2021年12月19日 『神に選ばれた羊飼いたち』(ルカ福音書2章8-20節) | 説教      

2021年12月19日 『神に選ばれた羊飼いたち』(ルカ福音書2章8-20節)

世の中の人々が「クリスマスおめでとう」と言って、主イエス・キリストの誕生を祝っていますが、その誕生は非常に貧しいものであり、当時の人々は、マリヤとヨセフ以外、誰も知らない間に起きた輝きや栄光がまったくない誕生でした。当時、イスラエルの国には、王や貴族たち、ユダヤ教の権威者たちが大勢いましたが、誰一人、ユダヤの田舎のベツレヘムの村で、人間の歴史を紀元前と紀元後に分けることになる歴史的な大事件が起こったことに気づいていた人は一人もいませんでした。天においても地においても一切の権威を持っておられる方が、この世に来られたのに、その方をお迎えするための部屋の一つさえありませんでした。ヨハネの福音書1章11節に主イエスについて次のような言葉が書かれています。「この方はご自分のところに来たのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」マリヤとヨセフがベツレヘムの村に到着した夜、イエスを迎える部屋が一つもなかったことは、この世の人々の心に、救い主を迎え入れる思いがないことの象徴であると思います。救い主イエスは、歓迎されない所に、あえて来てくださいました。主イエスの生涯は、ずっと居場所のない生涯でした。生まれてから30歳まではヨセフの子として、ナザレの村で大工をしていました。30歳で神の子としての働きを始められましたが、ある時、主はこう言われました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」主イエスは、神の子として働かれた3年間、家を持たずに過ごされ、最後は、十字架の上で二人の犯罪人に挟まれて死なれました。生まれた場所が馬小屋であり、神の子として働かれたときは住む家をもたず、最後は、極悪人がはりつけにされた十字架で死なれた主イエスです。これは、大部分の人々が主イエスを受け入れない姿を現していると思います。4世紀のギリシャの聖人ニコラス・カパラスという人が主イエスについて次のような言葉を書いています。「神は人を愛して、ご自分をむなしくされました。神は栄光の場所から人に向かって呼ぶのではなく、出て行って人を捜し求められるからです。富めるお方が貧しい者のところに貧しい者となって来られ、ご自身の愛を示されました。主は、主を嫌う人々から身を引くことなく、人間の傲慢さに怒ることなく、常に人を追い求め、その人の心の戸口に立ち止まっておられます。主は、ご自身の愛を示すために、一切のことを行い、悲しみ、耐え、死んでくださいました。」

 ベツレヘムの村で、誰にも知られずに救い主イエスがお生まれになった夜、最初にその知らせが告げられたのは、普通に考えると、ありえない人々でした。ベツレヘムの町はずれで羊の世話をしていた羊飼いたちだったのです。羊飼いは、当時のイスラエルの社会ではもっとも地位の低い人々でした。彼らは教育を受けておらず、特別な技術や能力もなく、特に、新約聖書の時代には、羊飼いは、嘘つきで、信頼できない人間だとみなされていました。羊の世話のために、ユダヤ教の律法が厳しく定めていた安息日にも、彼らは仕事を休むことができません。彼らは宗教的に汚れた人間として扱われ、ユダヤ教の礼拝を行う会堂にも入ることが許されていませんでした。しかし、人間の歴史において最も大切な知らせが最初に伝えられたのはそのような羊飼いたちだったのです。社会は彼らを非常に低く見ていましたが、彼らは純粋に神を信じる人々でした。だからこそ、彼らに、この知らせが最初に届けられたのです。  

