2019年9月29日 『神の御心を信頼する』(ルツ記4章) | 説教      

2019年9月29日 『神の御心を信頼する』(ルツ記4章)

 ルツ記のオープニング1章では3つの葬式が行われ、たくさんの悲しみの涙が流されたことが記されています。しかし、今日読む最終章の4章には悲しみの涙はありません。ベツレヘムの町中に喜びがあふれています。ものすごいハッピーエンドです。私たちの人生は、これと同じハッピーエンドでは終わらないかもしれませんが、詩篇の30篇には「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。」という言葉があります。クリスチャン一人一人の生活は違いますが、それぞれの人生の最終章を書くのは神様であることを覚えていれば、クリスチャンは自分の将来を恐れる必要はありません。今日読む4章は3人の人物にスポットを当てています。結婚式をあげる花婿と花嫁、そして二人の間に生まれて来る赤ちゃんの3人です。

(1)花婿ボアズ(1-10節)
 夫と二人の息子を失ったやもめのナオミは、長男の外国人妻であったルツとともに、すべてを失った状態で、移住先の国から故郷ベツレヘムに戻って来ました。働き者の嫁ルツが姑のナオミと二人で生きるために落穂ひろいに出かけると、そこがナオミの夫の親戚で有力者であったボアズの畑であったことから、ストリーは展開して来ました。ナオミは、裕福な親戚ボアズに自分の畑を買い戻してもらい、そして、長男の嫁のルツと結婚してもらうことで、誰もが幸せになれると考えて、彼女は作戦を立てて、ルツに指示を与えました。ルツが姑に言われるとおりに行動した結果、ボアズはナオミの畑を買い取り、ルツと結婚する気持ちを固めますが、ひとつ問題がありました。それは、イスラエルのルールで、貧しい親戚の畑を買い戻す権利には順番があり、ベツレヘムに、ルツを最初に買い戻す権利を持つ人間がいたことでした。それで、ボアズはベツレヘムを取り囲んでいる城壁の門に行きました。門といっても、そこは、分厚い城壁に作られた大きな門なので、その中にはかなり広いスペースがありました。当時、門の中の広場は重要な話し合いをする場所であり、また、裁判が行われる場所でもありました。ボアズは、最初に買い戻す権利を持つ人と問題を解決するために、人々が多く通りかかる場所を選びました。それはこれから行う親戚との交渉を大勢の証人の前で行おうと思ったからです。
 ボアズが門に行くと、神様の働きで、ちょうど彼が会いたいと思っていた男が通りかかりました。それで、彼はその親類の男を呼び止めて、さらに、街の長老10人を招いて、彼らの前で親類の男とナオミの畑の買い戻しの問題を解決することにします。ボアズは親戚の人に問題を持ち掛けますが、非常に賢く話を持ち出しています。ボアズは親戚に言いました。「あなたの親戚のエリメレクの土地が以前売りに出されたのだが、あなたにはその土地を買い戻す気持ちがありますか?もし気持ちがあるなら買い戻してください。でも、あなたに買い戻す気持ちがないのなら、私が買い戻します。」するとその人は、買い取る気持ちがあるとボアズに伝えました。するとボアズが続けて言いました。「旧約聖書の律法によると、その土地を買い戻すためには、ルツというやもめと結婚しなければなりません。」それは、この元々エリメレクが所有していた土地は、エリメレクが死んだことによって、所有権が長男のマフロンが受け継いでいたからです。しかし、マフロンもこどもを残さずに死んでしまったので、その家系を残すために、マフロンの元の妻のルツと結婚することが必要になるからです。そのことを聞くと、その親戚の男は答えました。「私には自分のためにその土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。あなたが私に代わって買い戻してください。私は買い戻すことができませんから。」この「買い戻す」という言葉には、「代価を払って自由にする」という意味があります。ボアズは代金を払って元々エリメレクが所有していた土地を買い戻すと、その土地を自分の土地として自由に使えるようになります。この「買い戻す」と言う言葉は、信仰的な意味で用いるときは「贖う」と訳します。主イエスは救い主ですが、「贖い主」とも言われます。それは、主イエスは、私たちの心を買い戻してくださって、主イエスを信じる前は、私たちの心は自分の願いや欲望の奴隷のようになっていましたが、主イエスがお金ではなく自分のいのちを犠牲にすることによって、私たち心を欲望の奴隷状態から解放してくださったのです。そういう意味でボアズは主イエスを暗示する人物とみなされています。
 買い戻す人、贖う人にはいくつかの条件があります。第一に、その人は代価を払う、あるいは犠牲をはらう覚悟がなければなりません。ルツとナオミは貧しくてもともと自分の土地を買い戻すことができませんでした。しかし、ボアズにはその土地を買い戻すのに十分な財産を持っていたので、土地の代価を払って、その土地を自由に使える土地に変えました。また、買い戻す人は、自分から進んで買い戻す気持ちを持っていなければなりません。ボアズは、自分が犠牲を払うなど考えもしないで、喜んでエリメレクの土地を買い戻し、ルツと結婚することを願っています。しかし、より近い親戚の男は、土地は買う気持ちがありましたが、ルツと結婚することを拒みました。それは、ルツと結婚することで、しゅうとめのナオミも引き取ることになります。そして、ルツとの間に男の子が生まれて他に子供が生まれなかったとしたら、彼が買い戻す畑ももともと自分が持っていた財産の一部もエリメレクの家のものになります。彼はそんなことを決して望みませんでした。彼にとっては大きな経済的な負担になるからでした。彼は一切の損失を望まず、自分の財産を守ることに必死でした。主イエスは、私たちの心を欲望の奴隷状態から自由にするために、自分にとって一番大切ないのちを犠牲にして捧げてくださいました。そして、私たちの心が自由になるためには、よろこんで必要なことを何でもしてくださいました。
 ボアズは、自分がエリメレクの畑を買い戻し、ルツと結婚することを多くの人々の前で宣言するために、片方のサンダルを脱いで、それを相手の男に手渡しました。それが当時の契約のやり方でした。神様がイスラエルの民をエジプトから連れ出し、約束の国に導き入れる時に、神様は彼らに言いました。「あなたがたが足の裏で踏むところはことごとくあなたのものになる。」と言われたのですが、そのことが関係しているようです。このようにしてボアズは、多くの証人の前で、エリメレクの土地を買い戻し、エリメレクの家系を残すためにルツと結婚することを宣言しました。。

