2021年11月14日『勇敢でありなさい』(ヨハネの福音書16章28-33節) | 説教      

2021年11月14日『勇敢でありなさい』(ヨハネの福音書16章28-33節)

 いよいよ、主イエスが最後の晩餐の場所で弟子たちに教えを語られる最後の場面になりました。主が28節で言われた言葉は、福音のエッセンスと言ってもよいでしょう。「わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに行きます。」この言葉は、主イエスがどこから来て、どこに行くのかという、一見、非常に単純な言葉、クリスチャンにとっては当たり前の言葉です。しかし、実は、この短い言葉の中には福音のエッセンスがぎゅっと凝縮して入っているのです。主イエスが父のもとから出たということは、主イエスが天と地とその中にあるすべてのものを創造された神であることを意味します。そして、この世に来たということは、第一には、栄光に満ちた天国を離れて、罪と悪と汚れに満ちたこの世に来てくださったということであり、そして、この世に来るために、いっさいの制限を受けない方が私たちと同じ人間の姿を取ってくださったこと意味します。時間や空間を超えて自由に動き回れるお方が、制限だらけのこの世界に来て、そこで生きるために、私たちとまったく同じ人間の姿を取られました。そして、地上で主イエスが行われるもっとも大切な働きは、私たちを罪のさばきから救うために、私たちの身代わりになって十字架の上で私たちの罪の罰を受けることでした。それは、すべて、神様の私たちへの愛から始まった事でした。十字架で、その働きを完了された主イエスは、本来、主がいるべき場所である、父なる神のもとへ帰られました。父なる神のみもとが主イエスのいるべき場所であり、そこでは、現在、主イエスは私たち一人一人のためにとりなしの祈りをしておられます。これが聖書が私たちに伝える福音そのものです。クリスチャンにとってもっとも大切な真理です。初代教会は、私たちが持っている新約聖書を持っていなかったので、彼らはこの大切な福音を口伝えで毎週の礼拝の中で宣言していました。初代教会の信仰告白あるいは讃美歌だったと思われるものが、第二テモテの3章16節に記されています。「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、み使いたちに見られ、諸国の民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」初代教会のクリスチャンは、この真理を信じ、この真理を世の人々に証ししていました。

 弟子たちは、悟りの鈍い者たちでしたが、最後の晩餐が終わろうとする時になって、ようやく、主イエスの教えを理解し始めました。主イエスの28節の言葉を聞いて弟子たちは29節で次のように答えています。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは話されません。」

「はっきりとお話しくださった」とは、弟子たちはこれまで、主イエスの例え話を理解できないことが多かったのですが、今回は、自分たちにも理解できるように自分たちの理解のレベルに合わせて話してくださったという意味だと思います。弟子たちは、主イエスが自分たちのレベルに合わせてくださったことを感謝しているのです。そして、30節で、弟子たちは「あなたはすべてのご存知であり誰かがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」と主イエスに答えています。弟子たちは、主イエスがすべてのことを知っておられることを認めて、主イエスは確かに神であり、父なる神から来られたことを信じる信仰告白をしています。彼らは、主イエスの言葉の意味がよく分かったと、少しうれしそうに主イエスに「あなたが神であると信じます。」と言ったと思います。

