2023年8月6日 『神が求める正しさとは』(マタイの福音書5章17-20節) | 説教      

2023年8月6日 『神が求める正しさとは』(マタイの福音書5章17-20節)

 今、私たちは、マタイの福音書5章から7章の、一般に「主イエスの山上の説教」と呼ばれるイエスの教えを学んでいますが、この3章にわたる主イエスの教えは、これを記したマタイによって、非常にかたちが整った説教集になっています。この説教は、8つの幸いの教えから始まっていますが、主イエスを信じて神の子どもとなった者とは、どのような心の持ち主なのかということを示す教えだと言えます。それに続いて、先週学んだのは、主イエスの2つのたとえでした。クリスチャンが、この世で生きる時に、地の塩のような働き、世の光のような働きをする者として生きるべきことを主イエスが教えられました。それは、イエスを信じて義と認められたクリスチャンがこの世に対してどのような影響を与えることができるのかを教えるものでした。クリスチャンの生き方は、「神の義、神の正しさを表す生き方であるという教えです。今日の箇所のテーマは、主イエスが教える神の正しさということなのですが、主イエスは、その正しさの教えは、旧約聖書と切り離して考えるものではなく、旧約聖書から続いているものだと教えておられます。今日の箇所に続いて、主イエスは、当時のユダヤ教の人々が考えていた旧約聖書の教えに関して、6つの教えを取り上げて、新しい解釈、新しい意味を人々に教えられました。

 この主イエスの言葉は、新約聖書を持っている私たちにとっては驚くべきことです。主イエスは、しばしば当時のユダヤ人が考えていた律法を破って、宗教的な手を洗う儀式をしなかったり、何も仕事をしてはならない安息日に、ユダヤ人の考えていた律法の教えを破って、何度も人々を癒されました。そして、最終的には、主イエスは、律法を破る者として罪に定められ十字架にかけられました。しかし、主イエスは17-18節でこう言われました。「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」ここで、主イエスが「律法と預言者」と言われましたが、これは旧約聖書を意味します。。主イエスの時代にはまだ新約聖書はありませんから、旧約聖書という言葉自体ありませんでした。私たちが現在旧約聖書と読んでいるのは、イエスの時代に人々が持っていた聖書です。旧約聖書には、39の様々な書物があるのですが、メッセージの中心的な要素としては、神の義、神様が私たちに求める正しさを示す律法と、救い主メシアに関する預言であったので、人々は聖書のことを「律法と預言者」と呼んでいました。主イエスは17節で、「わたしは旧約聖書を廃棄するためではなく成就するために来た」と言われましたが、この言葉の意味はどういうことでしょうか。廃棄するとは、旧約聖書の権威が主イエスがこの世に来られた後も続いていることを否定することです。主イエスがこの世に来たのは、旧約聖書が不十分だから、それを廃棄して、新しい教えを伝えるためだということを否定されました。パリサイ人たちは、主イエスの行動を見て、イエスが律法を守ろうとしないことを批判しましたが、実際には、彼らがいう律法とは旧約聖書の律法というよりも、人間によって造られて律法に付け足された細かい規則のことなのです。主イエスは、そのような人間が作り出した細かな規則については気にせず、ご自分に必要な行動を取られました。そのため、安息日であっても、主は病気で苦しんでいる人を助けて上げました。しかし、律法学者やパリサイ人たちは、主が安息日に癒しという働きをしたことを強く批判しました。彼らにとっては、病人の苦しみなどどうでも良いことでした。一方、イエスが律法を成就するとはどういう意味でしょうか。それは、人となった神として、律法が求める正しさを完全に満たされて、十字架によって私たちの罪を許すために必要なことを全部完了されたことを意味しています。イエスは、父なる神のみ心をすべて完了しました。それが旧約聖書を成就したことになるのです。それによって、私たちの罪が赦される道が開かれました。

