2016年6月19日『安息日の主』(ルカ6章1-11節) | 説教      

2016年6月19日『安息日の主』(ルカ6章1-11節)

ルカは、福音書を書く中で、主イエスについて特に強調したかったことは主イエスの権威についてでした。それは、病気をいやす権威であり、人を悪霊から解放する権威であり、罪を赦す権威でした。それに加えて、ルカが主イエスについて強調している点がもう一つあります。それは、主イエスの憐みの心です。主イエスは、ご自分が育った町ナザレに行って会堂の中に入り、聖書を読まれましたが、その言葉は旧約聖書のイザヤ書でした。そして、主イエスは救い主としての使命について、「貧しい人に福音を伝えるため、捕らわれている人々に解放を与えるため、盲人の目が開け、虐げられている人々を自由にする」ことだと、選挙の時の公約、マニフェストのように言われました。(4章18節)そして、こう宣言された後すぐに、カペナウムという町で悪霊につかれた人を解放し、ペテロのしゅうとめの病気をいやし、日が暮れても、連れてこられた病人の一人一人に手を置いて病気をいやされました。ハンセン氏病の人のためには、その人の体に触って病気をいやしました。そして、取税人であったレビ、後のマタイを弟子として招いた後、罪のないイエスは大勢の取税人や罪びとたちと一緒に食事をしました。このことを批判したユダヤ教の指導者であったパリサイ人たちに対して「わたしはあわれみは好むが、いけには好まない。」この言葉の意味をどこかに行って学んできなさいと言われました。この時、主イエスが言われた言葉は旧約聖書のホセア書という預言書に書かれているものですが、当時のイスラエルの民が、かたちだけ神様の命令を守っていけにえを捧げていましたが、それは形だけの行いであって、心は神様から遠く離れていました。その証拠が、彼らには他の人々に対する憐みが欠けていたのです。その姿勢は、イエスを批判していたパリサイ人たちにも見られました。だから、主は彼らに「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」と言ったのです。彼らは、自分が宗教的に正しい生活をしているということを自慢にして、そのことだけを考えていましたので、他の人々に憐みを示すことがなく、ほかの人がどんな必要があって困っているのか、そういうことにはまったく無関心でした。今日の箇所は、安息日を守るということがテーマですが、この点において、パリサイ人たちはさらに、彼らの生き方が神の望む生き方から離れているかを示すことになります。

(1)安息日を守るとはどういう意味か?(1-5節)
 6章1節を読みましょう。「ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。」旧約聖書の律法にも神様の憐みが表れていました。申命記23章25節には次のような教えがあります。「隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」この戒めは、人間が自分の持ち物にしがみついてはいけないことと、誰もが空腹で苦しむことのないようにということのために神様が与えたものです。ただ、こういう場合、厚かましい人がいて、他人の善意を踏みにじるようなことをすることがあるので、他人の麦畑で他人の麦の穂を手で摘んでもよいが、鎌をもっていって摘んではいけないと教えています。昔も今も、人間の心はあまり変わらないようです。いずれにせよ、旧約聖書にはこの教えがあるので、イエスの弟子たちが、他人の麦畑に入った時に、麦の穂を摘んで、手でもみ出して食べたことは、決して旧約聖書の律法を破ってはいませんでした。ここで、問題になったのは、イエスの弟子たちが、安息日に、このことをしたことでした。というのはモーセの十戒の4番目の戒めに「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」とあるからです。旧約聖書の時代、ユダヤ教のリーダーたちは、この律法を守るための参考として仕事を39種類に分類して、その一つ一つにさらに細かいルールを作っていたので、それだけで膨大な数の規則が作られていました。その39の仕事の中に、刈り取りをすること、脱穀すること、脱穀したものをふるいにかけることも含まれていました。したがって、イエスの弟子たちが麦畑で麦の穂を手で摘み、それを手でこすって殻をとって中身を取り出して食べるのを見たパリサイ人たちは、弟子たちが麦の刈り取り、脱穀、そしてもみ殻を取り除くという3つの仕事をしたと考えたのです。だから、2節で、パリサイ人たちが弟子に向かって「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」と厳しく批判しているのです。
 彼らの批判に対して、主イエスは旧約聖書の時代の出来事を取り上げて、反論しています。それは、主イエスよりも1000年前に生きたイスラエル王ダビデに関する出来事です。旧約聖書は、ダビデの子孫から救い主が生まれることを預言しています。ダビデは、正式にイスラエル王になる前、最初の王サウルから憎まれて、執拗にいのちを狙われていたので、部下たちを連れて逃げ回らなければなりませんでした。そんな中、部下が空腹を感じているのを見てノブという町の祭司アヒメレクのところへ行き、食べ物を求めました。その時に、アヒメレクの手元には、祭壇に捧げた「供えのパン」しかありませんでした。この「供えのパン」というのは、祭司が聖所の中にある机のうえに毎週安息日に供えていたパンのことです。この「供えのパン」というのは正式には「神の臨在のパン」という名前で、イスラエルの民の間に神ご自身が共におられて生活の必要を満たして下さるということのシンボルのようなものでした。祭司は毎週、聖所に入って、1週間前に供えたパンを取り下げて、新しいパン12個を小さな机の上に供えます。取り下げた古いパンは、その聖所で働く祭司だけが食べることが出来ました。しかし、祭司アヒメレクは、ダビデの求めに応じて、その供えのパンをダビデと部下たちに与えたのです。神様は、このアヒメレクの行いを罪とは見なしませんでした。それは、律法を守ることよりも、人のいのちを守ることが大切であることを示しています。このことが、「神はあわれみは好むが、いけにえは好まない。」という言葉の意味でもあるのです。今、イエスの弟子たちが、空腹を感じて、安息日に麦畑に入ってその穂を摘み、手でもみ出して麦を食べたのは、彼らのいのちを守るためであって、それは、律法を守ることよりも優先されるべきことだと主イエスはパリサイ人たちに向かって言われました。主イエスは神の御子であり、人間ダビデよりも遙かに偉大な方です。ダビデに対して許されることであれば、なおさら主イエスにも許されることなのです。
 さらに主イエスは言われました。「人の子は、安息日の主です。」人の子とは、主イエスのことです。これは、主イエスは、安息日というものをも支配する方であるという意味です。安息日は神ご自身が制定されたものです。安息日は、御子イエスによって創られたものです。旧約聖書の時代、ユダヤ人たちは、安息日に関する様々なルールを作りましたが、主イエスはそれに支配される方ではなく、むしろ、それを支配される方です。スポーツで「オーバールール」というのがあります。例えば、テニスで、ラインズマンが「アウト」と言っても、主審が「イン」と判断したら、「イン」になります。これを主審のオーバールールと言うのですが、主イエスが,この時の弟子たちの行動について「オーバールール」を宣告したということになります。つまり、主イエスが安息日の決まりによって支配されることはなく、イエスが安息日をコントロールしているということなのです。主イエスがこの世に来られた目的は、最初に言いましたように、「貧しい人に福音を伝えるため、捕らわれている人々に解放を与えるため、盲人の目が開け、虐げられている人々を自由にする」ことでした。主イエスは、律法の規則よりも、人々に憐れみを示し、人々の必要を満たすことを優先される方です。その主イエスは、私たちに対しても同じように働いてくださるのです。

