2021年6月6日 『十字架に向かう主イエス』(ヨハネ12章27~33節) | 説教      

2021年6月6日 『十字架に向かう主イエス』(ヨハネ12章27~33節)

 教会のシンボルは十字架です。十字架はもともとローマ帝国で使われていた残酷な死刑の道具です。そのようなものを教会がシンボルとして掲げている理由は、クリスチャンの信仰の中心が主イエスの十字架の死とそれに続く復活だからです。神のひとり子イエス・キリストが私たちの罪を赦すために私たちの身代わりとなって十字架で死ぬために、人間となってこの世に来られた。これがキリスト教信仰の最も大切な教えです。これが分かればいつでも信仰を持つことができますが、いくら聖書を学んでも、主イエスの十字架と復活の意味が分からなければ、決して信仰の道に入ることはできません。聖書の最初から終わりまで、この教えが教えられています。旧約聖書には主イエスの身代わりの死について預言されていますが、もっとも詳しい預言がイザヤ書53章に書かれています。イザヤ書53章6節にはこう書かれています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって言った。しかし、主は、私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」聖書は、よく、人間を羊のようだと教えます。羊は動物の世界では弱い動物で、しかも非常に迷いやすい動物です。その点で羊と人間は良く似ています。羊は道に迷いやすいので、羊飼いが必要です。群れで飼っていても、羊飼いについて行かないで勝手な道を進んで行く羊がいます。そんな羊は迷子になります。私たちにとって霊的な羊飼いである主イエスは、100匹の羊がいて、そのうちの1匹が道に迷ってしまったとき、ちゃんとした99匹の羊を置き去りにしてでも、1匹を捜しに行く方です。主イエスは、迷っている羊を捜して見つけ出すために、この世に来られた救い主です。ところが、父なる神様は、道に迷っている羊の過ちを、羊飼いである主イエスの過ちとして、主イエスを十字架で罰せられました。これがイザヤ書53章6節が教えていることです。
 このように、主イエスは私たちを罪の裁きから救い出すために、私たちの身代わりとなった十字架で死ぬためにこの世に生まれてくださいました。このことは、主イエスご自身も繰り返して弟子たちに語っておられたのですが、12弟子たちは、最後まで、主イエスの言葉を正しく理解することができませんでした。それは12弟子たちだけでなく、ほとんどのユダヤ人が、聖書が預言する救い主メシアを政治的なメシアと考え、武力でローマ帝国を打ち破って、イスラエルを独立させるメシアを期待していたからです。しかし、主イエス・キリストは、人々を、私たちを罪の力と罪の裁きから解放するために、霊的なメシアとしてこの世に来られました。だからこそ、主イエスがこの世に来られた目的は、十字架で死ぬことだったのです。先週お話した主イエスの「一粒の麦」に関する言葉も、自分が犠牲を払って十字架で死ぬことを意味する言葉でした。私たちは、主イエスは神であるのだから、十字架にかかって死ぬことも、イエスにとっては大したことではないと考えるかもしれませんが、それは大きな間違いです。主イエスは、自分が十字架にかかるためにこの世に来たことはすべて理解しておられました。そして、今、いよいよ十字架にかかる時が来たので、十字架を目指してまっすぐに歩んでおられました。しかし、これは主イエスにとって決して簡単なことではありませんでした。それを表しているのが、「今、わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。」という主のことばです。救い主メシアであるイエスが心を騒がしているとはどういうことなのでしょうか。今日は、十字架を目前に控えた、主イエスの苦悩、それに対する父なる神の答え、勝利の約束という3つのポイントでみ言葉を読みたいと思います。