 ところが、彼らの信仰告白を聞いて主イエスはちょっと冷たい答え方をしています。31節32節を読みましょう。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたは、それぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。」せっかく弟子たちは、「あなたが神であると信じます。」と告白したにもかかわらず、主は、弟子たちが、間もなくすると、自分を見捨てて逃げていくことを彼らに預言されました。主は、弟子たちの本当の姿を見抜いておられたのです。主イエスは彼らの弱さを知っておられただけではなく、実は、弟子たちを危険から守ろうともされています。すでに、主イエスはペテロに対して、ペテロがイエスを3回知らないと言うことを預言しておられますが、ここでは、弟子たちが皆自分を捨ててそれぞれの場所に逃げていくことを預言されました。一つには、主イエスは弟子たちが自分の信仰に対して自信過剰であることの警告として言われた言葉です。弟子たちは、これまで3年間、主イエスと生活を共にして、主イエスから多くのことを教えられてきましたが、彼らは自分の信仰が強いと思い込んでいました。しかし、思いがけない危険に出くわすと、その人の本当の力が明らかになります。これは、主イエスの弟子たちだけの話ではありません。私たちも、皆、弱い信仰者です。口では立派なことを言っていても、いざとなると、簡単に自分が言っていたことを破ってしまうような弱さを持っているのです。私たちは、自分の本当の姿を知らなければなりません。パウロもコリント教会のクリスチャンたちに「立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい。」(10章12節)と警告しています。しかし、そのような弱い信仰者のことを主イエスは見捨てることなく、守ってくださるのです。主イエスは、自分が間もなく、裏切り者ユダの手によって、逮捕されることを知っておられました。その時に、主は、弟子たちも巻き込まれる危険があることを知っておられました。従って、この預言の言葉は、一つには弟子たちに対する警告の言葉でありますが、もう一つには、彼らへの心遣いでもありました。主は、弟子たちも自分と同じように捕まらないように、実は、彼らを逃がそうとしておられるのです。この後、主イエスは、弟子たちを連れてゲッセマネと呼ばれたオリーブ畑に十字架の前の最後の祈りを捧げに行かれます。そして、そこから出て来た時に、ユダが連れて来たローマの兵士やユダヤ教の指導者たちによって捕らえられます。主イエスは、彼らが自分を逮捕しようとした時に、彼らに「だれを捜しているのか」と尋ねます。すると、彼らは「ナザレ人イエスだ」と答えます。すると、主イエスはこう言われました。ヨハネの福音書18章8節です。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」主イエスは、この時の彼らの信仰はまだ弱いものであることを知っておられました。したがって、もしも、この時に、弟子たちがイエスと一緒に逮捕されてしまったら、弟子たちはその試練の大きさに耐えられなくてすぐに信仰を捨てていたかも知れません。パウロが言ったように、神様は私たちに耐えられないほどの試練には合わせられないのです。主イエスは、十字架の直前の時、ご自分こそ誰かによって支えられたいと願う時を迎えておられましたが、主は弱い弟子たちのことを心配しておられました。それがイエスのこの言葉に含まれていると思います。

 なぜ、主イエスはこのような時に、自分を見捨てるような弟子たちを愛して彼らのことを心配しておられるのでしょうか。主は32節の最後でこう言われました。「父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。」主イエスは、父なる神がいつも自分とともにおられることを

確信しておられました。主はそのことを繰り返して語っておられます。8章29節では、「わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」10章30節では「わたしと父とは一つです。」と宣言しておられます。主イエスにとって、父なる神が共におられることが大きな慰めであり、どんな苦しみをも乗り越える力となっていました。そんな主イエスが、たった一度だけ、父なる神から見捨てられる時がありました。それは主が十字架につけられた時です。御子イエスにとって父なる神から見捨てられる子とはどれほど大きな恐怖であったことでしょう。幼い子どもは親から捨てられることを本能的に恐れていると思います。子どもにとって迷子になることほど恐ろしいことはありません。私も、幼い時に迷子になりそうになってすごく怖い思いをしたことを今でもはっきりと覚えています。人間の親から捨てられることでさえ、子どもにとってそれほど恐ろしいことだとすると、神様から捨てられることはどれほど恐ろしいことでしょうか。聖書は、主イエスを信じる者は神の裁きを受けることがなく永遠のいのちを持っているが、信じない者は、神の裁かれると教えています。神の裁きとは神に見捨てられることです。主イエスは、十字架の上で父なる神に見捨てられました。だから、主は十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれたのです。あれは、私たちの叫びを、身代わりになって叫んでくださったことなのです。私たちは、誰もが、本当は父なる神様に見捨てられなければならない者なのですが、主イエスが、私たちに代わって、その裁きを受けてくださったので、主イエスを信じる者は、神に見捨てられることは永遠になくなりました。これが聖書が教える救いなのです。

