2020年11月29日『神との平和・恵み・希望』 (ローマ5章1-2節) | 説教      

2020年11月29日『神との平和・恵み・希望』 (ローマ5章1-2節)

パウロは、ローマ人への手紙の中で、最初の1章から4章までの中で、キリストの福音を信じる信仰によって、人の罪が赦され、神様との正しい関係に入るということを語っていますが、5章の冒頭で、信仰によって神様と正しい関係に入った人々が、信仰によって、絶対に揺るがない3つのものに結び合わされていることを教えています。それは、神との平和、今立っている恵み、そして、神の栄光にあずかる希望です。今日はこの3つのことについて学びたいと思います。

(1)神との平和(1節)
 ローマ書5章1節は次のような言葉で始まっています。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」パウロは1章から4章の中で、私たちは、主イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められるという真理を明確にしました。そして、5章からは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、私たちがどのような新しい立場に入ったのということを説明して行きます。新しい立場の第一が「神との平和を持っている」ということです。この世の中で、もし私たちが誰かを敵にして生きるならば、どれほどのストレスを抱えることでしょうか。いつ、どこにいても、誰かが自分のいのちを狙っているかもしれないと思うと心の安らぐ時がありません。ダビデも自分がイスラエルの王になるまでは、サウル王に命を狙われて逃亡の日々を続けていました。大きな不安とストレスを感じていたはずです。人間の敵を恐れて生きることも大変ですが、もし、神様を敵として生きるならば、、もっと大変なことです。神を敵にして生きる時、神様はいつも私たちの罪を責めてきます。そして、「お前の罪はさばかれなければならない」と繰り返し私たちに訴えて来ます。聖書では、私たちの罪が借金に例えられていますが、借金すれば、全部返し終えるまで、借金取りからの取り立てがあります。「金を返せ」と言われ続けます。これはストレスのたまる生活です。私たちは主イエスを救い主と信じる前は、神様と敵対関係にありました。別の言い方をすれば、神の怒りが私たちの上にとどまっていたのです。私たちには、この敵対関係を修復する方法はありませんでしたが、神様の側で、私たちと和解する方法をか計画し、御子イエス・キリストが十字架にかかることによって、神の怒りをなだめるようにしてくださいました。神との平和は、神様が用意してくださったものです。これによって、私たちがこれまで犯してきたすべての罪の問題は解決されました。主イエスの十字架に私たちのすべてのつみもともにくぎ付けにされたので、私たちは、罪のない者ととして神様から認められることになりました。私たちが困難に直面して、心に平安を感じられないような時が来ても、神との平和の関係はまったく変わることはありません。ある人は、このことをコンパスに例えて説明しています。コンパスの針はいつも北を指しています。ところが、コンパスを激しく揺らしたり、磁石を近づけたりすると、その針が別の方向を指します。しかし、その状態は長く続きません。コンパスが元の状態に戻ると、針は必ずまた北の方向を指すようになります。私たちに与えられた神との平和は、周囲の状況がどのようになろうと、時が来れば必ず北を指すコンパスの針のように、絶対に崩れることはありません。

