2021年6月13日『光の主イエスを信じなさい』(ヨハネ12章35-50節) | 説教      

2021年6月13日『光の主イエスを信じなさい』(ヨハネ12章35-50節)

 人の心は変わりやすいものです。権力者たちの争いを見ても、昨日の友は今日の敵と言われるように、誰もが自分を守るために生きているために、誰の側につくのが得なのかということをいつも考えています。主イエスを見ていた群衆も同じでした。イエスがエルサレムに入られた時は、「この方こそ約束の救い主だ」と叫びつつ、大勢の人が熱狂的に主イエスを迎えました。しかし、彼らが期待していたことは、イエスがローマ帝国を倒して、自分たちに自由な生活を与える王となってくれるでした。従って、主イエスが、自分は罪人の身代わりとなって死ななければならないという話を始めると、彼らのイエスに対する興奮は一気に消え去り、逆に、イエスを裏切り者、偽りの救い主だと考えるようになります。その様子が34節で人々がイエスに尋ねている言葉から分かります。私たちは相手が自分への態度を変えると、自分も相手に対する態度を変えます。しかし、主イエスの心はつねに、どんな人をも愛する心でした。人間の愛は、自己中心の愛なので簡単に燃え上がったり覚めたりします。しかし、主イエスの愛はギリシャ語でアガペーと呼ばれる特別な愛です。相手がどうなのかに関係なく一方的に愛を注ぐ愛なのです。主イエスは自分勝手な考えで行動している群衆に向かって、自分を信じるようにと最後の呼び掛けをしていおられます。

(1)イエスの最後の招き(35-36節)
イエスは、彼らに最後の招きをするだけでなく、彼らに警告の言葉を与えました。「まだ、しばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。」主は、ご自身のことを「わたしは世の光です」と言われました。その光は、まだしばらくの間はあなたがたの間にあると言われたのは、まもなく十字架の時が来ることを示しています。35節と36節で、主が繰り返して「しばらくの間」「~の間」と言われたのは、十字架の時が間近に迫っていることを意味します。主は、周りの人々に、光である自分がこの世にいる時間はもうわずかしか残っていないこと、イエスの救いのメッセージを聞くチャンスはもう残っていないこと、そして闇の時が近づいていることを人々に教えておられるのです。ここで、主は「闇があなたがたを襲うことのないように」と言われましたが、「襲う」と訳されている言葉の元々の意味は「征服する」という意味です。「闇」とは「光」の反対ですから、ここでは神に敵対する者、その根源は悪魔です。従って、イエスが言われた言葉の意味は、ぼやぼやしていると、あなたたちは、闇の力に支配されてしまうので、そうならないように、今、光である自分のことを信じるように招いておられるのです。そして、主は言われました。「やみの中を歩く者は自分がどこに行くのか分かりません。」ランプや電気の光が発明される前は、人々は明るい時間だけ旅をしたり移動をしていました。日が沈むとあたりは真っ暗になるからです。主イエスは、自分の言葉を聞いても従わない人々を、そのような時代の旅人に例えています。自分がどこに向かって進んでいるのか分からないのです。私たちの人生には、それぞれの段階で目標があります。学生の時は勉強して上の学校に進むこと、仕事を始めたら、その仕事で何かを達成すること、しかし、人生が後半になって来ると、人はどのような目標を持つのでしょうか。聖書は、それぞれの時代の目標も大事だけれども、人生そのものの目標、ゴールをはっきりと持つことが必要であることを教えています。「やみの中を歩く者は自分がどこに行くのか分かりません」これは、自分が今どこに向かって生きているのか、何を目指して生きているのか分からない人のことを現わしています。私たちの人生には必ず終わりの時が来ますが、私たちは、その時を目指して歩いているでしょうか。人生はよくレースに例えられますが、レースを走る人はみな、ゴールのテープを目指して走っています。テープがなければ、ランナーは走っている意味が分かりません。走る気力がわいて来ません。あなたは、自分の人生のゴールがはっきり見えていますか。はっきり見えていない状態を、主イエスは、「闇の中を歩いている」と言われたのです。その状態を避ける唯一の方法は、主が36節で言われた言葉です。「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」主は、周りにいる人々に最後の招きの言葉を言われました。「自分がすぐそばにいるのだから、今という時間を有効に用いなさい。もうすぐ私はあなたたちの前からいなくなります。今、私を信じなさい。」そう人々に訴えられました。しかも、そこにはすばらしい約束がありました。「光である主イエスを信じるならば、その人は光のこどもになる」というのです。この世では、裕福な親や、権力を持つ親の子どもとして生まれると、こどもは様々な恩恵を受けることができます。ただ、その恩恵はこの世でしか通じないものです。神様の子どもとなるということは、神の家族の一員となることであり、親は全力を尽くして子どもに一番良い事をしようとします。私たちは神様の子どもとなるということは、どれほど素晴らしい特権なのでしょうか。この世での生活だけで終わらず、永遠に至るまで、主イエスを信じる者は神様の子どもなのです。

