2013年7月14日『悪はどこから来たのか』(創世記3章1-13節) | 説教      

2013年7月14日『悪はどこから来たのか』(創世記3章1-13節)

創世記の2章は幸せに満ちた雰囲気で終わっています。最初の人間アダムが創られ、そして彼のためのふさわしい助け手、パートナーとしてエバが創られました。アダムがエバを見た時に叫んだ言葉「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。」は、聖書が記録している人間の最初の言葉ですが、アダムがどれほど大きな喜びを感じていたかを表す言葉です。二人とも裸でしたが恥ずかしいと思いませんでした。赤ちゃんは周りに人がいても裸であることを恥ずかしいとは思いません。純粋無垢な赤ちゃんのように二人も恥とか恐れを知りませんでした。しかし、この幸せな状態は長くは続きませんでした。

 

(1)蛇の誘惑

3章の1節に「神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」と書かれています。蛇は神の裁きを受ける前ですから今とは姿が違っていたはずです。新約聖書は、この蛇を悪魔だと述べています。ヨハネの黙示録12章10節には次のように書かれています。「この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。」サタンは、もともと天使であったのが、自分が神のようになろうとして傲慢になったために堕落してしまった存在だとイザヤ書14章11~15節に記されています。蛇の姿に変装したサタンがエバに近づいて、非常に巧妙な言葉でエバに語りかけます。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」この質問は何を意味するでしょうか。サタンは、たとえば「神の言うことは全部嘘だ。」のように、最初から神を否定するようなことは言っていません。真っ向から神に反対することを言えばエバは警戒するはずですから。サタンの質問を少し脚色すると、「こんな素晴らしいエデンの園にいるのに、神様は園のどんな木からも食べてはならないと、そんなひどい、ケチくさいことを言ったのですか。」となります。サタンはこの質問をすることによって、エバに、「神様の言葉は全部そのまま受け入れて良いのか?自分でちゃんと考えて、その言葉が本当に信じて良いことか悪いことか考えたほうが良いんじゃないか。」と神の言葉は自分たちでその善し悪しを判断しなければならないのだと言っています。さらにここでのサタンとエバの会話には何度も「神様」という言葉が出てきます。前回お話しましたが、創世記の2章から4章は、この場面以外ではすべて神様は「神である主、エロヒーム・ヤーウェー」という私たちと特別な関係を持ってくださる神様を強調する呼び方が用いられているのですが、この部分だけ、サタンもエバも、一般的な神の呼び名であるエロヒームを使かっています。サタンは、エロヒームを用いることによって、神様が身近な存在ではなく遠く離れた存在だと語っています。それを聞いたエバも、それに流されてエロヒームという言葉で答えています。エバは、サタンの密かな魂胆に気がついていません。単なる質問だと思っていますが、すでに彼女の心の中に、神様の言葉はそのまま受け取るのではなく自分で判断しなければならないという思いが植えつけられていました。

サタンの質問に対して、エバは「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」と答えています。エバは、サタンの質問に対してはっきりと否定することができたはずですが、彼女の答えは、神様の言葉を微妙に変えています。まず、「私たちは、園にある木の実を食べて良いのです」と言っていますが、神様の言葉は2章16節に書かれているように「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」というものでした。彼女はどの木からでもの「どの」、つまり「あらゆる、すべての」という言葉を省いています。神様がどれほど豊かに私たちに色々なものを与えてくださるのか、そのことに対する感謝の気持ちが薄れているように思えます。次にエバは「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。」と答えています。神様は「触れてもいけない、触ってもいけない」とは言っておられません。エバは、神様の命令に対して勝手に自分の考えで「触っても死ぬ」と付け加えていますが、それによって、彼女は神の命令がとても厳しいものだと訴えている感じがします。「触っただけで即死だぞ!」エバの言葉には、「誤って体がふらついて木に触っても死ぬなんて、ちょっと厳しいでしょ」という響きを感じます。さらにエバは神様が「あなたがたが死ぬといけないからだ」と言ったと答えていますが、実際には、神様は「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と言われたのです。神様は、実を食べた結果は必ず死ぬと言われたのに、「死ぬかもしれない」と自分に都合に良いように神の言葉を和らげています。このように、エバは神様の言葉について、神様の恵みを小さくし、神様の言葉に勝手に付け加え、そして、神の言葉を和らげるという3つのことをしてしまいました。私たちが、神様の言葉、聖書の言葉を、自分の判断で、過小評価したり、付け加えたり、あるいは和らげてしまうこと、これが罪の道に落ちていくプロセスなのです。

