2022年3月20日 『いのちを与えるキリストの死』  (ヨハネ福音書19章31-37節) | 説教      

2022年3月20日 『いのちを与えるキリストの死』  (ヨハネ福音書19章31-37節)

 先週、私たちは、主イエス・キリストが十字架死なれたことを聖書から読みました。死ぬことは、誰もが一度経験しなければならないことですが、ほとんどの場合、死は突然訪れるので、私たちは、死に対する備えができていないまま、死に立ち向かわなければなりません。自分が言いたかったことを言えないままに死を迎えたり、自分が計画していたことを実現できないまま死を迎えたり、自分の希望や自分の夢をかなえることができないまま死を迎えることが多いです。しかし、主イエス・キリストの死は違いました。主イエスの死は、イエスの活躍で自分たちの信者を奪われ、自分たちの立場に危機感を感じたユダヤ人教指導者たちの妬みによるものであり、彼らの陰謀によってイエスは十字架にかけられたと思われがちですが、実際は、そうではありません。主イエスは、いつ自分が死ぬのか、何のために死ぬのか、どのようにして死ぬのか、すべてのことを知っておられました。主イエスの十字架の死は、父なる神様の計画によるもので、イエスは、父なる神から与えられた使命を果たした死であったのです。主イエスが、十字架で死ぬ前に「完了した」と言われたのは、「私がやらなければならないことはすべて完了した。」という意味で、いわば、死に対する勝利宣言なのです。

 キリストの十字架の死が、自分に何の関係があるかと思う人が多いのですが、聖書は、私たちすべてに大いに関係があると教えています。ある神学者が、人間は3つの恐怖に付きまとわれていると言いました。それは、無意味な存在になることへの恐れ、死に対する恐れ、そして、罪悪感から来る恐れの3つです。主イエスの十字架の死は、これらの恐れから私たちを解放するものです。なぜ、人がそのような恐れを感じるのかと言うと、私たちが、私たちにいのちを与えてくださった神様から離れて、神様を知らずに、自分一人で自分の思いのままに生きていることが原因なのです。人間は神と共に生きるべき存在なのに、神から離れているためにこのような恐れを感じています。それはちょうど、子どもが迷子になった状態と同じです。私も子どものころ迷子になった経験がありますが、それは、子どもにとっては本当に怖い体験でした。人間の問題の原因はいろいろあるのですが、聖書は、一番根本にあるのは、私たちが神から離れて、自分勝手な生き方をしていることにあると教えています。そのことが、私たちの心に漠然とした恐れや不安を与えるのです。本当に神など存在するのかと思う人がいると思いますが、神様が存在する証拠の一つは、誰の心にも神という存在があることです。子どもは親から教えられなくても、自分でどうすることもできない時に自然と「神様、助けて!」と叫びます。なぜでしょう。もし、人間が、進化論が言うように、単なる細胞分裂が続いて、偶然の重なりで生まれたと存在だとしたらどうでしょうか。人間という生き物ができたことについては説明できますが、人間の心がどのように出来上がったのかまったく不明です。なぜ、誰もが神という存在を考えるのでしょうか。また、なぜ、人間の心には共通する善悪の基準、正義感を持っているのでしょうか。なぜ、ロシアがウクライナを一方的に攻撃をすると私たちは、それはおかしいと考えるのでしょうか。その答えは、人間が神によって造られたものだからです。神様が持っている善悪の基準が、人間の心にも備わっているからです。本来、私たちは、神様の教えに従い、神と共に生きているなら、何の問題も恐れもなく、平安と喜びに満ちて生きることができたのですが、人間は、神を忘れて自分一人で生きるようになって、すべてを自分の考えと願いに基づいて生きるようになりました。すべての人が自己中心なので、どうしても小さなレベルでは隣の人と、大きなレベルでは隣の国とぶつかってしまうのです。その状態を聖書は罪と言います。

 罪は私たちにどのように働くのでしょうか。一つは、罪の力です。私たちは、神を離れてすべて自分を中心にして考えるために、私たちの心は、周りの人間を見て妬みを感じたり、憎しみを感じたり、うぬぼれたり、傲慢になったり、劣等感になったりと、様々な悪い思いで私たちの考え方や行動を支配してしまいます。例えば、私たちが誰かのことを憎むようになると、その人のことを考えるだけで、幸せな気持ちや喜びや平安は一瞬にして吹き飛んでしまいます。そのような生き方はもったいないです。自分の幸せが、誰かに対する憎しみによって壊されてしまうのです。罪が私たちに与えるもう一つのことは罪がもたらす罰です。私たちはロシアがウクライナイ対して行っていることを見ると、ロシアは裁かれなければならないと感じます。ロシアがやりたい放題行うことは正しいことではないと感じるからです。罪は罰せられなければならないと感じることは正当なことです。しかし罰せられなければならないのは他人だけではありません。自分自身も同じです。私たち人間は、神を離れているために、神の目に100%正しい生き方はできません。実は、私たちも裁かれなければならない一人なのです。キリストの十字架の死は、そのような罪を持っている私たちのために神様が行ってくださった素晴らしいことなのです。それは、神様の愛の働きです。

