2023年6月4日 『心の貧しい者は幸いです』(マタイの福音書5章1-3節) | 説教      

2023年6月4日 『心の貧しい者は幸いです』(マタイの福音書5章1-3節)

(1)幸いな人とは

 今日から、しばらく、マタイの5章から8章に記された主イエスの説教について学んでいきたいと思います。この個所は、主イエスが語られた非常に大切な教えが長く語られたもので、主イエスの「山上の説教」と呼ばれています。なぜ、山上の説教と言われるかというと、1節に「その群衆を見て、イエスは山に登られた」と書かれているからです。説教が語られた場所が山だったのです。実際には、山と言うよりも、ガリラヤ湖という湖の北側に広がっていた丘陵地帯で、そこには草が生えていたので群衆は座ることができました。主イエスは、「群衆を見られた」とありますが、主イエスが群衆を見ることがよくありましたが、群衆を見るたびに、主イエスは彼らを深く憐れみ、病を癒されたり、奇跡のわざによって空腹の人々に食べ物を与えたりされました。この時も、主イエスは群衆を見て、彼らに対して深く憐れむ心を持たれて、そして、彼らに必要な大切なメッセージを語られたのです。また、1節の後半には、「そして腰を下ろされると」と書かれています。主イエスが群衆に向かって教えられるのですが、当時ユダヤ教でラビと呼ばれた教師が人々に大切な教えを語る時はいつも座っていました。彼らが立って語る教えはそれほど大切ではなく非公式のものと見なされ、ラビたちが座って教える教えはユダヤ教の正式な教えと見られていました。したがって、この時、主イエスが座られたのは、これから語る教えが非常に大切なものであることを表しています。この時の主イエスの教えは、当時の群衆にとっても、それから2000年経った、今日の人々にとっても大きな影響を与えています。日本人にも大きな影響を与えたため、多くの教えが日本語になっています。例えば、「求めよ。さらば与えられん」とか、「狭き門から入れ」「汝の敵を愛せ」「豚に真珠」などがあります。私は、学生時代、道を歩いていたら聖書の言葉が記された看板を見つけました。「求めよ。さらば与えられん。捜せよ、さらば見出さん。叩けよ。さらば開かれん。」この看板をどこで見たと思いますか?大阪のパチンコ屋の前でした。確かに、パチンコ屋の宣伝に使える言葉かなと私は感心しました。ただし、主イエスが語られた教えは、額に入れて壁に飾っておく気の利いた教えといったものではありません。神に造られた人間が、本来の目的にかなった生き方をするためにはどのような心構えをするべきなのかという、いわば、キリスト教信仰の土台のような教えです。

 山上の説教の中でも、冒頭の1節から12節までは、「8つの幸い」と呼ばれる、人間の幸いについて語られています。「幸い」という言葉を見ると、私たちは「ハッピー」と言う言葉を思い浮かべますが、ここで主イエスが使われている言葉は、ハッピーという意味の言葉ではありません。ハッピーという言葉はもともとハプニングという言葉と関係していますから、ハッピーな人とは、たまたま恵まれた状況の中にいて心配事から解放されている人という意味なのです。具体的に言えば、裕福でお金の心配がない人、健康が与えられている人、良い仕事が与えられている人、良い人間関係が与えられている人などです。また、ハッピーな幸せとは、その人がどう感じるのかということを表しています。ハッピーという感情は、きわめて主観的なものであり、その感情は、回りの状況、回りの人々からの言葉などが変わると一変に消え去ってしまいます。もしかすると、私たちは、明日、病気になるかもしれませんし、突然仕事や財産を失うこともあるでしょう。従って、ハッピーな人は、どんな状況でも変わることのない心の平安を持つことができません。今、自分が持っているものが決して失われることがないように、必死になって握りしめていなかればならないからです。ある有名な話があります。1923年にアメリカ、シカゴの高級ホテルで非常に重要な会議が開催されました。この会議に出席したのは、世界で最も成功した9人の人でした。アメリカ最大の鉄鋼会社の社長。アメリカ最大のガス会社の社長。ニューヨーク証券取引所の社長。大統領の内閣のメンバー、国際決済銀行の総裁など、世界で最も成功した男性のグループが集まりました。それから25年後、これらのメンバーどうなったでしょうか。ある者は、犯罪を犯して海外に脱出しそこで無一文で死にました。ある者は刑務所で生涯を終え、ある者は自殺しました。この9人の男性は、皆、金儲けの方法は知っていましたが、神の祝福を受けた幸いな生き方を学んだ者は一人もいませんでした。ハピネスの幸せはひじょうにもろいものなのです。