 羊飼いたちは、いつものように囲いの中に入れた羊たちを獣や泥棒から守るために見張りの番をしていました。すると、突然、彼らの目の前に主の使いが現れ、彼らの周りを主の栄光が明るく照らしました。それまで、真っ暗だった場所が突然まぶしいほど明るくなったので、羊飼いたちはびっくりして、恐怖に襲われました。すると、み使いが羊飼いたちに言いました。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせます。」み使いが彼らに知らせに来たのは、民全体のための知らせでした。それまで、神様のメッセージはイスラエルの民にまず届けられていましたが、新しい時代が来ました。神様のメッセージは、民全体へのメッセージになりました。主イエス・キリストの誕生は、一部の人のためのものではなく、全世界のすべての人々のためだったのです。11節には、すべての民のための神様からメッセージの内容が記されています。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」ダビデの町とは、ベツレヘムのことです。メッセージに内容は「救い主が生まれた」ということです。人々を何から救うのでしょうか。それは、主イエスが生まれる前に、み使いが、マリアの夫ヨセフの夢の中に現れた時に、はっきりと語っています。マタイの福音書1章21節で、み使いはヨセフにこう言いました。「マリアは男の子を生みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」救い主とは、人々を罪のさばきから救う救い主なのです。人々は、今日、いろいろな問題を抱えています。家庭生活、仕事上の問題、悪い習慣に縛られていること、生きる目的を見失っていること、など、人それぞれに様々な問題を抱えており、そのような問題から解放されたいと願っています。もちろん、それはとても大切なことですし、また、主イエスを救い主と信じることによって救われた人は、罪からの救いを得たことによって、そのような問題からの解放が与えられる場合が多いです。しかし、聖書は、人間にとって一番大きな問題は、罪であり、罪と罪の裁きから救われることが第一であると教えています。罪とは、神から離れて、自分の考えと願いだけで生きる生き方を意味します。そのような生き方は自己中心になります。私たちは、人生でいろいろな問題があり、いろいろな問題を起こしてしまいます。嘘をつくこと、人に意地悪をすること、盗むこと、最悪の場合は人を殺すことなど様々な形で現れます。これらは、神から離れて生きる生き方の、病気でいえば症状です。今、コロナウィルスが広がっていますが、ウィルスに感染すると、発熱、咳が出る、吐き気がするなど、いろいろな症状が出ます。薬などでそれらの症状が治まっても、もし体内にまだウィルスが残っていると、また同じ症状が現れます。感染したときに、大切なことは、ウィルスと殺すことです。罪の問題も、罪の結果の症状を抑えることだけでは根本的な解決になりません。大切なことは、人の心の中にある罪、「神様から離れて、自分の考え、願いだけに従って生きること」を解決しなければ、症状は繰り返して現れるのです。主イエスは、人間が抱える、根本的な問題、罪の問題から私たちを救い出す救い主として、わざわざ私たちの世界に来てくださいました。

 み使いは、羊飼いたちに、救い主のしるしを教えています。12節を読みましょう。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」不思議なしるしです。旧約聖書には、定められた時に救い主が来ることが繰り返し預言されていますので、イスラエルの人々は救い主を待ち望んでいました。ただ、多くの人は救い主が赤ちゃんの姿で来るとは思っていなかったはずです。多くのイスラエルの民は、救い主は、栄光に輝く王様の姿で来られると思っていたのではないでしょうか。しかし、救い主は、非常に不衛生でひどい臭いがする家畜小屋の中でお生まれになりました。パウロが書いた手紙の中に、次のような言葉があります。第2コリント8章9節です。「あなたがは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」主イエスは、実際には、多くのみ使いが大空を埋め尽くして賛美をささげるほどに栄光と権威に満ちておられる方なのですが、私たちを罪から救うために私たちと同じ姿をとってこの世に来られました。しかも、まったく力のない赤ちゃんとして、汚い飼い葉桶に寝かされている貧しい赤ちゃんとして来られました。このコントラストは、神様が、ご自分を低くして、人々に仕える者となってくださったことの意味の大きさを表しています。主イエス・キリストは、あなたのために、あなたを罪の裁きから救い出すために、このような姿で私たちのところに来てくださいました。み使いたちが言いました。「いと高いところで、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」主イエスは救い主として来られましたが、私たちが罪から救われる目的が語られています。それは、天において神様の栄光が現れることであり、地においては、人々に平和があることです。当時のローマ帝国は、皇帝アウグストゥスが紀元前27年に皇帝になってから、戦争がなくなっていました。ローマが周囲のすべての国々を支配するようになったからです。この状況が100年以上続いたので、この時代は、「ローマの平和」と呼ばれます。しかし、戦争がないことが「平和」の本当の意味ではありません。平和を意味するヘブル語は「シャローム」というのですが、これは戦争がないことだけではなく、もっと深い意味を持っています。それは心や体が健康であること、生活が安定していること、心が平安であること、生きている喜びを感じることなどです。シャロームが意味する平和は、私たちの周りの状況を意味するよりも、私たちの心の中の状況を表すことが多いのです。当時、人々の生活は、今と同じように大変でした。重い税金が課せられていました。仕事がない人が大勢いました。モラルが低下していました。そして、ローマによる強制的な支配のため、ローマの兵士がいつも周りで監視していました。確かに、戦争はなかったのですが、心の平和はありませんでした。ローマの政治も、ギリシャの哲学も、ユダヤ教の宗教も、人々に心の平和を与えることはできなかったのです。そんな時に、神様が私たちのところに、人間の姿を取ってきてくださいました。私たちの心を平和で満たすためでした。人は、自分の心の中の罪の問題を解決してはじめて、本当の平和を得ることができるのです。