エバの神様に対する信頼感が揺らいでいるのを見抜いたサタンは一気に言葉で攻めてきます。「あなたがたは決して死にません。」これはヘブル語ではかなり強い表現が使われています。「お前たちが死ぬって!とんでもない!」サタンは神のさばきを否定しています。「神のさばきなんかない、お前たちは自分が好きなように生きればいいんだ。」これは一般の現代人の考え方です。サタンはエバの心の揺れを知っているので、さらに神への不信感を受け付けるために言いました。「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」人間が賢くなって神の地位を脅かすようなことがあってはならないから、神は意地悪で偏狭な心で、木の実を食べるなと言っているとサタンはエバに訴えました。実際には、神様はアダムとエバのために、人が生きるのに必要なすべてのものを備え、非常に美しい場所を与えてくださったのですが、その神様の恵みを忘れさせようとしているのです。「人が神のようになる」これが人間の罪の思いの根底にある考え方です。自分が神になれば誰からも指図されない、自分で好きなように生きられる。だから神なんかいらない。多くの人がこのように考えています。アメリカの一般の葬式で一番よく流される歌はフランクシナトラの「マイウェイ」だそうです。その歌の歌詞は、死を目前にして、自分の人生を振り返った時に、いろいろなことがあったけれど、一番良かったことは、I did it my way 日本語訳では「すべては心の決めたままに」となっています。素敵な感じに響くかもしれませんが、要するに、自分のやりたいようにやった、誰からの指図も受けずに自分のやりたいようにやったということです。聖書の罪とは、このような自己中心な生き方なのです。

 

(2)罪を犯したアダムとエバ(6、7節)

「あなたがたは決して死なない」サタンの言葉を聞いたエバが、改めて、その木の実を見ました。今まで何とも思わなかったエバですが、この時、サタンの言葉を聞いてその実を見ると、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかったのです。そうなると、神様の命令が意味のないように思えてきました。こんなに美味しそうなもの、食べると賢くなる果物があるなら、食べないなんてもったいない、そんな風に自分で理屈をつけて彼女はその実を取って食べました。そしてエバは、そばにいたアダムにも「あなたも食べなさい、美味しいわよ。」といって手渡したので、アダムもその実を食べてしまいました。ここで、初めて、アダムが登場しますが、恐らく、彼は最初からその現場にいたでしょう。サタンもエバに語りかけるときに「あなたがた」と複数形で呼びかけています。アダムはサタンとエバのやり取りを聞いていたのです。アダムは神様からすべての動物に名前をつけるようにとの命令を受けてそれを実行していますから、神様から豊かな知恵や能力を受け取っていたはずです。サタンとエバが言葉を交わしている間、彼は第三者として、話の内容を冷静に判断することができたはずです。神様の命令を直接聞いたのは、エバではなくアダムですから、サタンの言葉にはっきりと「ノー」と言えたはずです。にもかかわらず、彼は、サタンの言葉を聞きながら、彼自身もその誘惑に負けて、エバと同じように、木の実を食べたいと思い始めていました。アダムがずるいのは、エバが木の実を取って食べようとした時に、彼女をとめなかったことです。神様は「その実を取って食べる時必ず死ぬ」と言われました。その実を食べるとエバは死んでしまうかもしれないのです。しかし、彼は止めませんでした。そして、彼女が食べてもバタンと倒れて死なないのを確かめてから自分も食べました。よく、エバは最初に実を食べたからエバの方がアダムより悪いと言われますが、死ぬとわかっているのにエバを引き止めず、エバが食べても死なないのを確認してからその実を食べたアダムのほうが、タチが悪いと思います。

この日まで、二人は本当に幸せな日々を過ごしていました。しかし、アダムとエバは神への信頼を失ったことによって、大きな罪の中に陥ってしまいました。それは、自分たち二人だけの問題ではなく、その後に生まれるすべての人類が罪の性質を持って生まれるという悲惨な結果をもたらしてしまいました。二人は、神様の言葉と、神様が良い方であることに疑いを抱きました。神様はモーセを通して申命記の6章6節で、次のように言っておられます。「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。」二人は肉体的には死んでいませんが、神様との関係が壊れてしまい、霊的には死んだ者となってしまいました。神様からいただいたすべての能力や賜物が良い方向に用いられず、自分勝手な方向に用いられるようになってしまいました。

 

(3)神の問いかけと人の応答(8-13節)