(1)主イエスの苦しみ
主イエスは、もちろん、自分が十字架にかかるためにこの世に来ることが父なる神の計画であることはよく知っておられました。へブル書12章2節の言葉を見ると、主イエスがその計画に喜んで従っておられることが分かります。「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに、十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」十字架は、当時の社会では、生きていても社会に悪い影響を及ぼすだけなのでいなくなったほうが良いと判断された人が掛けられていました。したがって十字架は恥と屈辱のシンボルでした。しかし、主イエスはその辱めをものともせず、十字架を忍んだと書かれています。主イエスは、自分の使命は十字架で死ぬことという覚悟をしっかりと持っておられました。しかし、まったく罪のないお方、罪を一番嫌うお方が、すべての時代のすべての人の罪を全部自分の罪として背負って、十字架で屈辱的な死を経験すること、そして、その時に父なる神の怒りを経験し、一瞬だとしても父なる神から見捨てられること、このことを考えて、主イエスは心を騒がしておられました。「騒がす」と訳されている言葉は、元々は「揺り動かす」という意味の強い言葉で、心の中がパニックになる状況を表す言葉です。主イエスは、心に何も感じずに、ひょうひょうと十字架のはりつけになったのではありません。完全な人間でもある主イエスは、私たちとまったく同じ感情をもって罪の呪いを受けられました。
 主は「何と言おうか。『この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ御名の栄光を現わしてください。」と自問自答しておられます。この言葉は、主イエスが十字架にかかる直前にゲッセマネの園で祈られた時の言葉によく似ています。ゲッセマネの園では、主はこのように祈られました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください。」このことから分かるのは、主イエスは、木曜日の夜中にゲッセマネの園で祈る前から、ずっと十字架のことを考え続けておられたということです。この時は、主イエスは「父よ、御名の栄光を現わしてください。」と祈られましたが、これはどういう意味でしょうか。主イエスは、父なる神の御心にしたがってこの世に来られました。完全な人となって十字架にかかるために来られました。神の子としての3年間、主イエスは人々に神のことを教え、奇跡の業を行い、約束のメシアとしての任務を完璧に果たしてこられました。そして、主イエスは、自分の最大の使命である、罪人のための身代わりの死という務めを完了することによって、父なる神が栄光を受けると考えておられたのです。というのは、十字架の死の中に、迷える小羊のような私たち罪人への神の無限の愛が現わされ、罪や悪に対する神の聖なる怒りが現わされ、神の義が貫かれ、神の赦しの恵みが現れるので、それを知った人々が神様に感謝し、神様を礼拝するようになるからです。これこそ、神の御名の栄光が現れるということです。

(2)父なる神の答え
主イエスが「父よ。御名の栄光を現わして下さい。」と祈られたとき、天から父なる神の声が聞こえました。十字架がまじかに迫ったこの時、父なる神は、「わたしはすでに栄光を現わした。わたしはふたたび栄光を現わそう。」と言われました。「わたしはすでに栄光を現わした」というのはこれまで主イエスが3年余り神の子として働いてきた中で、主イエスの奇跡や教えの一つ一つが神の御心にかなったものであったので、神の栄光が現わされたという意味ですが、とくに、イエスが公の働きを始める時に、荒野で悪魔の誘惑を受けられましたが、その時、主イエスが聖書の言葉を使ってすべての誘惑を退けられた時に、主イエスがサタンの誘惑に勝利したことによって、父なる神様の栄光が現われました。そして、「わたしは再び栄光を現わそう。」というのは、間もなく、主イエスが十字架にかかって、すべての時代のすべての人の罪を全部背負って身代わりとなって死ぬ時、それは、罪に対する勝利を宣言する時ですから、父なる神にとって栄光を現わす時となるのです。天から父なる神の声が聞こえるというのは、主イエスの生涯で3回だけの出来事です。主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時と、主イエスがペテロとヨハネとヤコブを連れて高い山に上られた時に主の姿が栄光に輝く姿に変わった時の2回、父なる神様は「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と天から語りかけて、主イエスが約束の救い主であることを示されました。どちらも、主イエスの生涯にとっては、神の子としての働きを始める時であり、十字架に向かって出発する時であり、どちらも大切な時でした。父なる神様は、天から直接語り掛けることによって主イエスを励まし、支えておられたのです。今回は、主イエスの「父よ。御名の栄光を現わしてください。」という祈りに、父なる神様が人にも聞こえる声で、答えられたことは主イエスのそばに立っていた人たちにも明らかでした。ただ、彼らは声を聞いたのは確かなのですが、その言葉の意味を理解することができませんでした。それである人には、父なる神の声が雷の音のように聞こえたようです。また、他の人には、その音は言葉を話す声であることは分かったのですが、その意味を捕らえることができなかったので、み使いがイエスに語っているのだと思いました。そこで、主イエス自身が人々に説明しました。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。」この言葉は、ちょっと不思議な感じがします。周りにいた人たちは、主イエスが「父よ。御名の栄光を現わしてください。」と祈った直後に天から声が聞こえて来たので、この声は、当然主イエスのために語られた言葉だと思ったはずです。おそらく、これは、この声が聞こえたのは、わたしのためだけではないという意味です。周囲にいた人々は、主イエスの祈りに対してすぐに天から声がしたので、主イエスの祈りが答えられたと感じたと思います。天からの声を聞いた人は、確かにイエスが父なる神の御子であり、主が繰り返し言っておられたように、父なる神と御子イエスは一つであることを確認したと思います。それによって、人々は、主イエスが確かに父なる神に愛されたひとり子であることを知りました。それは、彼らの信仰を強くするものでもあったでしょう。