 律法は、神の正しさ、神の義を表すものであり、最初の人間が罪を犯した結果、罪の性質を持つて生まれて来る人間にとっては、神の義はどんなに頑張っても実現することのできません。従って、律法は、私たちに律法を完全に守ることはできないということを教えるために神様から与えられたものなのです。律法は、魂のレントゲンみたいなもので、人間の心の中にある罪を私たちに示すものです。しかし、ユダヤ人は、律法を魂のレントゲンとは考えずに、自分たちは律法を完全に守って神の義を自分の力で実現できると考えました。主イエスは、20節で律法学者とパリサイ人について語っておられますが、彼らはユダヤ教の指導者的な人々でした。律法学者とは、当時のユダヤ教の役職で、彼らの務めは旧約聖書の律法を解釈し、人々に教えることでした。彼らは律法の権威者であり、人々から尊敬される人々でした。一方、パリサイ人とは、役職ではなく、ユダヤ教の一つのグループの名前でした。彼らは、自分たちは世の中の人々からは分離した特別に聖なる者だと思い込んでいました。彼らは、自分たちは律法を完全に守っているので、神の前には正しい人間だと思い込み、自分たち以外の人々は律法を守らない罪人だと見下していました。旧約聖書には多くの律法が与えられていますが、それらはすべて人間が正しく生きるための原則的なルールです。例えば、モーセの十戒が典型的なものです。しかし、律法学者やパリサイ人たちは、そのような原則的な律法を毎日の生活の中で守っていくために、律法を解釈して、いろいろな場面に適用できるように必要な細かいルールを律法に付け加えて行きました。

 聖書を解釈すること自体は悪いことではないのですが、その動機を間違えると、律法の「解釈が、律法の本来の目的から離れてしまいます。彼らが特にこだわったのは、十戒の中の「安息日は聖なる日なので、仕事をしてはならない。」という律法でした。これは、本来、安息日を特別に聖なる日と見なして、神様を礼拝して神様への尊敬と感謝の気持ちを表す日にすることを教えるための律法だったのですが、パリサイ人や律法学者たちは、安息日には仕事をしてはいけないという点ばかりを強調しました。そして、この律法を正しく守るために、まず、何が仕事であって何が仕事ではないか区別して行きました。例えば、荷物を運ぶことが仕事であると考えるなら、まず、何を荷物とするかを決めなければなりません。それから、荷物を動かした距離がどれだけだと仕事になるのかということを決めなければなりません。彼らは、このようなことを繰り返し議論しながら、いろいろな場面を想定して、律法にどんどん新しい細かな規則を付け加えて行きました。すると、時には非常に馬鹿げた規則が出来上がっていきました。例えば、病気の治療をすることも仕事と見なされました。彼らが決めた規則によって、安息日の治療は、いのちが危険である場合に、耳と鼻と喉の病気の場合だけ許可されました。しかし、その治療は、それ以上悪くならない程度で止めておかなければなりませんでした。少しでも病気が回復するような治療をすることは許されませんでした。けがの場合は、薬のついていない布を傷口に当てることは許されましたが、傷口に油を塗ることは許されませんでした。律法学者とパリサイ人たちは、このような馬鹿げたルールを作ることに専念して、人々の生活をがんじがらめにしていました。そして、彼らは、これらのルールこそが律法だと思っていました。主イエスが、安息日に、何度も病気で苦しんでいる人を癒しました。癒された人は大喜びです。その人の家族や友だちも皆、大喜びです。しかし、パリサイ人や律法学者たちは、安息日にイエスが人を癒したことは律法に違反したことであると、イエスを厳しく批判しました。彼らには、病気の人の苦しみよりも、自分たちが作ったルールが守られることのほうが大切だったのです。

 主イエスは、ある時、「律法の中で最も大切なものは何ですか?」と尋ねられました。すると、主イエスは答えられました。「第一に、全力を尽くして神を愛しなさい。第二に、自分の隣人を自分自身のように愛しなさい。」実は、聖書の教え、言い換えれば、神様が私たちに求めておられる生き方はこの2つの律法にすべて含まれるのです。つまり、神を愛することと、人々を愛すること、この生き方を実践することです。私たちが、心から神様を愛するならば、当然、神様が言われる言葉に聞き従おうと思います。愛する者から何かをするように言われる時、私たちは喜んでそのことを使用と思います。また、誰かを愛する時、その人のためなら何でも喜んでしようと思いますし、その人が嫌がることはしようとは思いません。山上の説教の最初にあった8つの幸いの生き方も、また、地の塩や世の光として生きるということも、すべては神を愛し、人を愛する生き方を実践すれば良いのです。私たちは、このことをいつも覚えておくことが大切です。そして、自分の行動を反省するときに、考えなければならないことは、私は、本当に神様を愛しているだろうか。私は、人を本当に愛しているだろうかということです。これが、律法を守るとはそういうことなのです。