 神様は私たちを愛しておられて、自分が第一という罪の心に支配され、その罰を受けなければならない私たちを、そのままにせずに、私たちを罪の力と罪の裁きから解放する道を開いてくださいました。主イエスの十字架は、私たちを罪の罰から解放するためのものです。一つの例えで考えみましょう。2人の男性が大学までずっと一緒に学生生活を送って親友になりました。大学を卒業後は別々の人生を歩み、いつしか連絡が途切れました。やがて時が経って、一人は裁判官になりました。もう一人は堕落の道を進んで行ったために犯罪を犯して逮捕されました。その男は犯罪の裁判を受けるため裁判官の前に引き出されました。裁判官は犯罪者を見てびっくりしました。自分の親友だったからです。裁判官は悩みました。裁判官として犯罪は正しく裁かなければなりません。しかし、できれば親友が罰を受けなくてもすむようにしてあげたいと思いました。裁判官はその友を心から愛していたからです。そこで、裁判官は考え抜いた末に、犯罪者に向かって言いました。「あなたは、あなたが犯した犯罪の罰として罰金1万ドルを支払わなければなりません。」このようにして彼は正しい裁判を行いました。次に裁判官は親友の犯罪者に近づいて、彼のために1万ドルの小切手を切りました。そして、それを親友に手渡して「自分があなたの代わりに罰金を払うよ。」と言いました。これが、主イエスが十字架で死んでくださったことの意味です。私たちは、神様の前に裁きを受けなければならない者です。しかし、神様は私たちを愛しておられるので、何とか私たちが罰を受けなくてもよい方法を考えてくださいました。神のひとり子であるイエス・キリストが私たちと同じ人間になって、私たちの代わりに、十字架のうえで私たちが受けるべき罰を受けてくださったのです。「人が友のためにいのちを捨てるこれよりも大きな愛はありません。」これは主イエス・キリストが言われた言葉です。主イエスの十字架によって、私たちは罪の裁きから解放されました。同時に、私たちは、神とともに新しく行き始めることになりました。神様の愛を知った時に、私たちの生き方、考え方が変わりました。人は誰かからすごく愛されていることを知ると、自然とこころが優しくなり、不思議に、今まで心の中にあった憎しみや、妬みや、不満が消えて、心の中に落ち着きを感じるようになるのです。だからこそ、私たちには、主イエスの十字架が必要なのです。

 1954年9月26日、北海道と本州の青森を結ぶ青函連絡船の「洞爺丸」が、台風の影響を受けて津軽海峡上で転覆し、1155人の死者・行方不明者を出す大惨事になりました。この船に二人の宣教師が乗っていました。アメリカ人のリーパー宣教師とカナダ人のストーン宣教師でした。船内の人々は慌てふためき、パニック状態になっていました。皆、救命胴衣を着けようとしていましたが、

二人の宣教師は、その手助けをしていました。すると、一人の少女が救命胴衣の紐が切れて泣いていました。もう一人、救命胴衣をもらえなかった青年がいました。二人の宣教師は迷うことなく自分の救命胴衣を彼らに自分の救命胴衣を渡しました。救命胴衣をもらった二人は助かりましたが、二人の宣教師は死亡しました。事故の後、犠牲者の遺体が発見されましたが、ほとんどの犠牲者は救命胴衣を着けていたのですが、この二人の宣教師だけは救命胴衣をつけていませんでした。その後、二人から救命胴衣をもらった女性と青年が現れて、二人の宣教師が自分のいのちを犠牲にして、二人のいのちを救ったことが人々の知るところとなりました。宣教師は彼らに言っていました。「あなたはイエス・キリストを知っていますか。私は主イエスを信じているので、死んでも永遠のいのちがあることを知っているから大丈夫です。もし知らないなら、この救命胴衣をつけて生きてください。助かったら、どこかの教会に行ってイエスを信じてください。」二人の宣教師は自分のいのちを犠牲にして二人の人を助けました。ただ、いのちを救っただけではなく、その人たちをイエスを信じる信仰に導き、永遠のいのちを持つ人へと導いたのです。主イエスは、すべての人がイエスを信じて、罪の力と罪の裁きから解放されて、永遠に生きる者となるために、自分のいのちを犠牲にしてくださいました。十字架は私たち対する神様の愛のシンボルになりました。