 弟子たちの弱さを知っておられた主イエスは、弟子たちに慰めの言葉を語られました。33節です。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」弟子たちが恐れを感じていたように、この世を生きる時に、クリスチャンには苦難が伴うことはある意味当然のことです。この世は人間の罪が支配しているからです。その苦難に対して、私たちは自分の力で立ち向かうのではありません。自分の力で立ち向かったなら、私たちは勝利を経験することはできないでしょう。だから、主は弟子たちに「あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。」と言われたのです。私たちは、自分を頼りにしているなら、平安を感じることはできません。私たちはそれほど強くないのです。しかし、主イエスにあるならば平安を得ることができます。それは、主イエスが世に勝った方だからです。主イエスは、まだ十字架にかかる前ですが、「わたしはすでに世に勝ちました。」と言われました。主イエスは、いつどのようにして世に勝たれたのでしょうか。主イエスが神の子として働かれた3年間、この世の支配者である悪魔の攻撃はすさまじいものでした。主が神の子としての働きを始める時、悪魔は荒野で主イエスを試みました。しかし、それだけでなく、主が地上で働く時にはつねにサタンからの激しい攻撃がありましたが、主はその一つ一つに勝利されたのです。最後は、悪魔の攻撃ではなく、父なる神の御心に従って、私たちの身代わりとして十字架にかかられました。その十字架で、父なる神は、私たちに与えるべき裁きを主イエスに与えられたのです。そして、主イエスは死から復活することによって死に対しても勝利を宣言されました。その結果、私たちは、主イエスの十字架と復活のおかげで、神の裁きからも死ぬことの恐怖からも解放されました。もはや、私たちは決して父なる神に見捨てられることはありません。肉体が死を迎えても、私たちの魂は神様から永遠に離れることはありません。主イエスは、ご自分が十字架の務めを最後まで完了し、三日目に復活することを知っておられたので、この時に、「わたしはすでに世に勝ちました。」と宣言しておられるのです。十字架と復活を通してこの世に打ち勝たれた主イエスを信じるクリスチャンは、主は目には見えませんがいつも共におられることを確信しています。だから、私たちは、困難があっても勇敢であることができるのです。私たちは自分の力だけで生きるのではありません。世に打ち勝たれた主イエスの力と共に生きるのです。主イエスとともに、どんな時も、勇気を持って生きて行きましょう。

 1874年、シカゴに住んでいたクリスチャンの弁護士スパフォードは、仕事の都合で、妻と4人の娘を先に故郷のイギリスに帰らせ、自分は仕事が片付き次第帰る予定でした。ところが彼の妻と4人が乗った船が大西洋で別の船と衝突しわずか12分で海の下に沈んでしまいました。船が沈没しているのを知った彼の妻は4人の娘と一緒に神に祈りました。「神様、私たちのいのちを救ってください。でももし、死ぬことが御心なら、御心に従います。」船が沈没した時、4人の娘は海の中に消えて行きました。母親のミセス・スパフォードは、水面を浮いている所を、救助活動していた船員に助け出されました。10日後イギリスに着くと、彼女は夫に電報を打ちました。「Saved alone」(私一人助かりました。)二人にとって言葉に表せない出来事でした。彼は急いで船に乗ってイギリスに向かいました。彼はずっとデッキに立ち続けました。そして、彼が乗った船が娘たちが沈んだ地点に近づきました。その時、スパフォードは海を見つめながら不思議な平安を感じました。そして、言葉が浮かびました。「やすけさはかわのごとく、心ひたすとき、悲しみは大波のごとくわが胸満たすとき。すべてやすし、すべてやすし、みかみともにませば」彼のこの証しから、聖歌476番「やすけさは川のごとく」が生まれました。スパフォード夫妻もまた、主イエス・キリストのある平安を体験した人でした。

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