(2)花嫁ルツ(11-12節)
 ボアズがナオミとルツのために土地を買い戻しルツと結婚すると発表するのを聞いて、門にいた人々や、ボアズが集めた長老たちは、大きな喜びを感じて言いました。「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家にはいる女を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげなさい。」ルツは外国人でしたが、誰もそのことを批判していません。彼らが祈ったことはルツがラケルとレアのようになることでした。ラケルとレアは、創世記に出て来るヤコブの二人の妻の名前です。彼女たちにはそれぞれ召使いの女がいたのですが、ヤコブには4人の女性から全部で12人の男の子が生まれました。この12人の息子たちが、イスラエルの民の12部族となります。そのために人々はラケルとレアがイスラエルの家を建てたと言ったのです。人々はルツにたくさんの子供が生まれるようにと祈っています。また、12節でも「あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように。」と人々は祈っています。ペレツはボアズの先祖です。ペレツの父親は、ヤコブから生まれた12人の息子の一人ユダでした。ペレツの母親タマルは決して正しい人間ではなかったのですが、彼女が子供を望む強い願いによってユダの家系が途切れずペレツが生まれました。ラケルもレアもユダもタマルも、皆、彼らの行動には倫理的に問題がありました。しかし、それでも神様は、彼らの願いを聞き入れて、彼らに子供を与えて彼らを祝福しました。ベツレヘムの人々は、神様がそのようなちょっと問題があるような人々にも祝福を与えてくださったのだから、誰の目にも正しい生き方をしているボアズとルツにはどれだけの祝福を与えるだろうかと、大きな期待を込めて祈りをささげています。
 聖書は、子どもが生まれることは親にとって重荷ではなく祝福であると教えています。詩篇の127篇には次のような言葉があります。「見よ子どもたちは【主】の賜物胎の実は報酬。若いときの子どもたちは実に勇士の手にある矢のようだ。」ユダヤ人の親は子どもを望まないということがなく、中絶もないそうです。彼らは、子どもたちこそ自分たちの民族を守る財産であり、果物の実のように家を潤し、兵士の矢のように家を守るものであり、家庭の未来は子どもたちによって支えられると考えていたからです。これは私たちの教会にとっても同じことです。この教会の未来も子供たちにかかっていますので、今、教会に集っている子どもたちは私たちの宝物なので、皆で大切に養い育てていかなければなりません。私たちは子どもたちから学ぶことがたくさんあります。彼らはいろいろなことに興味を持ってしつこいほど質問してきます。私たちに子供が持つ探求心が残っているでしょうか。また、子どもたちは純粋に親や神様を信頼しています。私たちの心に幼子のような単純に信頼する心が残っているでしょうか。神様は、子どもたちを宝物として見ていますが、私たちは、子どもたちを邪魔者と見てしまう時がないでしょうか。
 また、彼らは「あなたはエフラテで力ある働きをしなさい」と言いました。エフラテとは彼の街ベツレヘムの古い名前です。彼らがこの時ベツレヘムの古い名前を持ち出したのには意味があります。それはヘブル語で「エフラテ」とは実り豊かであるという意味を持っているからです。人々は、ボアズとルツの家庭に多くの子供が与えられると共に、豊かさをもたらす働きをして、小さな田舎町のベツレヘムに祝福と誉をもたらしてほしいと願っているのです。彼らの願いは、ずっと後になってかなえられました。それは、その町で救い主イエスがお生まれになったからです。