(2)今立っている恵み(2節)
2節に「このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。」と書かれています。私たちが主イエス・キリストを救い主と信じたことによって、私たちは、それまでの神の怒りから解放されて、神との平和の関係に入れていただきました。私たちの過去はすべて新しくされました。それに続いて、2番目のこととして挙げられているのは、今立っている恵みに導きいれられたということです。まず、2節で言われている「この恵み」とは何を意味するのでしょうか。一般的には、恵みとは「神様が受ける資格のない者に与えてくださる賜物」と解釈されています。私たちが主イエスを信じてすべての罪が赦されたことは神の恵みです。しかし、5章の2節でパウロが「この恵み」と言っているのは、神との平和の関係に入った者の現在の生活を指しています。神との平和に入れられた者たちが今立っている恵みです。かつては、私たちは律法の下に置かれていたので、私たちは神の怒りを受けるべき者でした。しかし、今は、私たちは、義と認められて、神様との新しい関係に入れられました。今、私たちは、神様の怒りを恐れる必要がなく、神様ととともに自由に生きることが許されています。これが、今私たちが立っている恵みです。私たちは、天国に行く前から、今すでにこの地上の生活において、神様とともに自由に交わることが許されています。旧約聖書の時代、神の臨在はエルサレムの神殿の最も奥にあった至聖所と呼ばれる場所にあると考えられていました。しかし、そこに入ることができたのはユダヤ教のトップ大祭司ただ一人で、しかも、贖罪の日という日に一時的に入ることが許されただけでした。その他は、誰も入ることができませんでした。しかし、今、私たちは、全知全能の神様と、自由に交わりを持つことができます。主イエスが十字架で私たちの罪が赦されるために死んでくださった瞬間、神と人間を隔てていた神殿の中の分厚いカーテンが上から下へ真っ二つに裂けました。主イエスの十字架によって、誰もが直接神と交わることが許されるようになったことを表す出来事でした。私たちが誰かと交わる時、その人と一緒に時間を過ごし、おしゃべりをすることで、その人との関係が深まります。私たちは祈りとみ言葉によって神様と交わります。祈りは神様に自分の気持ちを伝えることであり、み言葉は神様の言葉を聞くことです。ピリピ書4章6,7節に書かれているように、私たちは、どんなときにも神様に自分の願い事を伝えることができます。そして、神様はその祈りを聞いてくださり、御心に従って私たちの祈りに答えてくださいます。また、み言葉は、神様からの語りかけです。み言葉は単なる聖書に書かれた文字ではなく、それを通して私たちに神様が語り掛けてくださる言葉です。聖書の言葉を自分に語り掛けられた言葉として読むと、不思議に自分のこころに迫って来ることがあります。自分がその時に直面している状況に必要な言葉を神様は聖書を通して与えてくださるのです。私は、家族の中で最初にクリスチャンになったのですが、それから3年後に私の母が救われました。ところが母が毎週教会に行くようになると、父が、突然、母に対して非常にきつく当たるようになりました。私が自宅の自分の部屋にいると、父がよく母にどなっている声が聞こえてきました。ある日、母が耐えられなくなって私の部屋に駆け込んで来ました。私は、「とにかく聖書を読もう」と言って聖書をぱっと開くと詩篇の言葉が出て来ました。何篇か忘れたのですが、それを読んで、二人でお祈りをしたら、母が「もう大丈夫」と言って部屋を出て行きました。その時、私たちは御言葉に励まされ祈りを通して神の平安が与えられたことを実感しました。その後、父も神様の前に降参して、数年後にクリスチャンになりました。このように神様と交われることは、私たちにとって本当に大きな恵みです。私たちは、この恵みに、キリストによって導きいれられたと書かれていますが、ギリシャ語では、「私たちは、キリストによって、この恵みに入るアクセスを手に入れた。」と書かれています。アクセスとは、「ある場所に入る権利」とか「ある場所に自由に入れること」という意味ですが、私たちには、もともと、神様と自由に交わる立場に入ることは許されていなかったのですが、キリストのおかげで、その立場に自由に入ることができるようになったのです。私は牧師になる前に在日カナダ大使館で働いていました。私は、何回か、駐日カナダ大使の通訳として同行することがありました。ある時、NHKの会長に会いに行く時に同行したのですが、私は単なる職員にすぎないのですが、大使の隣に立っているおかげで、会長室までにたどり着くのに多くのドアを通って行きましたが、すべてのドアはNHKの方が開いてくださり、まるで自動ドアのように開いて会長室の中に入ることができました。それはカナダ大使が来たということで、NHKの方がすべてのドアを開けてくださったからです。私はその人の隣にいたおかげで、私も簡単に入れましたが、一人では絶対に入れません。そのように、キリストのおかげで、私たちは、自由に、神様との交わりに入ることができるようになりました。それが、私たちが、今、立っている、恵みの生活なのです。しかも、この「立っている」と訳されている言葉はパウロが繰り返し使っている言葉ですが、ただ立っているのではなく、堅く立つ、しっかり立つ、いつまでも立ち続けるというニュアンスを含む言葉です。この言葉はエペソ書の6章で繰り返し用いられていますが、「堅く立つ」という意味で用いられています。それは、私たちが今立っているこの恵みは、周りの状況で揺れ動くようなものではなく、絶対に変わることのない恵みであることを表しています。

