2023年6月11日 『悲しむ者は幸いです』(マタイの福音書5章4節) | 説教      

2023年6月11日 『悲しむ者は幸いです』(マタイの福音書5章4節)

 今日は、主イエスが教えられた8つの幸いの2番目を取り上げます。先週から、8つの幸いを取り上げていますが、先週お話ししたように、主イエスが語られた幸いの教えは、この世の人が普通に考えている幸福とはまったく正反対の教えです。先週は心の貧しい者が幸いであることを学びました。心が貧しいとは、自分の中に神様の目に正しいと認められるものを何一つ持っていないことを確信する人のことで、そのことを認めることによって主イエスの十字架による、罪の救いに導かれる人のことでした。このように、主イエスが語られる幸福は、この世の幸福論とは正反対の教えであることが分かります。それは、今日の箇所に記された2番目の幸いを見ても明らかです。世の中の人は、私たちに幸福をもたらすものは、富や楽しみや仕事で成功することや名声を上げること、あるいは、幸福をもたらすものは、苦しみがないこと、失望することがないこと、いらいらすることがないこと、つまり、自分にとって問題のない状態が幸福であると考えています。しかし、今日の箇所では、主イエスは言われました。「悲しむ者は幸いです」ルカの福音書の山上の説教ではもっと強い言い方が記されています。「今、笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。」今、私たちが笑っていられる状況は、もしかすると明日には無くなるかも知れないことを主イエスは警告しておられます。山上の説教で、主イエスが教えられた、悲しむ者がなぜ幸いなのか、悲しむものにはどのようなよい結果が待っているのか、そのようなことを今日は考えたいと思います。

  • 悲しみについて

 悲しみという感情は、私たちにとって自然の感情であり、誰もが経験することです。ただ、悲しみには、様々な悲しみがあって、中には、自然な感情で私たちが悲しみを感じるのは当然というものもあれば、自分勝手な考えや欲望から生じる不適切な悲しみもあります。今日は、最初に、いろいろな悲しみについて考えてみたいと思います。不適切な悲しみは、人間の罪と深く関わっています。例えば、典型的な例としては、旧約聖書に登場するアムノンという名前のダビデの息子の悲しみがあります。ダビデには妻が複数いて、子どもも数多くいました。アムノンは、腹違いの妹タマルに恋をして、彼はタマルを恋する苦しみで病気になるほどでした。アムノンは、タマルが処女であって自分が彼女に何かするということはとてもできないと思われたので、悲しみ苦しんでいました。ただ、その苦しみは、彼の欲望が満たされないことから非常に身勝手なものでした。この苦しみは大きな罪を犯すことになりました。アムノンは悪い友だちにそそのかされて、タマルを騙して、力ずくでタマルを辱めて、彼女と寝ました。するとアムノンはさらにひどいことをします。いったん自分の性欲が満たされると、その途端に、彼はタマルに対する激しい憎しみを感じて、彼女を外に追い出してしまいます。これは、極端な例ですが、人間は、自分が企てる悪い計画や願いが実現されないと悲しみを感じます。そのような悲しみは人の罪から来る悲しみです。

 私たちは愛する者を失くすと深い悲しみを感じます。それは当然の悲しみです。しかし、その悲しみがあまりにも強くて、いつまでも悲しい気持ちが続いて、きちんとした生活ができなくなってしまうようになると、それは相応しい悲しみとは言えません。クリスチャンの場合、そのような悲しみは神様への不信仰から来ています。神様は、私たちのためにすべてのことを働かせて、私たちにとって益となることをしてくださる方です。私たちは、どんな時も、ひとりぼっちではなく、神様がいつもともにいて私たちを助け、導き、慰めてくださいます。ダビデ自身にも、不適切な悲しみがありました。さきほどのアムノンの話と繋がるのですが、アムノンがしたことはタマルの実の兄アブシャロムの激しい怒りを買い、アムノンはアブシャロムに殺されてしまいます。アブシャロムは兄を殺したことでダビデの怒りを買い、エルサレムから逃げ去りますが、3年間の亡命生活を終えて、エルサレムに戻ることが許されます。その後、アブシャロムは父親ダビデの王座を狙って、人々の心を捕らえると同時に兵士を集め、父親ダビデに対して反乱を起こします。このようにして親子の戦いが始まりましたが、アブシャロムは戦いに敗れて殺されてしまいます。父親ダビデは、自分に反乱を起こした息子の死を非常に悲しみ、その悲しみがいつまでも続きました。しかし、アブシャロムは、ダビデ王国に反乱を起こした人間です。王と王の国を守るためにいのちをかけて戦った兵士たちは、ダビデ王が敵であるアブシャロムの息子のために悲しんでいることを聞いて、その日の勝利を嘆きました。ダビデは息子の死に対する悲しみから、正しく国を治めることができなくなっていました。これもまた、不適切な悲しみでした。