 一方、ここで「さいわい」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「マカリオス」という言葉ですが、英語の聖書では、happyではなくblessedという言葉で訳されています。さきほども言いましたように、ハッピーという言葉は、人が心で感じている状態を表す言葉です。一方、主イエスが8つの祝福で教えておられるのは、人がどのように感じるのかということではありません。主イエスが言おうとしておられるのは、祝福された人々は、神様からどのように見られている人であるかということです。従って、「祝福」という言葉には、人間の心が示されているのではなく、神様の心が示されているのです。神様が「よし」と認める人、神様が、この人は私のしもべとして相応しい人だと認めてくださる人という意味です。マックス・ルカードという人は、祝福された人とは、天国で拍手をもって迎えらえる人と説明しています。聖書は、私たち人間にとって、人々から称賛を得ることよりも、神様から称賛を得ることのほうがはるかに重要であると教えています。私たちは、人間社会で生きて行く時に、いつも回りから正しい評価を得ることができるとは限りません。しかも、人間の評価というのは変わりやすく、また他の人間を正しく評価できる人が多いとは言えません。私たちは、人間社会の中では正しい評価をしてもらえない場合もあります。しかし、全知全能の神様はわたしと言う一人の小さな人間についてすべてのことを見抜いておられます。理解しておられます。そして、私のために最善のことをしようと願っておられる方です。そのような神様から認めてもらうことは、何にも比べられないほど、大切でありすばらしいことなのです。

  • 心の貧しい者は幸いです(3節)

 3節から8つの幸いが記されていますが、これを読んですぐに分かることは、聖書の幸福論は、私たちが普通に考えていることと全く違っているということです。3節で、主イエスは言われました。「ああ、何と幸いなことだろう。心の貧しい人は。」これを聞いていた人は、皆、びっくりしたことでしょう。というのは、主イエスは幸いな人の第一は「心の貧しい者」であると言われたからです。「心が貧しい」とはどのような意味なのでしょうか。「心が貧しい人」とは、生きて行く価値がない人と言う意味ではありません。聖書は、すべての人は神の作品であり、神様の目には全ての人は大きな価値があると、繰り返し教えています。また、心が貧しい人とは、シャイで自分の心を他の人に表すことができない人、他の人たちや神様とコミュニケーションを取ることができない人という意味でもありません。詩篇の139篇を見ると、神様は私たちのすべての行動や思いや言葉をすべて見抜いておられます。例え私たちが神様の前にシャイであっても、心配する必要はありません。神様は、私たちのことをすべて知っておられて、私たちをそのままで愛して下さるからです。

