2020年3月8日 『過信は禁物』(マルコ14章66~72節) | 説教      

2020年3月8日 『過信は禁物』(マルコ14章66~72節)

 今日から、4月12日のイースター・復活祭までの間、主イエスの十字架と復活についてマルコの福音書から学びたいと思います。キリスト教のカレンダーでは、特にローマカトリック教会では、イースターの46日前からイースター前日の土曜日までの期間を「レント」あるいは「四旬節」と呼びます。46日とは半端な数字のように見えますが、日曜日を除くと40日になります。今年の46日前は2月の26日の水曜日で、この日は「灰の水曜日」と呼ばれます。その日は、一年前のイースターで使った棕櫚の枝などを燃やして灰にして、その灰の前で祈りをささげ、そのあと、司式者が、信者の一人一人の額に灰の十字を塗りつけて、「あなたは、もともと土から生まれたので、まもなく土に帰る。だから罪を悔い改めて、イエスの教えに立ち返りなさい。」と祈ります。レントというのは英語ですが、もともとはゲルマン語で「春」を意味する言葉でした。レント・四旬節は、イエス・キリストの十字架と復活を祝うための準備期間と考えられていましたので、この期間、人々は神に対しては祈りをささげ、自分に対しては食事を節制し、隣人たちに対しては、施しなどの善行を行いつつ、神の前に悔い改める時と見なしていました。とくに食事の面では、肉を食べることを控えていました。そのため、昔の人々はレントに入る直に肉をたくさん食べてどんちゃん騒ぎをするようになりました。これが今日、ベニスやブラジルのリオで行われているカーニバルの起源です。カーニバルは日本語では謝肉祭と言います。人々は肉を断つ生活に入る前に、肉に感謝してたくさんの肉を食べたのですね。

 主イエスが十字架に掛けられたのは金曜日の朝です。その前夜、主イエスは弟子たちと最後の食事をされました。これが「最後の晩餐」です。食事中に弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを裏切るために、部屋から一人出ていきます。その後、食事を終えたイエスと弟子たちは、部屋を出て、エルサレムの東にあったオリーブ山のふもとの「ゲッセマネ」と呼ばれたオリーブ園に行きます。そこで祈りを捧げて主は十字架にかかるための備えをされました。祈りを終えてその場所から出て来た時に、主イエスは、裏切り者ユダに導かれて来たローマの兵士にとらえられて、裁判を受けるために、ユダヤ教トップである大祭司の家に連れて行かれました。主イエスが捕らえられた時、11人の弟子たちのうち9人は、その場から逃げ去り姿を消してしまいました。彼らこそ、主イエスを守らなければならなかったのですが、誰もが自分の身を守るために逃げて行きました。(14章50節)弟子たちは、主イエスのためなら死ぬことも惜しまないと本気で言っていましたが、彼らの決意は実はとても弱いものだったようで、彼らは簡単に主イエスを捨てて安全な場所に隠れてしまいました。私たちは、心の中では「正しいことを行いたい、行うんだ。」という気持ちを持っているのですが、いざ、その場面に直面すると、実行できないことが多いのです。なぜそうなるかと言うと、罪のシンボルである自己中心です。人は誰でも、他人のことより自分のことを優先するのです。私たちは、クリスチャンであるないにかかわらず、自分にもその傾向があることを認めなければなりません。イエスの弟子のペテロは、自分の本心を知らず、自分はイエスのためならいのちを捨てることができると本気で思い込んでいました。イエスが弟子たち向かって「あなたがたはみな、つまずきます。」と言われた時にも、「いっしょに死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどどは決して申しません。」力を込めて宣言していたのです。ペテロは、イエスを知らないと3回言った弟子として有名ですから、多くの人はペテロが意気地なしの臆病者だと考えていますが、決して彼は単なる臆病者ではありません。ただ、彼には後先考えずに行動する傾向がありました。ゲッセマネの園から出て来たところでイエスが捕まえられた時に、ペテロは持っていた剣で、大祭司のしもべに襲い掛かって耳を切り落としています。そして、ペテロとヨハネの二人は、裁判のために大祭司の家に連れて行かれる主イエスの後について行き、二人とも、大祭司の家の中に入りました。当時のイスラエルのお金持ちの家には広い中庭があり、その中に誰でも入ることができました。この後、ヨハネがどこに行ったのか分かりませんが、ペテロは、中庭で炊かれていた火にあたっていました。3月のエルサレムは昼は暖かいのですが、夜になると急に温度が下がるので、焚火が必要だったのです。
 この時、主イエスは、大祭司の家の前で、正式な裁判の前の尋問を受けておられました。この夜、主イエスは大きな孤独を感じておられたことでしょう。最後の晩餐の時に、主は弟子たちの足を洗うことを通して、弟子たちに最後の最後まで愛を現わされ、また、弟子たちには互いに愛することを教えられたのですが、弟子たちは主イエスの気持ちをまったく理解せず、相変わらず自分たちのうちで一番偉いのは誰なのかと議論していました。ゲッセマネの園で祈られた時、イエスは弟子たちの中で最も信頼していたペテロとヤコブとヨハネの3人をそばまで連れて行きました。この時、主イエスは、十字架の時が迫る中で苦しみに満ちた祈りを捧げておられましたが、3人の弟子たちは肉体的に疲れ果てていたために、イエスとともに祈ることができず眠りこんでしまいました。主イエスは祈りをとおして父なる神様から霊的な勝利を与えられて立ち上がりました。そして、ゲッセマネの園を出た時に、イエスは逮捕されました。その時、11人の弟子たちのうち9人は自分のいのちを守るために一目散に暗闇の中に逃げて行きました。弟子たちがもしイエスと同じ気持ちで祈っていたら、こんなことは起きなかったでしょう。イエスは自分が選び3年間育てて来た弟子たちにも見捨てられて、弟子たちには失望されたことでしょう。そして、今、イエスは、ひとりでユダヤ教指導者たちから不当な裁判を受けておられました。主イエスは、自分を守るための言葉は一言も語らなかったのですが、自分が神であることは堂々と宣言されました。その発言を聞いたユダヤ教指導者たちは激しく怒り、イエスには死刑に当たる罪があると決断し、そのあと、人々は、神の子であるイエスをはずかしめることを執拗に行いました。65節にはこう書かれています。「ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。」主イエスは天でも地でも一切の権威を与えられているお方です。しかし、罪を持つ人間は、そのような方に対しても平気でこのようなひどいことができるものなのです。それが罪の恐ろしさです。もちろん、主イエスは、この時、神の力を使えば周りの連中を簡単に倒すことができたのですが、主はその力を使わず、まるで世界で一番無力な人であるかのように、一切抵抗することなく辱めを受け続けておられました。