 このようにイエスの死は突然起きた死ではなく、イエスを憎んだユダヤ教指導者たちの陰謀によって殺されたのでもなく、神様の永遠の計画の中で行われたことでした。そのことを示すために、ヨハネは、イエスの十字架の死が、旧約聖書の預言を成就するものであったことを強調しています。

31節に「その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であった。」と書かれています。ユダヤ人は安息日の土曜日が聖なる日で、その日に礼拝をし、またその日大切な行事もありました。主イエスは金曜日に十字架にかけられ、午後3時に息を引き取りましたl31節に翌日が大いなる日と書かれているのは、翌日が過越しの祭りというユダヤ人にとって最も大切な祭りの日だったのです。ユダヤ教の指導者たちは、金曜日のうちに主イエスの体を十字架から降ろしたいと思っていました。十字架刑の場合、たいてい磔にされた人の体は、体腐るか鳥に食べられるかするまで。十字架の上に放っておかれました。ユダヤ教の指導者たちは、そんなことになれば、大切な祭りが汚れると感じて、早くイエスの遺体を十字架から降ろすことをローマ総督のピラトに申し出ました。ピラトはローマの兵士に命じて、イエスと他2人の犯罪人のすねの骨を折るように言いました。十字架刑とは、犯罪人が手首と足首を太いくぎで十字架にはりつけにすることですが、これだけではすぐに死にません。犯罪人は肉体の極限の苦しみを味わいながら、長い時間苦しんで死んで行きました。ところが足の脛の骨を折ると、彼らは足を踏ん張って体を起こすことができません。はりつけにされた体はだんだん重さで下にさがります。すると、横隔膜が圧迫されて呼吸できなくなります。それで、はりつけにされた人は呼吸をしようとして体を起き上がらせるために足を踏ん張るのです。しかし、すねの骨が折られると、足を踏ん張ることができないので、呼吸ができなくなり、人は、窒息ですぐに死んでしまいます。そのため、ピラトは3人の脛の骨を折らせようとしたのです。ローマの兵士はイエスと共にはりつけになった2人の罪人んお脛の骨を大きな金槌でたたいて砕いたのですが、主イエスを見ると、すでに死んでおられたので、兵士たちはピラトの命令に従わずにイエスの脛の骨を折りませんでした。

 一方、主イエスがすでに死んでいることを知ったローマの兵士たちは、イエスの足の脛の骨を折ることはしませんでしたが、イエスの死が普通の場合に比べてかなり早かったので、イエスが確かに死んでいることを確認するために、兵士の一人が主イエスのわき腹を槍で突き刺しました。兵士たちはピラトが命令しなかったことを行いました。すると、血と水がイエスの体から噴き出しました。イエスのわき腹から血だけではなく水が噴き出したことに、どのような医学的な意味があるか、私はよく分かりませんが、主イエスが確かに死んでいたことが証明されました。なぜ、ヨハネがこのようなことを書いたのかと言うと、ヨハネがこの福音書を書いていたころ、イエスの復活を信じない人たちがいろいろな仮説を考え出していました。その中の一つは、イエスは十字架の上で完全に死んだのではなく意識を失って仮死状態になっていて、三日目に意識が戻ったのだと主張していました。ヨハネは彼らに対する反論としてこのことを書きました。ただ、同時に、ヨハネは、この2つの出来事は旧約聖書の預言の成就であることを強調しています。旧約聖書には、救い主イエス・キリストに関する預言が300以上記されていますが、その多くが十字架に関する預言でした。預言されていたということは、主イエスの十字架の死は、神様の永遠の昔からの計画によるものであることを示しています。主イエスの脛の骨が折られなかったことについては、詩篇の34篇20節には次のような預言があります。主は彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、折られることはない。」それで、ヨハネは36節で、「これらのことが起こったのは、「彼の骨は一つも折られることはない」とある聖書が成就するためであると書いたのです。また、ローマの兵士がイエスのわき腹を槍で刺したことについては、ヨハネは37節で旧約聖書のゼカリヤ書という預言書の12章10節に書かれている言葉を引用して、「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」と言われていると書いています。このように、主イエスの十字架の死は、神様が私たちを罪の力と罪の裁きから解放し、私たちとの関係を回復するために、永遠の昔から計画されていたことだったのです。神様は、この世のすべての人を愛しておられます。誰一人、罪の裁きを受けてほしくないと思っておられます。そのために、神のひとり子であるイエスを十字架に掛けられたのです。最後に聖書で最も有名な言葉、ヨハネの3章16節を読みましょう。

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