(3)赤ちゃん(13-22節)
神様はルツがモアブにいるときから様々な恵みを与えていました。ルツはユダヤ人のマフロンと結婚をしたことで聖書の神を知り、信仰を持ちました。彼女が姑のナオミと一緒にベツレヘムに戻って来てからも、落穂ひろいに行った時に、ナオミの裕福な親戚であるボアズの畑に導いてくださいました。また、ルツを愛しているボアズがナオミの畑を買い戻し、ルツと結婚ができるようにも導いてくださいました。そして、今、ボアズとルツが結婚しましたが、二人には男の子が与えられました。ベツレヘムの人々は、ナオミがすべてを失ってベツレヘムに戻って来て、様々な苦労をして来たことを知っていましたから、ナオミに孫が生まれたことをいっしょに喜んでくれました。人々は、ナオミの将来が希望の将来になったと言いました。「その子はあなたを元気づけ、あなたの老後を看取るでしょう。」生まれた赤ちゃんには「オベデ」という名前がつけられましたが、それは「しもべ」という意味です。オベデは、大きくなったら、その名前のとおり、ナオミのために召使いのように働いてナオミの生活を支える者となるのです。その一人の息子オベデは、7人の息子たちの働きにまさる働きをするものとなります。 
 しかし、このオベデは、単に、ナオミやルツにとって祝福になっただけではありませんでした。オベデはイスラエルの民にとっても、全世界の人々にとっても、大きな祝福をもたらしました。
オベデの子どもはエッサイで、エッサイの子どもはダビデです。ダビデはイスラエルで最も偉大な王様です。今でも、ダビデはユダヤ人のヒーローですから、イスラエルの国旗にはダビデのシンボルである6角形の星が描かれています。しかし、それだけではありません。このダビデから1000年後に、この同じベツレヘムの街に救い主イエスがお生まれになりました。ボアズとルツに赤ちゃんが生まれた時、誰も、この赤ちゃんがどのような未来をもたらすのか知りませんでした。しかし、神様は確かな計画を持っておられたのです。申命記の23章3節にはこう書かれています。「アンモン人とモアブ人は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して【主】の集会に加わることはできない。」しかし、ルツ記の最後には十代にわたる系図か書かれています。その最後に登場するのがさきほど言ったダビデ王です。モアブ人ルツをとおして神様がイスラエルにも、全世界にも大きな恵みを与えてくださいました。この神様は、神様の御心にかなう生き方を志す者に同じ恵みを与えることのできる方です。

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