2023年5月21日 『わたしたちを守る方』(ヨハネ10章7~10節) | 説教      

2023年5月21日 『わたしたちを守る方』(ヨハネ10章7~10節)

聖書の中には、イエス・キリストについて様々な呼び方が記されています。イザヤは、不思議な助言者、永遠の父、力ある神、平和の君と呼びました。新約聖書のへブル人への手紙には、イエスは信仰の創始者であり完成者であるとか、偉大なる大祭司という呼び名が記されています。しかし、その中で、主イエスは何度も、神様と人間との関係を羊飼いと羊に例えて教えられました。イスラエルでは、羊は数多く飼われていて、誰もがよく知っている動物でした。羊は弱い動物です。敵に攻撃された時に自分を守ることができません。そのために、羊はいつも羊飼いによって守られていました。今日の箇所では、主イエスが「わたしは羊たちの門です」という不思議な言葉を言われたので、それが、私たちにとってどのような意味があるのかを考えたいと思います。

 7節で主が「まことにまことに、あなたがたに言います。」と言われましたが、これは、主イエスが非常に大切なことを語るときにいつも言われた言葉です。従って、今日の個所は、私たち一人一人がよく注意して聞かなければならない箇所です。実は、直前のところで、主イエスは、人間を羊に例えて話されたのですが、聞いていた人々がその教えを十分に理解しなかったので、7節から改めて、その言葉の意味を説明しておられます。今日の箇所では、主イエスはご自分のことを2つの例えを用いて教えておられます。その一つが7節の「わたしは羊たちの門です」というものです。イスラエルでは、多くの羊が飼われていましたが、羊は、夜になると石を積み上げて造った高い塀に囲まれた場所の中に入りました。この囲いには門がつけられていて、羊飼いが、その門の開け閉めをします。羊は、この囲いの中にいる限り安全でした。羊は、囲いの門をとおって中に入るのですが、主イエスは、ご自分を、羊が入る囲いの門に例えられました。羊の囲いには一か所だけ開いている部分があって、そこに門が取り付けられているのですが、門がない囲いもありました。その場合は、羊飼いが門の代わりに、開いている部分に横になって、羊を獣や羊泥棒から守りました。9節で、主イエスは次のように言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして牧草を見つけます。」ここで、主イエスは「救われます」という言葉を使われましたが、私たちは「救われる」とはどんな意味だろうと思います。そこで、主イエスは、そのことを言い換えて10節の後半で次のように言われました。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」この言葉から、「救われる」とは、「豊かないのちを持つこと」であることが分かります。例えば、動物園に行って、羊を見に行ったとします。その時、元気にぴょんぴょんはねている羊を見ると、うれしくなりますが、羊が元気がなくじっとしていると心配になります。イエス・キリストを信じて救われるとは、イエス・キリストを信じて、私たちが豊かないのちで生きる者になることを意味します。聖書の教えは、もともと人間は神に造られたものであり、神と共に生きる時が最も豊かないのちを持って生きることができると教えています。私たち人間は、体が健康であることはすばらしいことなのですが、それだけでは私たちが本当に豊かないのちで生きるとは言えません。それは、人間は、他の動物と違って、神の息、神様の魂が吹き込まれてはじめて生きるものになっているので、その部分が満たされていないと、本当に豊かな生き方ができないからです。4世紀の神学者アウグスチヌスという人は、クリスチャンの両親の教えに逆らって、神から遠く離れた人生を生きていましたが、様々なトラブルにぶつかり苦しんでいた時に、聖書の言葉に導かれて信仰に入りました。彼は、自分の経験から言いました。「人間の心には神という形の穴があいていて、その穴が埋められない限り、本当に満ちたりた人生を生きることはできない。」人間は、神から離れると、自分を頼りにし自分の感情や欲望ですべてのことを判断し行動するようになります。すると、大勢の人間がともに生きている社会の中では、どうしても自己中心な人間同士がぶつかり合い、憎しみや怒りが心に湧き上がったり、互いに傷つけたり傷つけられたりしてしまいます。そのような生き方をしている人間について、聖書は、それは人には罪があるからだと教えています。

 神から離れている人はどうすればよいのでしょうか。それは、羊と同じように、囲いの外にいることは危険だと気がつかなければなりません。そして、主イエスが言われたように、イエスという門をとおって囲いの中に入らなければなりません。囲いの中に入るための門は一つしかありません。日本人は、絶対的な真理を好みません。神についても、多くの人はキリスト教は自分たちの神だけを真理とする排他的な宗教だと言います。でも、私たちが住んでいる世界は、絶対的真理があるから、美しく調和がとれているのです。もしも、1+1が必ず2になるのでなければ、この世界は混沌としています。万有引力の法則がいつも一つの真理に従って働いているから、私たちはこの世界で生きていられるのです。この世界にもし本当に神のような存在者が100人もいれば、この世界はどうなってしまうでしょうか。大混乱です。神が二人いる時点で、この世界は混乱します。クリスチャンは決して傲慢になってはいけませんが、真理が一つであるように、真実の神は一人だけであること、聖書の神だけが本当の神であるという確信は、しっかりと持っておかなければなりません。日本人は、はっきりしていることよりも何となくぼんやりしていることが好きですが、ぼんやりしていることが私たちにとって益になる訳ではありません。私たちは、自分が聞いて心地よい言葉や考えを受け入れがちですが、そのような考えいつも自分にとって益になるとは限りません。私は、できるだけ糖分や炭水化物は取らないほうがいいのですが、やっぱりそれらはおいしいので食べてしまいます。でも、おいしいものを食べると、自分の体にはマイナスに働きます。自分の体にとっては食べないほうが絶対に良いのです。それと同じように、私たちが生きるうえで、大切なことは、自分にとって受け入れやすい考えに基づいて生きるのではなく、本当に正しい教え、本当に自分にとって益になる教えに従うことです。

