2023年7月30日 『地の塩、世の光として生きる』(マタイ5章13-16節) | 説教      

2023年7月30日 『地の塩、世の光として生きる』(マタイ5章13-16節)

 主イエスは、8つの幸いについて教えられた後、クリスチャンがキリストの弟子としてこの世で生きる時に、どのように生きるべきなのか、具体的な教えを集まっていた人々に語られました。教は、その最初の出来事ですが、それは、クリスチャンは「地の塩・世の光」として生きるべきだという教えです。地の塩と世の光、この二つは、全く関係のないものように思えますが、共通する天があります。それは、その存在が回りに影響を与えるということです。マタイの福音書の5章から始まる主イエスの説教の中で、主は最初に8つの幸いについて教えられました。それは、主イエスを信じる者として生きることの幸いであり、また、同時に、主イエスを信じる者はそのように生きるべきだと主は教えられました。心の貧しい者とは、自分の心の中の姿を正直に認める者です。悲しむ者とは、自分の心の中の罪を認めそれを悲しむ者です。柔和な者とは、神様の支配に自分を委ねて生きる者のことです。義に飢え渇いている者とは、自分の内にはない神の義、神の正しさを求める者です。そして、主イエスのように、憐れみ深い者として生きる者、心をきよくして生きる者、平和を作る者、主イエスを信じる信仰のために迫害を受ける者を、神様はよしと認めてくださるので、幸いであると教えられました。従って、8つの幸いとは、クリスチャンが生きるべき姿と言うことができます。今日の箇所は、その8つの幸いに続いて語られた言葉です。したがって、主イエスは、主イエスを信じる者たちが8つの幸いの生き方を実践するなら、必ず、地の塩のように、また世の光のように、周囲の人々に影響を与えるのだと、言っておられるのです。私たちクリスチャンは、特に日本では、本当に数が少ないです。しかし、どんなに少なくても、もし、私たちが主が言われた生き方を実践すれば、自分の隣にいる人々、自分が住んでいるコミュニティに、神様が喜ぶ良い影響を与えることができるという主イエスのチャレンジの言葉です。

  • あなたがたは地の塩です

 まず、主イエスが「あなたがたは地の塩です」と言われた言葉の意味について考えましょう。「塩」は人間の歴史を通じて、つねに、非常に大切なものとして扱われていました。古代ギリシャでは、塩を「セオン」と呼ばれていたのですが、これは「神聖なるもの」という意味でした。また、ローマ帝国の兵士たちは、塩を給料としてもらっていました。英語で給料のことを「サラリー」と言いますが、これは塩を表す「ソルト」という言葉と関係しています。また、古代社会では、塩は友情を表すシンボルでもありました。イスラエルをはじめ中東地域では、契約を結んだ証拠として塩が用いられました。契約に関わる二人が証人の前で一緒に塩を口にすることによって、その契約が正式に結ばれたものと見なされました。主イエスの説教を聞いていた群衆の中には、ユダヤ人だけではなく、ローマ人やギリシャ人も加わっていたと思いますが、誰もが、塩がどれほど大切なものであるのかを理解したはずです。従って、地の塩として生きるということは、この世に対して、大切な働きをする者となるという意味であることを人々は理解したと思います。では、具体的に、地の塩として生きるということはどういう生き方を意味するのでしょうか。

 第一に、塩は白い色をしていますので、きよさを表していると考えられます。8つの幸いの中でも、主は「心のきよい者は幸いです」と言われました。ローマの人々は塩は太陽と海の水から作られるので、すべてのもの中で一番きよいものだと考えていました。また、ユダヤ人たちは、神様にいろいろなささげ物を捧げていましたが、レビ記2章13節に「あなたはどのささげ物も、塩をかけて献げなければならない」という言葉があります。それは、神にささげる物はきよくなければならなかったからです。そこで、クリスチャンが地の塩であるためには、きよい者として生きなければなりません。この世の多くの人々は、きよさとは遠くかけ離れた生き方をしています。人間の長い歴史のなかで、文明はどんどん進歩していきましたが、逆に、人間のモラルはどんどんと下がっているように思います。そのような中で、私たちが、考え方において、言葉において、行いにおいて、きよい人として生きることが求められています。私たちは、罪に満ちた世界の中で生きていますので、この世から自分を完全に切り離すことはできませんが、決して、この世の考え方に支配されてはいけません。