 では、「心が貧しい人」とはどんな人でしょう。貧しいと訳されているギリシャ語は「プトコス」という言葉ですが、これは、普通に貧しいと言う意味よりも強い言葉で、一文無しで乞食をしなければ生きて行けない究極の貧しさを意味する言葉です。ルカの福音書の16章に、金持ちの家の門の前で、その家の食べ物の残り物をもらっていた乞食のラザロという人物が登場しますが、彼の貧しさがまさにプトコスの貧しさでした。従って、「心が貧しい」というのは、「私の魂には神様の前に誇れるものはまったく何もないことを認める」ということになりますが、これは、人間と神との関係に関する言葉です。お金を全然持っていない人は、自分の力では何もできませんから、どうしても誰か他の人の助け、自分以外の人からの助けが必要です。心の貧しさということで考えると、人間は、もともと神様によって造られましたが、最初の人間が神様の命令に背いてしまったために、人間は神様と共に生きることができなくなりました。人間の魂は迷子のような状態になったのです。しかし、私たちには、自分の力で神様との関係を回復する力がありません。その点において、私たちはまったく無力です。その状態が、私たちの心が貧しいと言う状態なのです。したがって、「心の貧しい人」とは、自分の霊的な状態が、神様によって何とかしてもらわないと、自分では何もできず、私たちは、神様から離れていることで神の裁きを受けなければならない者であることを認めることを意味します。言い換えれば、「心の貧しい人」とは、神様の前に自分の罪を認めて、主イエスの十字架による赦しだけを頼りにする人」ということです。ルカの福音書18章に記されているのですが、ある時、主イエスがある人々に向かってたとえ話を話されました。ある人々とは、「自分は正しいと確信して、他の人々を見下している人々」でした。たぶん、これはユダヤ教の一派であるパリサイ人たちのことでした。イエスが話されたのはこんな話でした。「二人の人が神殿に祈りを捧げるために来ました。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人でした。パリサイ人は、人々が良く見える場所に立って次のように祈りました。「私は他の人のように、盗みをしません。不正もしません。不倫もしません。となりにいる取税人みたいな悪いことはしていません。私は、毎週2度断食をし、かならず収入の十分の一は献金しています。」彼は、確かにまじめな人生を生きていた人でした。彼の行いは立派でした。一方、取税人は、いつも仲間のユダヤ人を苦しめて税金を取り上げて、その一部を盗んでいたような人でしたので、悪人でありユダヤ社会では最も嫌われていた人たちでした。この取税人は神殿の隅っこに立って、天を見上げることもなく、うつむいたまま、一言祈りました。「神様、罪人の私を憐れんでください。」そして、主イエスは言われました。「このふたりのうち、神様に受け入れられたのは、パリサイ人ではありません。取税人です。誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」二人の表面的な行いを見れば、正しい人間に見えるのは絶対にパリサイ人です。しかし、神様は、私たちの表面的な行動を見るのではなく、私たちの心を見ておられるので、人間の判断と神様の判断は異なることが多いのです。パリサイ人は心の高ぶった人でしたが、取税人は心の貧しい人でした。

 では、心の貧しい人はなぜ幸いなのでしょうか。その理由は3節の後半で語られています。「天の御国はその人たちのものだからです。」ここで、日本語では「天の御国」と訳されていますが、マタイはユダヤ人なので「神」という言葉を使うことを極力避けます。なぜなら、彼はモーセの十戒の中に「神の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めがあることをよく知っていたからです。また、日本語では単に「国」と訳されていますが、ギリシャ語では「王国」という言葉が使われています。つまり、単なる国ではなく王様が支配する国、という意味です。従って、「天の御国」とは神様が支配する国という意味になります。しかも、主イエスは「心の貧しい人は幸いだ。天国はやがてその人のものになるだろう」とは言われませんでした。神様の前に自分が罪人であることを正直に認めて主イエスを救い主と信じる者こと、「心の貧しい人ですが、その人は、信じた春化に、神様の王国の一員になるのです。つまり、地上の生活をする中でも、その人は、神様の支配、神様の守りの中に入れられるということを意味します。エペソ人への手紙2章6節には次のように書かれています。「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」私たちは、主イエスを信じると洗礼を受けますが、洗礼とは、私たちをキリストに結び合わされるものです。従って、私たちの肉体はこの世にありますが、霊的には、私たちは、キリストに結び合わされ、そして、キリストとともに全世界を支配する者の一人に加えられるのです。心の貧しい者は、決して敗北者ではありません。キリストに繋がることによって、私たちは勝利者の側についているのです。パウロが言ったように、キリストが私たちの味方についておられるなら、誰が私たちに敵対することができるでしょうか。私たちの外なる人である体は、日々衰えて行くでしょう。しかし、たとえそうであっても、私たちの内なる人である魂は、すでに、キリストの側についているので、勝利者なのです。心の貧しい者こそ、本当の勝利者として生きることができるのです。そして、私たちが主イエスを信じている限り、わたしたちは、この勝利から離れることはありません。だから、心の貧しい者は幸いなのです。

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