2019年9月1日 『苦しみの中にある神の計画』(ルツ記1章) | 説教      

2019年9月1日 『苦しみの中にある神の計画』(ルツ記1章)

(1) 今日から、4回にわたって旧約聖書の中にある小さな書物「ルツ記」を取り上げます。本全体で4つの章しかない小さな書物ですが、この中に記されたストーリーの中にも、イエス・キリストにつながる神様の計画が現れています。ルツという書物の名前はこの書物の主人公であるルツと言う女性の名前から取られています。旧約聖書の時代は、完全に男性社会ですので、女性が主人公であるストーリーもまた女性の名前が書物のタイトルになっているのも非常に珍しいことです。しかも、この女性はユダヤ人ではなく、モアブ出身の異邦人でした。当時のユダヤ人は異邦人を犬と同じように低く見ていましたので、異邦人の女性の名前が聖書の書物になっていることはとても不思議です。しかし、このことは、神様がすべての人を心に留めておられ、全世界のすべての人が神様を知ることを願っていることから来ているように思います。ルツ記は旧約聖書で8番目の書物で、士師記の後に置かれています。士師記の士師は英語では「Judge」となっていて裁判官を意味します。イスラエルには当時、他の国のように王様がおらず、何か問題や困難が生じると、士師と呼ばれたリーダーが神様によって起こされて、そしてそのリーダーが問題を解決するという状況でした。ルツ記の出来事はそのような時代に置きました。士師記の最後は次のような言葉で締めくくられています。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」つまり、当時、人々は、神の教えに従わずに、めいめいが自分勝手に自分の都合のよいように生きていたということなので、信仰的には暗闇の時代でした。ルツ記の出来事も、そのような時代に、信仰的な失敗から生じた出来事ですが、しかし、人々の失敗の中にも神様は働いておられて、イエス・キリストがこの世に救い主として来られるための準備は少しずつ進んでいることがルツ記から知ることができます。

(1)問題から逃げようとする不信仰(1-5)
 ルツ記の時代は、イスラエルの民の不信仰が際立っていた時代で、そのために、イスラエルは周囲の国々からの侵略を受けたり、裏切り行為があったりして、一般の人々の生活は非常に苦しいものでした。そのような暗黒時代の中にも神を信じる人々がいて、ルツ記では、ナオミとルツという二人の女性を中心にした非常に美しい物語が展開します。この物語の発端は、イスラエルを襲った非常に厳しい飢饉でした。1,2節にはこう書かれています。「さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。」さばきつかさとは士師のことですが、この時代、イスラエルの民の不信仰の結果、よく問題や困難な状況が起きていました。それは、神様が不信仰の民の目を覚まさせるための裁きでした。人々は苦しい状況になると神様に祈って助けを求めます。すると、神様が彼らの祈りに答えて、さばきつかさを起こして人々を苦しみの中から助け出すのですが、人々は、苦しみが通り過ぎるとすぐに神様のことを忘れて、また自分勝手な生き方をし始めます。そのため、神様は新たな裁きを起こすという悪循環が続いていました。当時の人々にとっても、飢饉が襲って食べ物がなくなることは恐ろしい出来事でした。ここに登場するのはベツレヘムに住んでいた家族です。ベツレヘムとはヘブル語で「パンの家」という意味ですので、この辺りはパンを作るために使う小麦がたくさんとれる場所でした。そんな場所にも飢饉が襲ったのですから、この飢饉がどれほど厳しいものであったのかが分かります。エリメレクとナオミ夫婦には二人の息子がいました。父親のエリメレクは、自分の家族のいのちを守るために一家そろって近くの外国モアブに移住することを決断します。人生に大きな問題が起きるときに、私たちはいろいろな行動をします。ある人は何とか自分の力で耐え忍ぼうとします。その決断は間違っていませんが、自分の力だけで頑張ろうとすると、困難な状況にいつも自分が縛られて、心の中に苦々しい思いが出てきてしまいます。また、ある人は、問題から逃げようとします。この時のエリメレクもそうでした。信仰者にとっては、問題から逃げることは、神様がこの試練の中で私たちに示そうとしておられる神のみこころを見失い、また、その中で神様が行おうとしておられる神様の力ある御業を経験しないで終わってしまうことになります。クリスチャンが試練に直面する時に、できることは神様を信頼し、神様に助けを求めることです。私たちが信じる神様は、毎週使徒信条で告白しているように、天地の造り主であり、全能の神であり、また私たちの父親になってくださる神です。使徒パウロはローマ人への手紙の中でこう信仰告白しています。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」エリメレクは家族のためを思ってモアブに移住することを決断したのですが、この決断は間違っていました。彼は、自分を取り囲む状況を見て決断しました。同じような失敗はアブラハムもしています。彼も、飢饉に襲われた時に、神に祈って神の導きを求めずにエジプトに逃げて行ったために大きな災いを引き起こすことになりました。聖書は教えています。どんなに困難な状況であっても、もっとも安全な場所は神の御手の中であると。私たちも、困難な状況に直面した時に、状況だけを見ているとつぶされそうになりますが、聖書に記された神様の約束の言葉を信じて、その約束は自分にも与えられていると宣言して、神様を信頼することが大切です。神様の約束はすべての人に与えられていますが、私たちはその約束を信仰によって自分で握らなければなりません。スーパーなどで、よく試食用のサンプルが置いてあります。おいしそうなものが並んでいます。サンプルは誰が食べてもいいのですが、どんなに眺めていても、心の中できっとおいしいはずだと思っても、自分で手に取って食べなければそのおいしさを味わうことはできません。私たちは、神様の約束を自分のものとして受け取る信仰が必要です。それが、「主を待ち望む」ということで、礼拝でもよく賛美しますが、「主を待ち望む者は、力を受けて、わしのように翼をかって上ることができる」のです。エリメレクはこの時、主を待ち望むことをせずに自分の目で見た状況によって判断しました。しかも、移住した場所はモアブという東隣の国でしたが、ここはモーセの時代から絶えずイスラエルの民にとっては敵であり、士師記の時代にはイスラエルは18年間モアブによって支配されていました。イザヤ書では、神様が「われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。」と言われた民族でした。そのため、モアブに移住することには大きなリスクがあったのですが、実際に、モアブに移住したこの家族に次々に悲劇が起こりました。
 エリメレクが突然死んで、妻のナオミはやもめになりました。当時、やもめの生活は悲惨だったのですが、彼女には二人の息子がいました。二人の息子とも、モアブ人の女性と結婚して、それぞれに家庭を築いていたのですが、悲しいことに、この二人の息子も次々に死にました。エリメレクは家族のいのちを守るためにモアブに移住したのですが、結果的に、エリメレクと二人の息子が死んで、妻のナオミと二人のモアブ人の嫁だけが残ることになりました。3人とも、皆、やもめです。旧約の時代のイスラエルでは、やもめは孤児や外国人と同じ扱いを受けていましたが、この3人も何の助けも、将来の希望もなく、難民のようになってしまいました。