 いっぽう、悲しみは自然な感情であり、ふさわしい悲しみもたくさんあります。創世記の23章2節に、妻のサラをなくしたアブラハムの悲しみが記されています。「サラはヘブロンで死んだ。アブラハムは来て、サラのために悼み悲しみ、泣いた」彼も、サラが死んだことで泣いていますが、ダビデの場合と違って、彼の悲しみは愛する妻を失った純粋な悲しみであり、彼は、その悲しみによって正しい判断ができなくなるということはありませんでした。創世記には、サラの死後、神様はあらゆる面でアブラハムを祝福しておられたと書かれています。神様がアブラハムを祝福されたのは、彼が神様を信頼し、神様の言葉を守り、健全な生活をしていたからです。アブラハムは自分の悲しみに支配されることはありませんでした。また、主イエスご自身、何度か涙を流されることがありました。主イエスは、べタニヤという村に住むマルタ、マリヤ、ラザロという兄弟と親しくしておられましたが、ラザロが死んだ時に、主はベタニヤに行かれましたが、聖書には、イエスがそこで涙を流されたと書かれています。また、主イエスは十字架にかかるためにエルサレムに来られた時、町の外からエルサレムを見て嘆いて言われました。「わたしは、何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、お前の子らを集めようとしたことか。それなのに、お前たちはそれを望まなかった。」主イエスはいつも私たちをご覧になり、私たちが神を知らずに苦しみを味わっているのをご覧になると、いつも深い悲しみを感じられました。

  • イエスが言われた「悲しむ者」とは

 しかし、主イエスがここで、悲しむと言われた悲しみは、これらの悲しみとはまったく別のものを意味しています。もちろん、神様は、私たちが間違った欲望から来る不適切な悲しみではなく、自然な純粋な悲しみを経験している人々のことを心に留めてくださり、私たちの気持ちをよく理解してくださり、そして、慰めてくださいます。ただ、ここで主イエスが言われた悲しみは、先週学んだ、第一の幸いである「心の貧しい者」と関係する悲しみです。この悲しみについて、パウロが第コリント7章10節で次のように説明しています。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」つまり、主イエスが言われた悲しみは、自分の罪を認めてそれを悲しむ悲しみのことです。第一の幸いは、心の貧しい者でした。それは、神様の前に自分が天国に入れる資格はまったくないことを認める人のこと、言い換えれば、自分が神様の前に罪人であり、そのままでは神の裁きを受けて永遠に滅びの中に入れられることを認める人です。その人は、自分の罪を悲しみ、このままではだめだと思って、神様の憐みを求めます。主イエスが言われた悲しむ者とは、自分の罪を悲しんで、それを神様の前で悔い改める人のことを指しています。ギリシャ語には悲しみを表す言葉がたくさんありますが、ここで主イエスが使われた言葉は「ペンセオー」という言葉で、もっとも強く、深い悲しみを表す言葉です。旧約聖書をヘブル語からギリシャ語に翻訳した70人訳と呼ばれるギリシャ語の旧約聖書がありますが、創世記37章に最愛の息子ヨセフが死んだと言う知らせを聞いたヤコブのことが記されています。次のように書かれています。「ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、何日もその子のために嘆き悲しんだ。」この時の嘆き悲しみを意味する言葉が、イエスが言われた悲しむという言葉です。