(3)勝利の約束
主イエスは、さらに続いて語られました。「今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」ここで、主イエスは3つの大きな勝利の出来事について語っておられます。第一に「今、この世に対する裁きが行われます。」と言われました。ヨハネの福音書や手紙の中で「世」という言葉は、単にこの世界という意味ではなく、神を信じない世界、サタンに心を支配されている世の中という意味で使われています。まもなく主イエスは十字架にかけれられます。表面的にはイエスに反対するこの世が勝利しているように見えます。しかし、実際には、主イエスを信じないこの世の人々は神の裁きを受けることが決まっているのです。主イエスの十字架の死は、この世に対するさばきをもたらすだけではありません。第二に「この世を支配する者が追い出されます。」と主イエスは言われました。この世を支配する者とは、悪魔とかサタンと呼ばれる存在です。聖書は、この世界には神に逆らい人々の心をそのように支配する霊的な存在があることを教えています。この世の中に、霊的な存在があります。ヨハネは手紙の中で、霊をすべて信じてはいけないと警告しています。イエスを告白しない霊はみな、反キリストの霊であると教えています。世の中にさまざまなオカルトがあります。青森の恐山にはイタコという女性がいて死んだ人の代りになって話すというのがあります。悪魔は人間とは違う神に敵対する霊的存在なので、実際に、私たちにとって不思議なことを行う力があるのです。人間は、そのような力に弱いので、それに魅かれて、それに支配されます。占い師の言葉や、霊媒師の言葉に支配されて、自由に行動できない人も多くいます。あらゆる手段を使って人間の心を神から引き離そうとして働いているのが悪魔です。悪魔が追い出されるとは、天地創造の時から人々の心を支配して来た悪魔に対して、主イエスは十字架の死によって、有罪の判決を下して悪魔の行動が制限されるようになることを意味します。夏になると、幽霊や死んだ人の霊を恐れる、そんなテレビ番組がありますが、私たちは、今、オカルトや悪霊を恐れる必要はありません。主イエスが、十字架によって、悪魔に勝利されたからです。悪魔は今は、限られた力しかないからです。先祖のたたりというものも存在しません。悪霊は神の前には勝つことができません。もし、何か妙な恐れを感じることがあれば、すぐに神様に祈りましょう。悪霊を追い払ってくださいと祈ることができます。第三の勝利は、「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」ということです。イエスが地上から上げられるとは、十字架にかけられることを意味します。その時、神殿のなかに掛けられていた太い幕が上から下に真っ二つに引き裂けました。人間と神を隔てていた壁が取り払われました。それによって、主イエスは、あらゆる国の人々の中から、主イエスを信じて生きる決心をした人々をご自分のそばに引き寄せてくださるのです。私たちは、自分から進んで主イエスを信じたように思っていますが、そうではなく、まず主イエスが私たちを引き寄せてくださったのです。ここに集まっているすべての人は、主イエスによって引き寄せられた者たちです。それによって、私たちは主イエスを信じることができるようになりました。この引き寄せがなかったら私たちは主イエスを救い主と信じることはできないのです。私たちが信仰を持つことができるのは、神のひとり子である主イエスがこの世に来て、私たちと同じ生活をされ、本当は私たちが受けなければならない罪の罰を身代わりに受けてくださり、十字架で死なれたことによって、私たちの罪が赦され、永遠のいのちを持つ道が開かれたからです。クリスチャンは、日本では少数です。教会から外にでると、ひとりぼっちのような感覚です。しかし、主イエスは、今、聖霊としていつも私たちとともにおられます。いつも私たちを守り、私たちを導き、私たちを戒め、また私たちを助けるお方がいつも私たちのそばにいるのです。このことを知っているなら、私たちは、自分を取り巻く状況がどのようなものであるとしても、恐れたり、慌てたりする必要がありません。主がともにおられるのですから。主イエスが、私たちとこのように生活することができるために、主は十字架の道を真っすぐに進んでくださいました。私たちは、つねに、主イエスに対する感謝の気持ちを忘れず、神様のみもとに召される日まで、聖霊なる神様と一緒に歩む生活を続けて行きたいと思います。

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