さて、その日、いつものように神様がエデンの園にいるアダムとエバのところへ来られました。いつもなら、二人は神様が来られたことを喜んだはずですが、その日は、彼らは神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠しました。神様は全知全能の方ですから、その日何が起きたのか、二人がどこにいるのか、すべてのことを知っておられました。詩篇の記者が言っているように、私たちは神様の御顔を避けてどこへ逃れることができるでしょうか。どこにも逃れることはできません。特に、二人は神様の顔を避けたと書かれています。いつもなら顔を見ることができるのに、彼らは神様の顔を見ることができませんでした。神様との霊的な関係が壊れてしまったからです。夜行性の生き物が光を避けるように、罪を経験した者は神の顔を見ることができません。神様は二人が自分を避けて木の間に隠れたことも、その場所も、また、なぜ隠れたのかその動機もすべて知っておられました。しかし、神様は、彼らに向かっていきなり叱りつけるのではなく、「アダム、あなたはどこにいるのか」と、ただ質問をされました。それは、神様のいいつけを破ってバツの悪いアダムとエバが出てきやすいようにとの神様の愛であり、神様の配慮だったのです。アダムは隠れていたのが見つかったので木の間から出て来ました。神様の問いかけにアダムは何と答えたでしょうか。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」アダムは、食べてはならないと言われていた木の実を食べたことを謝る言葉を一言も言っていません。彼にとっては、神様の命令を破ったことよりも自分が裸であることが恥ずかしくて不安を感じていることのほうが重要なことでした。アダムの心は、罪が入ったためにすっかり変わってしまっていました。自分のこと、自分のメンツ、自分の感情、それらが他の何よりも大切な自己中心な人間になっていたのです。

アダムが神の命令を破ったことを認めないのを見て、神様がもう一度アダムに尋ねました。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」アダムとエバが何をしたのか神様は全部知っておられましたが、それでも、すぐにそのことを叱りつけないで、二人がそのことを自発的に謝るのを神様は待っておられました。この質問の答えはイエスかノーです。「あなたは食べたのか」という質問の答えは「はい、食べました。」か「いいえ、食べていません」のどちらかです。このように質問することによって、神様はアダムが自発的に自分のしたことを認めさせようとしておられます。ところがアダムの答えは神の期待を裏切るものでした。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは神様に「ごめんなさい」と謝らずに、「エバがくれたから食べた」とエバに責任を転嫁しています。つい、しばらく前に、アダムが初めてエバを見た時に喜びと感動のあまり、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。」と言ったアダムでしたが、人間の感情は、本当に自分本位ですぐにころっと変わってしまいます。あの時の喜びはどこに行ってしまったのでしょうか。しかも、アダムはエバだけに責任を転嫁しているのではありません。「あなたが私のそばに置かれたこの女が」と言いました。つまり、アダムは神様に向かって「あなたがこんな危険な女を私の近くに置いたのが悪い。もっとましな女を作れなかったのですか?」と言っているのです。人がひとりでいるのはよくないと思ってアダムのためにエバを創られた神様は、アダムの言葉を聞いてどう思ったことでしょう。次に神様はエバに向かって「あなたは、いったいなんということをしたのか。」と言われると、エバもアダムと同じように自分の過ちを認めず、「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」と蛇に責任を転嫁しました。ただ、エバはあなたが私に与えたこの男が悪いとは言っていないので、神様にまで責任を転嫁していない分、アダムよりましかもしれません。結局アダムもエバも、最後まで、自分たちが神様の命令を破ったことを神様の前で謝ることをしませんでした。善悪の知識の木の実を食べましたが、二人は、サタンが言ったように神のようになることはありませんでした。彼らは善ではなく悪を体験して知りました。そして、彼らの霊的ないのちは死んでしまったので、彼らの神に対する態度も、他の人間や動物に対する態度もすっかり変わって、ただ、自分ことを守るのに必死な、自己中心の塊のような人間になってしまったのです。これまで幸せと喜びに満ちて生活していた二人は、いかりや不平に満ちて生きる者になってしまいました。

このように最初の人間アダムというひとりの人によって、人類全体が罪に支配され束縛されるようになりました。新約聖書のローマ人への手紙の中でパウロは次のように述べています。「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」アダムもエバも責任を他の人や他のものになすりつけようとしました。しかし、主イエスは違います。その反対のことをしてくださいました。主イエスは罪のない方ですが、人間の罪を自分が背負うことによって、自分がそのバツを進んで受けてくださったのです。主イエスが十字架に掛けられた時、十字架は3本立っていました。主イエスが真ん中で両側には2人の極悪人が磔になっていました。罪のある人間に囲まれて罪のないお方が十字架にかけられました。しかし、そこで奇跡が起こりました。二人のうちのひとりが主イエスに向かって罵ることを止め、主イエスが語る言葉を聴き始めました。そして、この方こそ旧約聖書に約束されている救い主であることを確信しました。それで、彼は死ぬ直前に、となりにいる主イエスに言いました。「イエス様、あなたが天国に行かれる時に、私のことを思い出してください。」彼は、自分がこれまであまりにもひどい生き方をして来たことを知っていたので、「私を天国に連れて行ってください。」とは言えなかったのです。しかし、主イエスは言われました。「そのように思うのであれば、あなたは、この瞬間、私と一緒に天国にいます。」十字架の日、昼の12時から午後3時まであたりが真っ暗になりました。その暗闇が覆う中で、この犯罪人の罪が取り除かれて主イエスの上に置かれました。主イエスが自分からその人の罪を背負ってくださったのです。この人は人生の最後の最後で、大逆転を経験しました。一人の人によって罪が入りましたが、一人のお方によってその罪は取り除かれるのです。

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