 イエスの時代のユダヤ人は、律法学者は律法を教える最高の教師だと見なし、パリサイ人は、律法を熱心に守ろうとする敬虔なユダヤ教徒だと見なしていました。しかし20節で、主イエスは言われました。「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがは決して天の御国に入れません。」この言葉を聞いた群衆は、皆、心の中で「それでは、いったい誰が天国に入れるのか?」と思ったでしょう。ここから分かることは、主イエスが言われる義とパリサイ人の義がまったく違うものであることです。パリサイ人が大切にしていたのは、儀式的なこと、形式的なことでした。宗教的な行いを守ることには非常に熱心でしたが、彼らは、自分たちがそのような行いをちゃんと実行していることを自慢しているだけでした。パリサイ人たちは、旧約聖書の律法についての神様のみ心から完全に離れて、原則的なことよりも、そこから自分たちが作り出した細かな規則を守ることばかりを大切にして、心の内面的なことを無視していました。そして、自分たちは自分の努力で、神の義を持つことができると考えていました。

 パリサイ人や律法学者たちの生き方は、8つの幸いの教えとは正反対の生き方です。神様が幸いだと認める人は、心の貧しい人、自分の罪を悲しむ人、柔和で憐れみ深く、義に飢え渇いている人です。それが天国に入るのに相応しい人々でした。しかし、彼らは、聖書の命令に忠実に従うことによって、神の前に義人だと認められると思い込んでいたのです。だから、彼らの心は貧しくはなく、彼らは自分の罪を悲しむこともありませんでした。彼らは神の義よりも自分の義に飢え渇いていました。私たちは、どのように、パリサイ人や律法学者以上の義を持つことができるのでしょうか。それは、彼らのように律法を必死になって守ることで自分の義を得ようとするのではなく、律法が求める正しさを、自分の力で得ることができないことを認めて、そのような罪人のために、主イエスキリストが身代わりになって死んでくださったことを信じることによって与えられるのです。これを神の恵みと言います。恵みとは、与えられる資格がない人に与えられるものです。自分の心の中にある自己中心の罪の性質を認めて、それを悲しんで、それから離れることを願うこと、一言で言うと、自分の罪を悔い改めることによって、私たちは、神の恵みによって、神様から正しい者と認められるのです。主イエスの有名なたとえ話に、放蕩息子の話がありますが、ある父親の息子が、親が死ぬ前に財産の分け前をもらって、家を出ました。自分は親の金で自由に生きるのだと考えました。しかし、彼が父親からもらった財産を愚かなことに湯水のように使ってしまったために、アッと言う間に彼は一文無しになっていまいました。しかも、運悪く、ひどい飢饉が襲って来たために、彼は人生ではじめて食べるものが無くて飢え死にしそうになりました。この経験をした時、その息子は、あることに気づきました。彼が父親の家を出る前の生活は、今よりもずっと豊かで幸せであったことということに気が付きました。そして、自分がとんでもない愚かな息子であることに気づきました。彼は、父親のもとに帰ることを決心しました。父親から許されるはずがないと思った息子は、召使いの一人に雇ってもらおうと思いました。しかし、家に戻ると、父親が喜んで走り寄って彼に口づけし、大喜びで自分の家に迎え入れました。以前は、この息子は父親にとても反抗的な息子だったと思いますが、愚かな失敗をした自分を喜んで家に迎え入れてくれた父親に対して、その後は、父親への感謝の気持ちが一杯になって、父親の良い息子になって、生活をして行ったことでしょう。息子は父親から恵みを受けたので、新しい人間に生まれ変わったのです。私たちがイエス・キリストを信じるとは、この息子のようなプロセスをたどることです。神から離れている自分の心の罪を認めて、父なる神様のもとに戻る時、神様は、あの父親のように私たちをそのままで受け入れてくださいます。私たちは、神様から良い子供として受け入れてもらうのです。それが神様が私たちに与えてくださる義なのです。私たちは、この義を与えられたことに感謝して、神様とともに、神様に感謝しつつ生きるならば、自然に、私たちの生き方は変わります。律法を守ることで正しさを得ようとするのではなく、素晴らしい神様から受けた恵みへの感謝の心で、神様に喜ばれる者として生きようとすることが律法学者やパリサイ人以上の義を持つ生き方なのです。

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