2019年11月3日『恵みとまことに満ちた方』(ヨハネ1章14-18節) | 説教      

2019年11月3日『恵みとまことに満ちた方』(ヨハネ1章14-18節)

 ヨハネの福音書は、「初めにことばがあった。」という言葉で始まっていますが、他の福音書と違って、ヨハネは、2000年ほど前に地上に人となって来られたイエスが本当の姿ではなく、何にも依存することなく永遠に存在する神、私たちが生きているこの世界を創造された神こそが、イエスの本当のお姿であることを強調しています。イエスは、時間的にも空間的にも完全に無限の方なので、形がありません。だから目には見えません。私たちとは、まったく次元の違う、私たちから非常に遠い遠い存在です。だから、私たちには神を知ることは難しいです。しかし、14節には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」と書かれています。ことばとはギリシャ語でロゴスと言います。この福音書が書かれた時代、ギリシャの哲学が世界中に広まっていましたが、ギリシャ人の考え方では、「ロゴス」とは単に人間の口から出た言葉を表すのではなく、この世界の究極的な根源を意味していました。ヨハネはその考えを使って、神であるイエスを「ロゴス」と表現しました。すべての根源であり、完全に無限の存在であるイエスが、人となったというのは、あっさりと書かれていますが、実は衝撃的なことなのです。使徒パウロはピリピ人への手紙2章6-7で、次のように表現しています。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」人は、自分が何かの特権を持つと、それを絶対に手放そうとはしません。むしろ、もっと大きな特権を求めます。イエスは、本来、栄光と権威と力に満ちておられる方であり、この世界を永遠に支配しておられる方です。その状況がどのようなものなのか、私たちの小さな頭では理解できません。しかし、イエスは、自分の神としてのあり方を捨ててられないとは考えませんでした。言い換えると、イエスは、自分の神としてのあり方を捨てても良いとおもわれたのです。それは誰のためでしょうか。もちろん自分のためではありません。私たち人間のためです。人間は、神に似せて作られた素晴らしいものだったのですが、薬もその使い方を間違えると毒になるように、人間が神から与えられていた素晴らしいものの使い方を間違ってしまった結果、人間は自分勝手で自己中心なものになってしまいました。聖書は、その状態を指して、すべての人は神の前に罪人であると教えます。罪人であるということには2つのことが伴います。一つは、人間はいつも自分の欲望、自己中心の考えに支配されて生きなければならないことです。他の人が赦せない、他の人のために一歩譲れない、他の人に嫉妬してしまう。これらはすべて、他の人に問題があるのではなく、私たちの中にあります。もう一つは、罪人は神の裁きを受けなければならないことです。この世界が秩序を保っているのはルールがあるからです。スポーツがスポーツとして成立するのはルールがあるからです。ルールを破るとペナルティが与えられます。神様のルールを守れない人は神様の裁きを受けなければなりません。そのような状況にいる人間を罪の束縛と罪の裁きから解放するために、私たちのところに来られたのがイエスなのです。私たちが信じているイエスは、遠い天国から、地球に住む人間に「ああしろこうしろ」と指示を出すような方ではありません。神の権威と栄光から離れて私たちのところに駆けつけてくださる方です。イエスは自分のためにこの世に来られたのではありません。私たちを救うために来られました。誰かのところへ行く、誰かのところへ来るというのは、その人のことに関心があるからであり、その人を心配していたり、その人を愛しているから来るのです。今年も日本各地で災害が起きています。今回の台風被害は被災地があまりにも広いので各地でボランティアが不足しています。私も行きたいという思いはありますが、今は出かけて行くのが難しいです。去年は西日本豪雨の被災地にボランティアに行きましたが、宿舎でいろいろなボランティアに出会いました。誰もが、被災した地に住む人のために何かしたいという思いで、時間と費用を捧げて集まっていました。イエスがこの世に来られたのは、私たちのためなのです。
 しかもイエスはただ私たちの世界に来られただけでなく、私たちと同じような人間になられました。イエスは神として栄光と大きな力と尊厳さと輝きに満ちておられる方です。しかし、そんなイエスが自分を低くして、一人の貧しい女性の胎内にいのちを宿し、汚く臭い家畜小屋の中で、おむつをつける赤ちゃんとして、私たちとまったく同じプロセスを通ってこの世に来られました。大人になった私たちは、もう一度赤ちゃんになってうんちやおしっこの世話をしてもらいたいとは誰も思わないでしょう。しかし、主イエスは私たちとまったく同じ姿を取られました。ヨハネは、イエスが完全に私たちと同じ人間になられたことを強調して、イエスが私たちを同じ弱さや感情を持っていることを繰り返し福音書の中で書いています。4章ではイエスは疲れてのどが渇いていたと書かれています。11章では、イエスは霊の憤りを覚え心の動揺を感じ、そして、人前で涙を流されました。主イエスは、神であることをやめたのではありませんが、罪がまったくないという点を除いて、すべての点で私たちとまったく同じ人間になられました。そして、人間になることを良しとされました。
 ダミアン神父と言う方は、今から150年ほど前にハワイのモロカイ島で、当時誰からも見捨てられていたハンセン病患者のケアに生涯を捧げた方です。当時ハワイでは、ハンセン病患者が見つかるとすぐにモロカイ島に隔離され、そこで誰からも世話されないまま死んで行くという状況でした。ダミアン神父は、ハンセン病患者以外の者で初めてモロカイ島に常駐する人になりました。彼は荒廃していたハンセン病患者の生活環境の改善に全力を注ぎましたが、なかなか患者たちと心を通わせることができませんでした。それはダミアン神父の愛と労力は「あなたたちハンセン病患者たち」と一方的に彼か患者に向かうものだったからです。この心の隔たりに彼はいつも苦悩していました。彼は患者の患部に触れること、感染することを恐れなくなりました。やがて彼はハンセン病を発症しましたが、彼は発症したことを大いに喜び、もはや「あなたたちハンセン病患者」ではなく「私たちハンセン病患者」という関係になったことを喜んだのでした。ある意味で、これと同じように、主イエスは、私たちとまったく同じ姿になったことを喜び、それだけでなく、私たちの身代わりになって、私たちが本当は受けるべき罪の罰をも十字架で受けてくださいました。人となった主イエスの生涯は、100%私たちのためだったのです。