(2)ナオミの証し
 6節で、この物語は新しい展開を迎えます。ナオミは二人の嫁といっしょにベツレヘムに戻ることを決心します。それは、6節の終わりに記されているように、神様が飢饉に苦しむベツレヘムの人々を顧みて彼らにパンを与えてくださったことをうわさで聞いたからでした。私たちは、困難を経験すると、神様は自分のことを見捨てたと思い込みがちですが、神様は決して私たちを忘れることも見捨てることもありません。神様は、ご自分の決められた時に行動を始められます。エリメレクの家族もベツレヘムを立ち去る必要はなかったのです。そこにとどまっていれば神様が食べ物を用意ししてくださったはずだからです。ナオミは、この噂を信じてベツレヘムに戻ることを決心しました。この状況は放蕩息子に似ています。彼は父親のもとから離れて自分の好きなように生きるために遠い町へ行きましたが、すぐに持っていたお金が無くなり、食べ物がなくて困り果てました。その時、彼は自分の以遠のことを思い出してこう言いました。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。』神から離れたところで、自分の力で問題を解決しようとしましたが、彼らはできませんでした。そのような彼らにとって最善のことは神のもとへ帰ることです。信仰生活の基本は、神の前に間違った決断をした場合には元のところへ戻るということです。例えそれが簡単ではなくても戻らなければなりません。ナオミは、ベツレヘムに戻ると、他の人から何と言われるだろうかと心配もありました。ナオミの家族は神から与えられた家を捨てて他の神が礼拝されている国に行ったのですから、そんなナオミが落ちぶれて帰ると、人々は彼女をののしるかもしれません。彼女がベツレヘムに戻ることにしたのは正しい決断でした。
 ベツレヘムに帰る途中で、ナオミは二人の嫁を自分たちの国にとどまらせようとします。これについては二つの解釈があります。一つはナオミが自分の罪を隠そうとしたのだと考える解釈です。外国人の嫁二人と一緒にベツレヘムに帰国すると、人々はきっと彼女を批判します。聖書は
ユダヤ人が外国人と結婚することを禁止していたからです。私は、そのことよりも、ナオミに好意的な解釈をしたいと思います。これからの彼女にとっては、若い二人の嫁と一緒に生活するほうが、経済的にも助けられるので楽だと思います。しかし、彼女は、二人の嫁も夫を失って厳しい状況に置かれているので、二人を自由にして帰らせようと決心したのではないでしょうか。8節で彼女が言っているように、イスラエルの神がこの二人の嫁にも恵みをくださって、新しい夫が与えられると信じていたのです。ナオミが11節から13節で二人の嫁に話していることは、今の私たちには一体何の話かと思えるものですが、当時のイスラエルにはやもめの生活を守るためと、家族の名前を残すために行われていた特別な結婚制度がありました。これは申命記の25章に記されているのですが、ある家族で夫が妻を残して死んだとき、その夫に結婚していない兄弟がいる場合、その弟が兄の妻をめとらなければならないという決まりでした。そして二人の間に子供が生まれると、最初の男の子に死んだ兄の名前をつけて、その名前が消し去られないようにしていたのです。ところが、ナオミはすでに年を取っていましたし、二人の息子以外に息子はいません。たとえ、彼女が再婚して男の子を産んだとしても、その子供が成人して二人の嫁と結婚できるようになるには二人は20年ぐらい待たなければなりません。そんなことは不可能なので、二人の嫁に自分の家に帰るように強く勧めました。
 最初は、二人とも、ナオミと一緒にベツレヘムに行くと言っていたのですが、彼女があまりにも強く自分の家に戻るように言い張ったので、嫁の一人オルパはしゅうとめの言うことを聞いて自分の家に帰ることにして、ナオミに別れの口づけをしました。ところがもう一人の嫁ルツはナオミ縋り付いて離れようとしませんでした。ルツはナオミの息子と結婚し、ナオミと一緒に生活するようになってイスラエルの神を知り、そして、彼女自身がこの神を信じるようになっていたのだと思います。16,17節でルツはナオミにこのように言いました。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」ルツはしゅうとめナオミに対する愛を告白し、自分もナオミが信じる神を自分の神として信じると信仰告白をしています。彼女はイスラエルの神を信じて生きるために、自分の家族をも捨てる決断をしました。ルツは本当に素晴らしい女性です。この時、ルツは何も知らないのですが、1000年以上たって、彼女の産んだ子供の家系から、救い主イエスが生まれるのです。マタイの福音書の冒頭に記されたイエスの系図の中に外国人であるルツの名前がはっきりと記されています。人間の思いをはるかに超えて、神様は働いておられるのです。