(2)心をかたくなにする人々
 主イエスは、群衆に向かって、自分を信じるようにと最後の招きをされると、その場から立ち去って、彼らから身を隠してしまわれました。群衆は、イエスから言葉を直接聞く機会をもう持つことができなくなりました。37節を見ると、多くの人々はイエスの多くの奇跡の働きを見ても、イエスを救い主だと信じませんでした。ヨハネは、ユダヤ教の指導者たちがイエスを信じなかった理由として旧約聖書のイザヤ書の言葉を引用しています。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は誰に現れたか。」ヨハネがなぜ、この言葉を引用したのかと言うと、主イエスがどれほど多くの奇跡の働きをしてご自身の力を、ここでは御腕と言われていますが、その力を示しても、ユダヤ人たちは信じようとしなかったことは、すでに700年前に預言者イザヤが預言していることだから、特に驚くことではないということを示したかったのです。さらに、ヨハネはイザヤ書からの引用を続けます。40節を読みましょう。「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そしてわたしが彼らを癒すこともないように。」この言葉を理解するのに少し注意が必要です。神様が、意図的に、誰かの心をコントロールして神様を信じないようにすることは絶対にありません。「神様が空の心を頑なにされた」というのは、いくら語ってもいくら奇跡を現わしても、もし、人が神様を信じないと心に決めたなら、その決心を神様が確認して、あるいはその決心を神様が尊重して、もうそれ以上は神様は何もしないということを意味します。主イエスはラザロを生き返らせるような誰にも明らかな奇跡を行ってご自分の神の力を示されました。大切な真理を何度も人々に教えられました。それでも、主イエスを信じようとしないなら、その人の心は頑なになって、もう何を見ても何を聞いても何も中に入らないような心になってしまうのです。手にマメができたとき、最初はそこに何かがさわると痛みを感じます。しかし、それを我慢していると、いつの間にかマメが堅くなって、何かが触っても何も感じなくなります。心もそれと同じなのです。
 41節で、ヨハネは「預言者のイザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからである。」と書いています。預言者イザヤは、救い主の誕生を預言しています。同時に、救い主の十字架の苦しみについても詳しく預言しています。彼は神様から主イエスに関するはっきりとした幻を見せられていました。イザヤは、来るべき約束の救い主を信仰の目ではっきりと見ていたのです。彼は、頭の中で理解しただけではなく、イエスを見ていました。ここで見ると訳されている言葉は、ただ目で見るというだけの意味ではなく、「経験する」という意味を含む言葉が使われています。私たちも同じです。自分の罪が見えないとイエスの十字架の意味も見えません。日々の生活の中で、いつも主イエスに祈りつつ、主イエスとともに生きていないと、主イエスは見えません。しかし、主に近づく者には、主イエスご自身も近づいてくださり、特別な方法で現れてくださるのです。この時、主イエスを信じない人が多かったのですが、中には、信じる人もいました。42節に「議員たちの中にもイエスを信じたものが多くいた。」と書かれています。議員というのはイスラエルの国会のメンバーです。当時のイスラエルの社会は政治と宗教が一つでしたので、国会の議長はユダヤ教の大祭司でしたし、議員も皆、ユダヤ教徒でした。主イエスはユダヤ教の指導者たちからは異端者と見られていましたから、もし、彼らが主イエスの弟子となったことを公に告白すると、彼らは、即刻、ユダヤ教から破門にされてしまい、会堂から追放されてしまいます。そのことは、当時のユダヤ社会では、村八分と同じで、生きて行くことが大変でした。議員は、4当然国会からも追放されます。従って、彼らは、心の中ではイエスを信じていても、公の場でそれを告白することをしませんでした。密かにイエスのところに来て質問をしたニコデモも、最初は、自分の信仰を隠していました。イエスのために新しい墓を提供したアリマタヤのヨセフも最初は自分の信仰を隠していました。しかし、主イエスの十字架を見た二人は、変わりました。自分の立場が非常に困難になることを分かっていながら、自分のイエスに対する信仰を人々に示して、イエスの遺体を引き取って埋葬したのです。日本でも、信仰を持つことを人々が批判すること、からかうことがよくあります。私たちは「和」の精神を重んじる民なので、周囲の人々との関係を壊したくないと考えます。周囲の人々と同じ生き方をして、目立たない生き方をすることを好みます。しかし、この世の人々の目を気にして一生を終わることはもったいないことです。浮草のように周りの人々に流されるだけの人生はもったいないと思います。私たちは、主イエスを信じて光のこどもとしていただいたのですから、光の子どもにふさわしく生きなければなりません。