(3)神の栄光にあずかる望み(2節b)
 私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、神との平和が与えられて私たちの過去はいわば白紙になり神様との新しい関係に入れられました。そして、その結果、私たちは現在、神と自由に交われるという恵みに導き入れられています。そしてパウロは2節の後半で、私たちの将来に関係することとして「神の栄光にあずかる望み」について語っています。「そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」パウロは、すべてのクリスチャンは、将来、キリストの栄光を着せていただくという揺るがない希望が与えられていると教えています。2020年に突然、コロナウィルスの感染が全世界に広まって、世界の状況は一変しました。以前のような生活がいつ再開できるのかまったく分かりません。それだけでなく、世界の各地で、紛争が続いています。ニュースを見れば、私たちの心は暗くなりがちです。しかし、聖書は、クリスチャンは将来に対して不安を持つ理由はなく、むしろ揺るがない希望が与えられているのだから将来を喜ぶべきだと教えています。なぜかと言うと、最終的に、私たちはキリストが持っておられる栄光をともに持つ者になることが約束されているからです。パウロは「神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」と言っていますが、ここで喜ぶと訳されている言葉は、パウロがピリピ人への手紙で繰り返し用いている「喜ぶ」という言葉とは違う言葉が使われています。また、この言葉は他の個所では、「誇りとする」「自慢する」と訳されています。したがって、この言葉は、単に喜ぶというよりも、喜ぶものが絶対に確実なものであることをも意味しています。というのは、私たちは、確実ではないものを誇りに思ったり、自慢したりすることはできないからです。この喜ぶという言葉は、クリスチャンに与えられている希望が確実であることを示しているのです。希望という言葉は英語では「hope」ですが、英語のhopeという言葉は、あまり強い意味を持っていません。英語でI hope soと言えば、「そうだったらいいけど」と言った感じで、むしろそうならないんじゃないかと考えて使っていることが多いように思います。日本語でも「希望的観測」などと言いますが、私たちが普通使っている「希望」という言葉にも同じようなニュアンスが含まれているように思います。しかし、聖書が教える「希望」はまったく異なっています。聖書では、希望は確かなものです。あるのかないのか分からないとか、あったらいいなというような希望ではありません。偽ることのない真実の神様が永遠の昔から約束しておられるものですから、100%確実なものなのです。私たちが、将来、最終的に、キリストの栄光にあずかることは、100%確実な希望です。
 聖書は、私たちが「キリストの栄光にあずかる」と約束していて、「キリストの栄光を見る」とは言っていません。パウロは、おそらく人生で二度キリストの栄光を見たと思います。一度は、彼が回心する前に、クリスチャンを捕らえようとダマスコに向かっていた時に、復活の主イエスと出会った時です。彼はキリストの栄光を見て目が見えなくなりました。もう一度は、第二コリントの12章に記されていることですが、彼は、ここで、第三の天まで引き上げられた人のことを語っていますが、おそらくこれはパウロ自身のことです。彼がそこで見たキリストの栄光はあまりにもすばらしく語ることが許されず、彼は体に一つのとげが与えられました。それほど、彼が見たキリストの栄光は素晴らしいものだったのです。しかし、ここでは、私たちは将来キリストの栄光を見るとは約束されていません。キリストの栄光にあずかると約束されています。あずかるということは受け取るということです。私たちが、将来、天に上げられる時に、私たちの外側の体も、内側の心もすべてがキリストと同じ姿に変えられるという約束なのです。私たちはクリスチャンになって、以前とは違う生き方をするようになりましたが、神の前に神と同じ完全な心を持つことはできません。クリスチャンになっても、自分の心の汚れを示されて落ち込むことがあります。自分が嫌になることもありますが、やがて、私たちは、天において、キリストとまったく同じ心を持つ者に変えられるのです。だから、もはや天においては、争いもなく苦しみもないのです。また、キリストが復活された時、主の体は、見た目には同じでしたが、まったく質が異なる栄光の体をもって復活されました。だから、復活後の主イエスの行動は、十字架にかかる前と違って、突然別の場所に現われたり、扉が閉じられた部屋に入ってこられたりしたのです。主イエスは、初穂としてよみがえられたと書かれています。したがって、私たちも、主イエスと同じように、今の朽ちる体とは異なる、主イエスの復活の体と同じ、栄光の体が与えられるのです。私は、自分で勝手に思い込んでいることがあります。人が天国で栄光の体を与えられる時、いったい、何歳の時の自分の体が与えられるのでしょうか。もし、死んだときの体で復活したら、天国は老人ホームみたいになってしまいます。だから、私が想像しているのは、花が満開の時のように、その人にとってもっとも美しい姿で復活すると信じています。先週、私の母が94歳で亡くなりました。母はもともと少しぽっちゃりしていましたが、去年から十分に食べられなくなり、最近は本当に骨と皮だけのようになっていました。そんな母でも、きっと天国では、母がもっとも輝いていた頃の体が与えられて復活すると信じています。

 私たちは、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、罪が赦され義と認められ神のこどもとなる特権が与えられました。それに伴って、私たちは3つの素晴らしいものが与えられました。それが、神との平和であり、今立っているこの恵みであり、将来神の栄光にあずかるという望みです。この3つによって、私たちの過去も現在も未来も、すべて神様によって守られています。私たちは何も恐れる必要はありません。コロナの影響はまだしばらく続くでしょうし、私たちの将来がどのような状況になるかまったくわかりません。しかし、私たちは、この3つのものをしっかり握りしめて、この時代を乗り越えて行きたいと思います。

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