(3)ナオミの心と神の計画(19-22節)
 二人は旅を続けてベツレヘムに着きました。ナオミがやく10年ぶりにベツレヘムに戻って来たのですが、夫も二人の息子もなく、見知らぬ外国人の女性と一緒に戻って来たので、ベツレヘムの村中の人々が驚いて、騒ぎになりました。この10年間、ナオミには悲しい出来事が立て続けに起こっていたので、彼女の顔も心も、以前とはすっかり変わっていたので、人々はそのことに驚いたのです。特に、女性は他の人の顔の様子の変化には敏感なので、彼女たちは、びっくりして「まあ、あなた本当にナオミなの?」と尋ねたのです。「ナオミ」という名前は「喜び」と言う意味があったのですが、彼女のこの時の心境は決して喜びではありませんでした。それで、ナオミは人々に「私をマラと呼んでください。」と言ったのです。「マラ」とは「苦しみ」という意味だったからです。彼女は、自分が経験した苦しみのゆえに心から喜びが消えていました。最初に、人が困難を経験する時に、3つの対応があると言いましたが、彼女は全部、自分の力で苦しみを耐え忍んできたので、心の中に苦々しい思いがあり、幸せな人を見るといっしょに喜ぶことができないようになっていました。彼女が言っているように、10年前にベツレヘムを去る時には、夫と二人の息子と財産がありました。しかし、彼女はそのすべてを失ってベツレヘムに戻ってきたのです。でも、本当に彼女はすべてのものを失ったのでしょうか。彼女には感謝できるものが何一つないのでしょうか。いいえ、彼女には感謝できること、喜べるものがありました。第一に、彼女にはいのちが与えられていました。いのちがある限り、将来があります。いのちがある限り、一日一日が新しい始まりになりうるのです。神様はナオミのいのちを守ってくださっていました。そして、これからナオミの人生に多くの祝福を与えようとしておられるのです。第二に、彼女には仲間がいました。ベツレヘムの人々は決してナオミを追い出そうとせず、むしろ彼女がかえって来たことを喜んでいます。ベツレヘムの人々はナオミの苦しみを聞いてきっといろいろな助けを与えてくれたはずです。また、ナオミには嫁のルツがいっしょにいました。1章の主人公はナオミですが、2章以降の主人公はルツです。ルツをとおして神様がナオミにもたくさんの祝福を与えてくださることが残りの3章に記されています。そして、何よりも大切なことは、ナオミには全能者なる神様がおられました。ルツ記は4章しかない短い書物ですが、この中で網様のことが25回も述べられています。それは、ルツ記に記された物語の本当の主人公は神様であることを示していると思います。私たちも同じです。私たちがどんなに小さな信仰者であっても、全能者である神様がいつもともにおられるのです。この時、まだナオミはそのことにはっきり気づいていませんが、すぐに、彼女は神の働きを知るようになります。ジョン・ウェスレーが死ぬ間際に行った最後の言葉は、「私の人生で最良のことは、神様がわたしとともにいてくださったことだ。」でした。神様が私たちの味方であり、その神様が私たちと一緒におらえるのなら、私たちは誰を恐れる必要があるでしょうか。何を恐れる必要があるでしょうか。
 ルツ記の1章は暗示的な言葉で終わっています。「ナオミとルツがベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。」1章はベツレヘムを襲った飢饉で始まりましたが、大麦の刈り入れで終わっています。食べ物が何もない状態から、豊かな食物へと移ろうとしています。ナオミは何も知りませんが、神様がこれから大いなる恵みのわざを行ってくださるのです。私たちの生活でも同じです。神様はあなたの生活の中にも大いなる計画を持っておられて、大いなることをしようと今まさに立ち上がろうとしておられることを覚えておきましょう。

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