 主イエスは9節で言われました「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」羊が門を通って中に入ることには3つの良い点があります。第一に、その羊は救われます。人間が救われるとは、何から救われるのでしょうか。それは、人間の罪がもたらす神のさばきから救われることを意味します。私たちがイエス・キリストを救い主と信じた瞬間、私たちの過去のすべての罪、現在の罪、将来犯すかも知れない罪が私たちにもたらす全ての神の裁きから解放されます。主イエス・キリストが十字架の上で、私たちの身代わりになって、すでにそのさばきを受けてくださったおかげです。私たちは、イエスキリストを信じることによって、罪の裁きから解放されるので、そのことで悩む必要がなくなりました。第二に、私たちは、私たちの感情や考えに対して誘惑する罪の力に対する勝利を経験することができます。人間は、自分の努力や、体をうちたたくことや、他人の教えを実践することなどで、自分を変えることはできません。しかし、誰かから愛されていることを実感すると、私たちは新しい生き方を始めることができます。聖書は、私たちは、神様から、神がご自分のいのちを犠牲にるほどまでに愛されていることを教えています。主イエスの十字架がそのシンボルです。主イエスは、私たちの身代わりになって、十字架で、私たちが受けるべき罪の罰を受けられたのです。人は、自分が本当に愛されていることを知ると強くなれると思います。新しい生き方を始めることができます。第三に、私たちは、最終的に、まったく罪のない世界で生きるという約束が与えられています。私たちは、死んだら滅んで消え去るのではありません。罪に満ちた世界から解放されて、まったく罪のない世界に移されるのです。その時に、私たちは、本当の平安、本当のそして永遠の休息を得ることができるのです。

 羊が門の中に入って益となる第二の点は何でしょうか。それは安全であるということです。羊が安全であることは「出たり入ったりして」という表現が表しています。これはヘブル語特有の表現であって、ここでは、羊が中に入ったり出たりするということを示しているのではありません。霊的な意味合いで考えると、人が教会や主イエスに対する信仰に入ったり出て行ったりすることを意味するのではありません。「出入りができること」その事実自体が安全を意味するのです。主イエスの時代、人が国や町から自由にでかけたり、また自由に入ることができるのは、その国や町が戦争をしていなくて、安全な状態である時に限られていました。当時のイスラエルの人々は。自分の国や町の支配者が、強い力で支配し、敵が攻め込む余地がない時にだけ、自由に自分の国や町から出入りすることができたのです。戦争や危険が迫っている時には、人々は、城壁に囲まれた町の中に閉じこもらなければなりませんでした。主イエスは、「わたしは羊たちの門です」と言われましたが、羊飼いは、羊の囲いの開いている部分に横たわって、文字通り羊の門となって羊を守っていました。こと主イエスは11節で「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」と言われましたが、主イエスは、私たちのために、ご自分のいのちを捨てて、私たちを永遠の滅びから救い出してくださいました。したがって、誰でも、イエスの門をとおって中に入るなら、私たちの罪は許されますから、私たちは、神様との平和を持つ者になるのです。神の前に、私たちは自由に出入りができる者に変えられるのです。神様が私たちの味方であるなら、私たちの敵になれる者はいません。神に勝てる人はこの世に一人もいないからです。

 羊が門の中に入って益となる第三の点は、羊たちが満ちたりた生活をすることができるということです。9節で主イエスは、「羊は牧草を見つけます」と言われました。イスラエルの地域は、雨が少なく、非常に渇いた土地でした。したがって、イスラエルでは豊かな牧草を見つけることは簡単ではなく、羊飼いは、羊たちを連れて細い道やがけっぷちを通ることもよくありました。羊飼いは、必ず、羊のために、よい牧草地を見つけました。羊にとって、良い牧草地が見つかることは、生きるためにどうしても必要なことでした。羊は、牧草地で良い草を食べることによって、体は健康になりますし、心も喜びと満足感でいっぱいになります。聖書は、私たち人間は、イエス・キリストを救い主と信じて、罪の問題から解放され、神様の愛をいっぱいに感じて生きるときに、牧草地にいる羊のように、神様の恵みと祝福に満たされることを約束しています。10節の後半で、主イエスが「わたしが来たのは羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」と言われましたが、聖書は、私たち人間は、主イエス・キリストを救い主と信じて、神から離れて生きて来た罪を赦される時、私たちは本当に豊かな人生を送ることができることを約束しています。神様は、私たち一人一人に最高の人生を用意してくださるのです。コロサイ人への手紙の2章3節でパウロはこう言いました。「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」私たちがキリストを信じて生きる時に、豊かないのちを生きるのに必要な知恵と知識の宝を私たちは見つけ出すことができるのです。

 この最高の人生を生きるためには、キリストと言う門を通って中に羊の囲いの中に入らなければなりません。そとから眺めているだけではだめなのです。豊かな人生への道は一つだけです。その道を用意するために、キリストは神の栄光を捨てて、この世に来てくださり、私たちの罪が赦されるために、私たちが受けるはずの刑罰を十字架で受けてくださいました。キリストだけが、豊かな人生に入るための唯一の門です。私たちは、このキリスト以外のものに心が奪われてはいませんか。この世のものが私たちに本当に豊かな人生を与えることはありません。キリストともに生きる者として、神様が与えてくださる豊かな人生を歩み続けましょう。

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