(2)安息日のいやし(6-11節)
 ルカは、主イエスと安息日の関係をさらにはっきりと示すために、もう一つの出来事を取り上げています。別の安息日に、主イエスは会堂に入って人々を教えておられました。群衆の中に、一人右手がマヒして使えない人がいました。また、そこにも、律法学者とパリサイ人たちがいました。彼らはイエスの教えを聞いて学ぶためにそこにいたのではなく、イエスが安息日に人を癒やすかどうかを見張っていて、もし、癒やしを行うならイエスを訴えようと考えていました。イエスは、いつものように人々に福音を語り、そして、必要がある人には憐れみの心で人々を見ておられました。もちろん、そこにいる右手が不自由な人をも心に留めておられました。一方、自分を宗教家と考えていた律法学者やパリサイ人は、その右手が不自由な人については全く無関心でした。その人がこれまでの人生でどんな苦しみを味わい、悲しみを味わって来たのか、そんなことは彼らには無関係です。彼らにとって重要なことは、安息日にイエスが誰かを癒やすかどうかということでした。彼らが造ったルールでは、安息日に病人を癒やすことは、医療行為をすること、つまり仕事をすることになるので、許されていなかったのです。彼らが考えていたことは、伝統的なルールは破られてはいけない、どういう行為は行ってはいけない。そのようなことばかりです。しかし、主イエスが考えていたことは、困っている人、必要を覚えている人にどのような良い働きをしょうか、どのような助けを与えようかということでした。
 主イエスは、もちろん、律法学者やパリサイ人たちが何を考えているか分かっていました。それで、右手が不自由な人に「立って、真ん中に出なさい。」と言われました。そして人々に向かって言われました。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか。それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」イエスは、もう少しまって安息日が終わってからその人を癒やすこともできました。あるいは、彼をどこかに連れて行って二人きりのところで癒やすこともできました。しかし、イエスは、律法学者やパリサイ人たちに神の心を教えるために、あえて、この時間に、皆が見ている所で、この人をいやしました。主イエスは、マタイの福音書では次のように言われました。「あなたがたのうちに、誰かが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値打ちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをするのは正しいのです。」貧しいガリラヤの人なら、誰もが、羊を助けると答えます。イエスは、この言葉を言ってから、その人の不自由な右手を癒やして挙げました。その人はどれほど喜んだことでしょうか。その人の家族もどれほど喜んだことでしょうか。その人を長年苦しめていたものがなくなったからです。近所の人も、そこに集まっていた人も、皆、喜びに満ちて神をほめたたえたことでしょう。
 しかし、律法学者とパリサイ人たちだけは違っていました。ルカの6章11節を見ると、彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと相談しました。」マタイやマルコの福音書には、もっとはっきりと、「イエスをどうして葬り去ろうかと相談した。」と書かれています。彼らには、神が喜ぶ信仰はありませんでした。彼らは、あわれみよりも自分たちが決めたルールや伝統が大切だったのです。この二つの出来事は、彼らには本当に神を信じる信仰がないことを明らかにしました。しかし、神様の愛と恵みは、彼らを見捨てることなく、彼らの固い心に迫り続けてくださいました。使徒の働きの15章を見ると、パリサイ人の中でクリスチャンになった人々がいたことが分かります。そして、その中の一人が、復活の主イエスと出会ったパウロでした。パウロは自分自身を罪びとのかしらと呼んでいます。そのようなパウロを主イエスは世界最初の宣教師になるように召しだし、彼の働きによってキリストの福音はローマ帝国全体に広がりました。

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