 また、昔から、塩は防腐剤として使われていました。肉や魚を塩漬けにして長持ちさせていました。肉や魚には、それ自身が腐っていく細菌が含まれていますので、放っておくとすぐに臭くなって食べられなくなります。その細菌の働きを妨げるのが塩なのです。私たちが住んでいる社会は自分が一番だと考える罪の性質に支配されています。罪が魚や肉の細菌と同じように働いて、この世の中のモラルがどんどん低下して行きます。そのような社会で、罪から生まれる悪いものを防ぐことがクリスチャンの使命です。私たちは、この世の人々と交わる時に、注意しなければなりません。自分がそこにいることによって、この世の汚れをとどめる働きをしているかどうか、改めて考えることが必要です。

 第三に、塩が持つ一番の働きは味をつけるということです。塩気のない食べ物は本当に美味しくないです。私は、10歳の時に、急性腎炎になって40日入院しました。腎炎になると、塩分を取ってはいけないので、最初に病院で出された食事は本当にまずかったです。今でもそのまずさを覚えています。ある日肉じゃがが出ました。おいしそうに見えるのです。しかし、塩味のないただ甘いだけの肉じゃが、まずかったです。退院した日に家でごはんにふりかけをかけて食べた時のそのおいしさも、今なお覚えています。それほど、塩には良い味をつける力があります。私たちは、主イエスを信じる信仰によって、神様の愛、神様の恵み、神様の慰め、神様の祝福を知りました。世の人々はそれを知りません。私たちは、また、永遠のいのちが与えられて、将来に対してもはっきりとした希望を持っています。この世の中には、いろいろなことで悩んでいる人、苦しんでいる人がいます。また、主イエスが2000年前に預言されたように、この世には不法がはびこり、人々の間で愛が冷えています。そのような中で、私たちは神様から受けた愛、恵み、祝福を周囲の人々にシェアしていく役割が与えられています。私たちの言葉、私たちの態度は、回りの人々に、おいしい塩味を与えているでしょうか。パウロはコロサイ書の中で、こう言いました。「あなたがたの言葉が、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。」私たちが人々と話をしているとき、人々が親切な言葉、愛に満ちた言葉、ポジティブな言葉、建設的な言葉、それらを聞く時、心が安らぎます。しかし、とげのある言葉、不満に満ちた言葉、否定的な言葉を聞くと、いやな気分になります。私たちの言葉は、私たちの心の現れです。あなたは、パウロが言うように、いつも親切で塩味の効いた言葉を語っているでしょうか。

 主イエスは言われました。「塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。パレスチナでは、よく岩塩が使われていましたが、ときどき、土とまざったり太陽や雨によって塩気を失った岩塩がありました。このような岩塩は塩として役に立ちませんが、それだけでなく、そのような岩塩は土地をやせ衰えさせて有害なので、道路に捨てられました。そこで人々の踏みつけられました。このことはクリスチャンにも当てはまると主イエスは言われます。世の中の腐敗を防ぐ力を失ったクスチャン、この世の人々に塩味の効いたよいものを与えることができないクリスチャンは、自分自身のとっても、この世の人々にとっても有害な者になってしまいます。ですから、私たちは塩気を失わない地の塩として生きることが大切なのです。

  • 世の光として生きる

 主イエスは、私たちに向かって「あなたがたは世の光です。」とも言われました。最初に言いましたように、地の塩も世の光も周囲に影響を与えるものですが、その働き方はまったく違います。塩は、何かに混ぜたりすり込んだりすると見えなくなります。外見だけでは、塩が入っているいいないかは分かりませんが、塩は目に見えないところで着実に働いています。しかし、光は誰にもはっきりと見えます。したがって、私たちが地の塩として生きるというのは、その生き方を通して間接的に神様のことを人々の伝えることを意味しますが、世の光として生きるというのは、もっとはっきりと、誰にも分かるように、福音を人々に知らせることを表しています。光は、暗闇を照らします。世の光として生きることは、罪に満ちたこの世界にあって、クリスチャンは、主イエスの十字架と復活を信じる信仰によって与えらえる罪の赦しと永遠のいのちという福音を人々に告げ知らせる使命を果たさなければならないのです。