(3)主イエスの最後の訴え
 44節に、「イエスは大声でこう言われた。」と書かれています。しかし、37節に「イエスはこれらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。」と書かれていますから、44節以下の出来事は、この時ではなく、いつか別の時に主が言われたことを、ヨハネがここに、これまでのイエスの働きの結論の言葉としてここに置いたものであることが分かります。イエスが人々に大きな声を出して教えることは何度かありましたが、それはいつもとても大事な教えを語る時でした。44,45節で主は言われました。「わたしを信じる者は、わたしではなく、私を遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。」ここで、主イエスは自分が人間ではなく神から遣わされて来た神の御子であることをはっきりと言われました。日本では、立派な人が死ぬと神としてまつられますが、ユダヤ人にはそんな考えは全くありません。それは神に対する考え方が違うからです。聖書の神は、天地万物を創造された神、全知全能の神、いっさいの限界がないので形がなく目には見えません。そのような神と人間とはまったく次元が違います。ただ、人間には目に見えない神を十分に理解することは難しいです。そこで、神とはどのような存在なのか、そのことが私たちにも分かるように、御子イエスは、今から2000年前に、限られた時間の中で、人間の姿をとってこの世に来られました。新約聖書の福音書に描かれたイエスの言葉や行いを見て、私たちは神様とはどのようなお方であるのかを知ることができるのです。また、主イエスは光として来たと言われました。それは、主イエスを信じる人が闇の中で生きることがなく、光の中で生きるためです。自分がなぜこの世に生まれて来て、なぜ今生きていて、どこに向かって生きているのか、死んだら自分はどうなるのか、そのようなことを知らずに生きている人は、闇の中を歩いているのと同じなのです。私たちは、まことの光である主イエスを信じて初めて、自分がいったい誰なのか、どのような価値があるのか、何のためにいのちが与えられているのか、自分がどこに向かって進んでいるのか、そのような人生の重大な質問への答えを見つけ出すことができます。その答えを知らずに、毎日生きるのと、その答えを知って毎日を生きるのとは、まったく違った生き方になります。
 今から2000年前に、主イエスが人間となってこの世に来られた時は、救い主として来られました。主は私たちを何から救ってくださるのか?それは、私たちが持っている罪のために私たちが受けなければならない裁きと、罪に縛られた生活からの救いです。それを実現するために、神であるイエスは、人間となってくださっただけでなく、私たちの身代わりとして極悪な犯罪人となって十字架で死んでくださいました。そして、私たちが、イエスの十字架の死は私の罪のためだったと信じることによって、罪の裁きから逃れられるようになったのです。そして、できるだけ多くの人が、十字架による罪の裁きからの救いを受け取ることを忍耐強く待っておられます。でも、いつまでも待っておられるのではありません。48節で主が言われたように、「世の終わりのとき」までです。それは、私たちが死を迎えるときか、あるいは、主イエスがもう一度この世に来られる時かのどちらかです。聖書は、主イエスがもう一度この世に来られることを預言しています。1回目は救い主としてでしたが、2回目は裁き主として来られます。主イエスは、今日も、待っておられます。あなたが、主イエスを救い主として信じ受け入れることを。

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