 神が人となって私たちのところに来られたことは、私たちと神様との関係において非常に大きな変化をもたらしました。そのことを述べているのが16,17節です。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」イエスが来られる前、旧約聖書の時代は、私たちと神様との間の契約の土台はモーセをとおして神様から与えられた律法でした。律法は、神様が私たちにどのように生きるべきかを教えるルールです。人間が作ったルールには、時々、無茶だと思えるようなものがありますが、神様が私たちに与えられた律法は、それに従って生きる時に、人として最も良い人生が送れるために与えられたものです。人間は最初の人間が神のルールを破った時から、遺伝子の中に自己中心という罪の性質がインプットされて生まれるようになりました。そのような人間が皆、神様のルールを無視して自分の好きなように生きれば、誰もが自分さえ良ければ良いと思って生きるようになります。ハロウィーンの日の渋谷の交差点のようにいろいろな衝突や混乱が起きてしまうのは、皆自分さえよければよいと考えているからです。神様のルールは一見、面倒くさいように思えても、実は、それに従って生きることが私たちにとってベストなのです。ところが、律法は、いわば、パソコンの取り扱い説明書のようなもので、正しいやり方は教えてくれるのですが、自分一人でやろうとすると難しくてできないのです。取り扱い説明書は教えてはくれますが、手伝ってはくれません。そこで、ジャパネットタカタのテレビ通販の番組など見ていると、自分で設定ができない人のために専門家がパソコンを買った人の家まで行って代わりにいろいろな設定をしてくらえるというサービスを提供しています。そのサービスは機械のことが苦手が私のような人間にとっては本当に助かるサービスです。ちょっと軽い例えかも知れませんが、イエスが来られたのは、いわば、このような代行サービスに来たパソコンの専門家のようなものなのです。主イエスが人となってこの世に来られたことによって、神様の恵みと神様のまことが実現したと17節は教えています。律法では私たちに与えられなかった恵みとまことが、私たちに与えられる道が開かれたのです。恵みとまことはヘブル語で「ヘセッド」と「エメット」と言って、音が似ていることもあり、旧約聖書の中で、この2つの言葉がよく並べて用いられています。例えば出エジプト記の34章6節には次のように書かれています。「主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富む。」恵みとまことが並べて用いられる時、それは、神様が私たちと結んだ契約をどこまでも真実に守り続けられるということを表しています。キリストは、この神様の恵みとまことを具体的に私たちに与えるために私たちのところに来てくださった方なのです。救いとは何からの救いなのでしょうか。私たち人間は、神様よりも自分を第一とする自己中心な性質、罪を持っているため、罪の裁きを受けなければなりません。神様のルールに違反したためにペナルティを受けなければならないのです。しかし、そのような私たちを罪の裁きと力から救い出して自由にするために、神の御子キリストが私たちの所に来て、私たちが受けなければならない裁きを、私たちに代行してその裁きを受けてくださる、これを救いというのです。ですから、イエス・キリストを信じる者は裁かれることがありません。そして、イエスを信じる者は16節が約束しているように、「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」のです。神様の恵みは一度だけ与えられるようなものではありません。私たちの人生にもいろいろな問題が次々に起きて来ますが、そのたびに、私たちは神様に祈る時、新しい恵みを神様から受けることができるのです。
 そして、18節には、ここまでのまとめとしてこう書かれています。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」誰も神を見た人はいません。それにはふたつの理由があります。一つは、天地創造の神は完全に無限の刀ので見に見えるような形を持っておられないからです。もう一つは、神様があまりにも栄光に輝いておられる方であり聖なる方だからです。私たちの目が太陽を直視するとつぶれるように、私たちは神を見るとその瞬間死んでしまうからです。しかし、目で見ることのできない神がどういう神であるかを私たちに示すために来られたのが御子イエスです。主イエスのことを「父のふところにおられるひとり子の神」と表現しています。ことばは神とともにあったという言葉の繰り返しです。この世に来られても父なる神と御子イエスはつねにともにおられました。そして、そのイエスが私たち人間に対して、神様のことを解き明かされました。ある時、イエスの弟子ピリポが主イエスに「主よ。私たちに父なる神を見せてください。そうすれば満足します。」と言いました。すると主イエスはピリポにこう答えられました。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は父を見たのです。」ヨハネの福音書は続いて行きますが、そこに記されているのは、主イエス・キリストが、私たちに、心をとおして、言葉をとおして、行いをとおして、「神様とはこういう方なのですよ。」と一つずつ私たちに説き明かしておられるのだということを覚えて、読み進んで行きたいと思います。

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