 み使いたちは、羊飼いに、救い主のしるしを伝えました。とても不思議なしるしでした。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」救い主は、光り輝く宮殿にいるのではありません。豪華なゆりかごの中で眠っているのでもありません。家畜小屋にある飼い葉桶の中で眠っているのです。不思議なしるしではありますが、羊飼いたちにとっては、見つけやすいしるしであったでしょう。家畜小屋で生まれる赤ちゃんは他にいないからです。み使いが姿を消すと、羊飼いたちはお互いに、今、自分たちはどうすれば良いか話し合いました。み使いは、羊飼いたちに、救い主を拝みに行きなさいと命令はしませんでしたが、彼らは、期待と喜びがあふれてきて、皆が同じ思いになっていました。彼らは言いました。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」彼らは、大喜びで、ベツレヘムの街中へ向かいました。彼らは、家畜小屋を探しました。彼らはすぐに、ヨセフとマリヤと赤ちゃんイエスを探し当てたことでしょう。彼らに出会うと、羊飼いたちは、自分たちがついさっき見聞きしたことを次々に話しました。み使いが現れたこと、救い主が生まれたという知らせを聞いたこと、み使いから救い主のしるしを聞いたこと、そして、彼らを見つけたことなどです。そして、羊飼いたちは、み使いから聞いたことがすべて目の前で見ていることと同じだったことで非常に驚きました。羊飼いたちは、しばらくして、羊のもとへ戻って行きましたが、彼らは神様をほめたたえて、喜びに満ちて歌を歌いながら帰って行きました。彼らは羊飼いです。その後の生活も、ユダヤの社会では、人々から低く見られていやな思いをすることも何度もあったと思います。しかし、これらの羊飼いは、死ぬまで、神様を礼拝し、クリスマスの夜の出来事を一生忘れることはなかったはずです。

 羊飼いたちは、み使いから救い主が生まれたという知らせを聞いた時に、ただ聞いただけで終わりませんでした。「ああ、それは素晴らしいことですね。」と言って羊の世話を続けたのではありませんでした。自分たちの目でみ使いから聞いたことを確かめるために、救い主を探しに行きました。そして、救い主に出会って、彼らは、飼葉桶に寝ている赤ちゃんが確かに世の人々を罪から救う救い主であることを信じました。それが彼らの生き方を新しくしました。彼らを取り巻く生活の状況は以前とまったく変わりません。み使いから救い主誕生のメッセージを聞いたことで他の人々からほめたたえられることもなかったでしょう。しかし、彼らの心は、シャローム、神様からの喜びと平安に満ちていました。それは、彼らが、赤ちゃんのイエスを救い主だと信じたからです。主イエスの話を何度聞いたとしても、聞いただけでは意味がありません。彼らのようにイエスを救い主だと信じた時に、新しい人生が始まるのです。

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