 イスラエルの家は暑さ対策で、壁が分厚く窓はとても小さく造られています。そのため、家の中が暗かったので、いつも家の中にはランプが灯されていました。当時は、マッチがなかったので、ランプを一度消すと、もう一度つけることが大変でしたので、一日中灯りを灯していました。ランプの光ができるだけ部屋の中に広く届くように、たいてい高いところに置かれていました。ランプの光は、家の中にいる人に見られるために存在していました。クリスチャンは、罪に満ちた暗闇の世界の中で光として輝いて生きることが求められています。この暗闇の世界で、本当の光を蚊帳貸すことができるのはクリスチャンだけです。ですから、世の中で隠れて生きることは、クリスチャンの本来の生き方ではありません。私たちの信仰は、すべての人に認められるものでなければなりません。教会の中だけしか役に立たない信仰は、ほとんど何の役にも立たない信仰です。私たちの生活のすべての面で、私たちは人々から見られています。その時に、私たちはクリスチャンとして相応しい光を放たなければなりません。お店の店員に接する言葉づかいや態度、会社の上司や同僚に対する言葉遣いや態度、車を運転する時、学校で勉強する時、人々と話し合いをする時、飛行機や電車に乗っている時、生活のすべての時において、私たちの態度や言葉がキリストを表すものとして輝いていなければならないのです。

 光はこの世に対してどのような働きをするのでしょうか、一つは、人々を導きます。道路に街灯がついているのは、車が夜に道を走るときに、道から外れないためのものです。また、灯台の灯りは船を安全に港の中に導きいれます。光は、人々に進むべき道を示す働きがあります。この世の人々は、罪に満ちた暗闇の世界に生きているために、どちらに向かって進んで行けばよいのか分からなくなっています。しかし、主イエスは言われました。「私が道であり真理であり、いのちなのです。私をとおしてでなければ誰一人父のもとに行くことはできません。」私たちが永遠のいのちを得るためには、どうしても私たちはキリストのもとへ行かなければなりません。クリスチャンは、世の中の人々のその道を示す者でなければなりません。

 また、同時に、光は警告を与えるものでもあります。道路に危険な場所がある時には、赤い光をともして、道を通る車や人々に危険を知らせて、その場所を通らないように警告します。主イエスは、たびたび人々に警告のメッセージを語りました。ルカの福音書の12章には、愚かな金持ちの話が記されています。ある神を信じない農夫が一生懸命働いた結果、あまりにも多くの穀物を収穫したので、もう働く必要がなくなりました。その農夫は、その年の豊作であり余るほどのお金が入ったので、ずっと働きずづめだった農夫はある決心をします。これからはたまったお金で毎日飲んで食べて遊びまくろう。しかし、その夜、彼は神様から警告の言葉を聞きます。厳しい神様の言葉でした。「お前のいのちは今夜取り去られる。すると、おまえが一生かかって蓄えた財産はいったい誰のものになるのだ。」そして、最後に主は、警告の言葉を語られました。「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」世の中の多くの人は、人の一生はこの世で終わると考えています。しかし、聖書は、私たちが死んだ後、永遠に続く世界があると、はっきりと教えています。クリスチャンは、永遠の世界について考えていない人々に、その世界があること、神のさばきがあるという警告の言葉を語る大きな使命が与えられています。日本では、人が聖書の神について知るのは、ほとんどの場合、家族や友人のクリスチャンの証しをとおしてです。

 私たちは、地の塩のような生活をとおして人々に良い影響を与えて行く生き方と同時に、世の光として、主イエスの十字架と復活の福音を人々に知らせる使命が与えられています。主イエスは言われました。灯りをともして枡の下においたりはしません。イスラエルの家では、ランプの光は暗い家の中を照らすためのものです。光は人々に見えるように輝かなければなりません。ただ、注意することは、16節の主イエスの言葉です。「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」主イエスは、私たちに良い行いをするように言われましたが、それは、人々が私たちを褒めるためではありません。私たちは、自分の言葉をとおして、自分の行いをとおして、神様の素晴らしさを人々に知らせなければならないのです。私たちが、自分がすることで人々から感謝されたい、褒められたい、自分が価値ある人間であることを認めてもらいたいと思っている限り、私たちは、まだ、主イエスが教えられた本当のクリスチャンとしての生き方をしていないのです。

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