 イエスが厳しい尋問とひどい仕打ちを受けていた時に、ぺエロは焚火のそばでぬくぬくと温まっていました。そして人に気づかれないようにしながら群衆に紛れてイエスの様子をちらちらと見ていました。その時、突然、大祭司の女中がペテロの顔を見て言いました。「あなたも、あのイエスと一緒にいましたね。」ペテロは、前の日曜日に主イエスと一緒にエルサレムに入ってから、いつも主イエスと行動を共にしていたので、その女中は、ペテロがイエスと一緒にいるところを見ていたのでしょう。ペテロは、自分の顔が人々に知られているとは思っていなかったので、その女中の言葉を聞いてひどく動揺しました。人は不意を突かれた時に、その人の本性が出てしまうのですが、この時、ペテロは若い女中から「お前もイエスの仲間だ」と言われたことでパニックになり、思わず、自分の正体がばれないように、イエスを知らないふりをしました。「何を言っているのかわからない。理解できない。」という言葉が彼の口から飛び出しました。そして、身の危険を感じたのか、彼は、焚火からそっと離れて前庭のほう、つまり大祭司の家の門のほうへ行ったのです。門の陰で深呼吸でもして、心を落ち着かせて、もう一度群衆の中に紛れようとしました。
 ところが、大祭司の家に入る門のところにペテロは身を隠すように立っていたのですが、さっきの女中はペテロの様子をじっと見ていたようです。そして、その女中は、ペテロに直接話しかけるのではなく、そばに立っていた人に向かって「この人はあの人たちの仲間です。」と言いました。2回目は、ペテロは、女中からだけでなく、そばに立っていた人々からも視線を集めることになり、彼はますますパニックに陥ってしまい、2回目も「イエスのことは知らない。」と言いました。一度うそをつくと元に戻ることはできません。最初のうそは、ペテロが不意を突かれたために、おもわず口から出てしまったものかもしれません。積極的にイエスを否定する気持ちはなかったかもしれませんが、結果は同じです。一度否定すると、それを元に戻すことはできません。ほとんどの罪は、最初は小さなことから始まりますが、だんだんと罪が大きくなり、元に戻れなくなるのです。彼は、自分も主イエスと同じように捕まることを恐れて「イエスを知らない」と言ってしまったのでしょう。ただ、少しペテロをほめるとすると、そのような恐怖心を抱きながらも、彼はその場にとどまっています。大祭司の家から出ていけば安全だったのですが、ペテロはその場にとどまることを選びました。ペテロは主イエスを愛し、尊敬していたので、イエスの身に何が起きるのか心配でたまらなかったのだと思います。ルカの福音書によると、それから1時間たちました。そばに立っていた男たちがペテロに言いました。「確かに、お前はイエスの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」大祭司の家に集まっていた人々はエルサレムの人です。日本で言えば東京の人で、標準語を話します。ところがペテロはイスラエルの北部、ガリラヤ出身の漁師なので、教育も受けておらず、話す言葉は田舎のガリラヤ弁だったので、周りの人々はすぐに気づいていました。また、主イエスは、活動の中心がガリラヤ地方だったので、よくガリラヤの人と呼ばれていました。集まっていた人たちはペテロの言葉を聞いてイエスの弟子だと確信したのです。それだけではありません。ペテロはイエスが逮捕された時に大祭司のしもべに襲い掛かって、ナイフでその人の右の耳を切り落としたのですが、そのしもべの親類がその様子を目撃していました。ヨハネの福音書18章26節にはこう書かれています。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」ペテロは絶体絶命のピンチに立たされました。彼は自分のいのちを守ることに必死になりました。71節を見ると、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがの話しているその人を知りません。」と答えています。ペテロがのろいをかけて誓ったというのは、彼が、「もし私の言うことが嘘であることが証明されれば、神ののろいが自分に降りかかってもよい」と宣言してから、イエスを知らないと言ったということを意味します。ペテロがイエスを知らないと言ったのは、最初は思わず口からでた嘘の言葉だったのですが、最後は、人々の前で自分が嘘を言っていることを知りながら、あえて、神の前に大げさな偽りの誓いをして宣言するほどの大きな嘘の言葉になってしまいました。ペテロは力を込めて否定していますから、きっと彼の大きな声は大祭司の家の中庭の中にいるすべての人に聞こえたことでしょう。ペテロが3回目にイエスを知らないと言ったと同時に鶏が再び大きな声で「コケコッコー」と鳴きました。すると、ペテロは、最後の晩餐の時に主イエスが自分に向かって、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」と言われたことを思い出しました。このころ、ちょうど、大祭司の家の中で行われていた尋問が終わって、主イエスはユダヤ教の指導者たちによって家の外に連れ出されました。ルカの福音書を見ると、主イエスが振り向いてペテロを見つめられました。ペテロの目と、ペテロをじっと見つめるイエスの目が合いました。そしてイエスのまなざしがペテロの心を突き刺しました。ペテロの心の中は、大きな後悔と悔い改めの気持ちでいっぱいになりました。彼は大祭司の家を出て、人目につかないところで激しく泣きました。

