖書の約束は永遠に変わることはありません。その約束を受け取るかどうかは私たちにかかっているのです。あなたは聖書の言葉、聖書の約束を信じますか?本当に信じますか?それなら、神ご自身が言われます。神様があなたの右の手を固く握って、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。虫けらのような者よ。」と言う言葉はあなたのために語られているのです。神様と比べると、私たちは虫けらのような者です。しかし、神様は恐れるなと言われるのです。

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