 悲しむ者が幸いなのは、悲しむという感情、あるいは嘆き悲しむという経験そのものが幸いなのではありません。悲しみはけっして喜ばしいものではありません。しかし、そのような悲しみを持つ者に対して、神様が働いてくださることが幸いなのです。嘆き悲しむ者に、慈愛に満ちた神様が憐みを示してくださり、その人の罪を赦してくださるという事実が幸いです。聖書は、人間にとっての最大の問題は、罪の問題であり、罪を持ったままの人間は死んだ後、神の裁きによって永遠の滅びに落とされると聖書は教えています。しかし、自分の罪を認め、その罪を悲しむ者は、自分の罪を悔い改めます。神様は、悔い改めるすべての人間の罪を赦して、その人に永遠のいのちを与えてくださいます。先ほどお話ししたように、ダビデはいろいろな悲しみを経験していました。当然の悲しみも、自分勝手な悲しみもありました。しかし、彼が一番苦しんだ悲しみは、自分が神様に対して本当に罪深い者であることを知った時の悲しみでした。彼はその心を詩篇51篇で告白しています。51篇4節「私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に、悪であることを行いました。」このダビデの悲しみは、自分や回りの人々に対する不満から来るつぶやきではありません。ダビデは、自分が直面している状況のすべてが、他の人の責任なのではなく、自分自身のものであることを確信して、神様の前にへりくだって自分自身の罪を悲しんでいます。このダビデのような人こそが、本当に幸いなのです。

 私たちは、自分の罪をどれほど悲しんでいるでしょうか。最初の人間のアダムとエバは、神様から罪の恐ろしさを教えられていましたが、二人はそれをあまり真剣に考えていませんでした。神様は、二人に「エデンの園の木の実を食べると必ず死ぬ」と警告していましたが、エバは、蛇の誘惑を受けた時に、「あの木の実を食べると死ぬかも知れない」と答えています。罪とは神様に対する反逆ですが、それがどれほど深刻なもの、恐ろしいものであるかを二人は実感していませんでした。そのために、二人は罪を犯して、エデンの園から追放されてしまいました。私たちは、自分の罪をどれほど悲しんでいるでしょうか。私たちの罪は、聖なる神が十字架のうえではりつけにされない限り赦されることがないほど、根深く深刻なものなのです。私たちは自分の罪の深刻さを知らなければなりません。私たちは、自分の罪を、自分の性格だから仕方がないとごまかしたり、この世ではみんなやっていることだから言い訳をしたりして、いい加減に扱っていないでしょうか。そのような人は、人生の本当の幸いを知ることがないままに人生を終わってしまいます。

  • 悲しむ者の幸い

 悲しむ者に与えられる幸いは何でしょうか。主イエスは言われました。「その人たちは慰められるからです。」ギリシャ語の本文では、「その人たちは、彼らは」という言葉が強調されて使われているので、厳密に訳すと、「その人たちだけが慰めを受けるのです。」となります。神様の慰めは、神様の前に、自分の罪を深く悲しみ、心を砕かれた人にだけ注がれるということです。「慰め」という言葉はギリシャ語の「パラカレオ―」という言葉が使われています。この言葉は、主イエスが最後の晩餐の時に弟子たちに「助け主」が遣わされること、すなわち、聖霊が注がれることを約束しておられますが、主が「助け主」と呼ばれたものも「パラカレオー」という言葉から来ています。「パラカレオー」という言葉の意味は、「近くに来るように呼ぶ」という意味で、主イエスが「助け主」と言われのは、「私たちを助けるために直ぐ近くに来てくださる方」という意味で、私たちの「助け主」と言われたのです。私たちの悲しみが神様のもとに届く時、神様は、キリストが約束された助け主、すなわち聖霊をとおして、私たちのそばにいて、いつでも私たちを慰めてくださいます。私たちの人生には、悲しむ時に、私たちの心に直ぐに駆けつけてくれる慰め主がおられることを知っていることは私たちにとって大きな力です。パウロは第二コリント1章3,4節で次のように書いています。「私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にいる人を慰めることができます。」私たちの神様は、いつでもすぐに私たちを慰めようと待っておられます。慰めをとおして、神様は、私たちの思いをともに味わってくださり、私たちを励ましてくださり、また、私たちが次の悲しみに乗り越えられる新しい力を与えてくださいます。私たちの神様は「あらゆる慰めに満ちた」神です。ここで、「慰められるからです」という文章は未来形で書かれていますが、これは、神の慰めは遠い将来、この世が終わる時、あるいは私たちが死んで神のもとに行くときに慰めが与えられると言う意味ではありません。神様の慰めは、私たちが自分の罪を悲しむということを行った後に、はじめて与えられるという意味です。したがって、神様の慰めは、今、地上で生活している間も、いつでも与えられるものです。ただ、私たちは、自分の罪について、真剣に悲しむ心を持っていなければなりません。

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