 ペテロは大きな罪を犯しました。しかし、彼は、イスカリオテのユダとは違って、自分の意志で主イエスに反抗することを決意して罪を犯したのではありません。彼は本気でイエスのためなら死んでも良いと思っていました。彼は自分の仕事を捨ててイエスの弟子になっていたのですから。しかし、彼は自分が思っていたほど強い人間ではないことを知りませんでした。いざという時に、彼はイエスのために自分の命を捨てることができなかったのです。ペテロは、初めて自分の弱さを知りました。しかし、この出来事は、神様の御心だったのです。彼が失敗を知らずに自分を強いと思い込んだままでは、イエスの弟子として神様は用いることができなかったからです。ペテロは心から悔い改めました。イスカリオテのユダのようにイエスから逃げ去るのではなく、イエスのもとから離れませんでした。復活の朝、イエスの墓に向かって一番に走って行ったのはペテロでした。その日の夜も、ペテロはほかの弟子たちと一緒にいました。また、主イエスが命令されたように、ガリラヤ湖に行ってイエスと出会うのを待っていたのもペテロでした。そして、そのガリラヤ湖で、主イエスが他の弟子たちの前で、ペテロの信仰を回復させてくださり、そして、彼は主から新しい使命を与えられました。主イエスの復活から7週間後、弟子たちに聖霊が下った時、ペテロは新しい力に満たされました。かつては人を恐れてイエスを知らないと3回繰り返して言ったペテロでしたが、聖霊に満たされた時から、ペテロの人に対する恐れは消え去りました。その日から、主イエスを十字架につけた敵たちに対しても、ペテロは恐れることなく大胆にイエスのことを語るようになったのです。ペテロは自分の力に頼った時、大きな失敗をしました。しかし、神の力に頼った時には、大きな働きをする人になりました。私たちも、自分の力は自分が思っているほど強くはありません。しかし、私たちは弱くてもかまわないのです。なぜなら、私たちが信じる神は全能の神だからです。そして、神様の偉大な力は、実は私たちの弱さの中で一番大きく働くのです。   

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