2016年7月3日「真のクリスチャンとは」(ルカ6章20~26節) | 説教      

2016年7月3日「真のクリスチャンとは」(ルカ6章20~26節)

 先週は、主イエスが大勢の弟子の中から12人を選んで「使徒」と名付けられたという出来事から、主イエスが私たちと同じような普通の人を選ばれたことを学びました。神様の力は、私たちの弱さの中に働くことを覚えるとき、私たちは自分の弱さを嘆く必要はなく、私たちの弱さの中にも、神様の力が働くことを期待できます。主イエスは12人を選ばれると、すぐに彼らと共に働きを始めました。イエスは彼らを連れて山を下り、平らな場所に立たれました。主イエスの周りに12人の使徒たちが立ちました。彼らが初めて公の場所で12使徒としての働きをすることになりました。その周りには、主イエスに従っていた大勢の弟子たち、さらにその周りには、イスラエルの各地、ユダヤの全土、都のエルサレム、さらには外国であったツロやシドンからも大勢の人々が主イエスの教えをくために、また病気の癒しや、悪霊からの解放を求めて集まっていました。19節には大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたと書かれています。そのため、群衆はなんとかして主イエスに触ろうとしてイエスに押し迫っていました。12使徒たちは、最初から、大きな任務をまかされました。興奮している群衆の気持ちを落ち着かせて、混乱が起きないようにコントロールしなければならなかったからです。しかし、その日の主イエスの働きの中心は、人々をいやすことではなく、6章の20節から49節に記された教えでした。その内容は、マタイの福音書の5章から7章に記された、いわゆる「山上の説教」に似ています。ただ、2つの説教には違いもあります。まず、17節に「イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになった。」と記されていますので、ルカの6章に記された主イエスの説教は「平地の説教」と呼ばれます。主イエスは、3年間、毎日のように人々に教えを語られましたので、マタイとルカは、それぞれ別の時に主が語られた教えをまとめて書いているのだと思います。どちらの説教も、「幸いな人」に関する教えで始まっていますが、マタイの福音書には8つの幸いについて語られている一方、ルカの福音書では、4つの幸いについて書かれています。ルカの説教には「幸いな人」と対照的に「哀れな人」について語られていますが、マタイの福音書には、そのようなことは書かれていません。そして、ルカの福音書の説教のほうがコンパクトで内容がぎゅっと詰め込まれています。
 20節には「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し出された。」と書かれていますので、ここに書かれている主イエスの説教は、12人の使徒たちと、主イエスに従って生きることを決めていた大勢の弟子たちに向かって語られたものであることが分かります。イエスの教えは、単なる道徳的な教えではなく、自分の罪を認めて、罪赦されて救いを受けた人々に対する教えであるということを忘れてはいけません。イエスは言われました。「私は失われた人々を見つけ出して救うために来たのです。」主イエスが神の子としての働きを始められた時の最初のメッセージは「悔い改めなさい。神の国は近づいた。」でした。このことは、今も、同じです。聖書の教え、礼拝で語られているみ言葉は、自分が住んでいる社会の中で善い人として生きるための道徳の教えではないのです。聖書の教えとは、「主イエスを信じなさい。信じないと神のさばきがあります。神の裁きから逃れる道はただ一つ、それは、自分の罪を認め、悔い改めて、主イエスの十字架の死は私の罪がゆるされるためであったと信じる信仰だけです。」というものです。聖書の教えは人生の教養として身に着けるためのものではなく、自分の魂が生きるか死ぬかに関わるものであることをぜひ、覚えてください。そういうわけで、今日の主イエスの教えは、クリスチャンとして生きるとはどういうことなのかという非常に大切なことを私たちに教えています。

(1)主イエスが教える幸い
 最初に主イエスが幸いな人として言われたのは「貧しい人」です。「貧しい」と訳されている言葉は、他の人に頼らないと生きていけない程の極度の貧しさを意味する言葉です。ただ、主イエスは、ここで、経済的あるいは物質的な貧しさを言っているのではありません。マタイの福音書では、「心の貧しい人」と言われています。心が貧しいとは、自分の心の中に自分の正しさを証明できるようなものが何一つないことを認めている人のことです。その良いモデルがルカの福音書18章に出て来る取税人です。彼は、神様に祈るためにエルサレムの神殿にやって来ましたが、神殿の隅のほうに他の人から遠く離れたところに立ち、目を天に向けようともせずに、自分の胸をたたいて祈りました。「神さま。こんな罪人の私を憐れんでください。」神様は、このような心を持っている人を受け入れてくださるのです。イザヤ書57章15節で、神様はこう言われました。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」当時、いつもイエスを激しく批判していたユダヤ教のリーダたち、律法学者やパリサイ人たちには、このような心がまったくありませんでした。心の貧しい人に与えられた約束として、主イエスは言われました。「神の国はあなたがたのものです。」ここで、主イエスは「あなたがたのものになります。」とは言わずに、「あなたがたのものです。」と言われたのは、神の国の祝福が、将来死んだ後に与えられるのではなく、信じた瞬間に与えられると約束されているからです。神の国の祝福とは何でしょう。ローマ14章17節には、「神の国とは、飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びである。」と書かれています。イエス・キリストを信じるなら、天国の祝福は死んだ後から始まるのではなく、信じた瞬間に与えられます。神様によって正しい者として受け入れられ、神とともに生きる平和、平安が与えられ、この世のはかない喜びではなく、いつまでも続く不思議な喜びを感じるのです。
 第二の幸いは、「飢えている人」です。これもマタイの福音書では、「義に飢え渇いている人」と言われているので、おなかがすいて何か食べたい人という意味ではなく、義を求める心を持っている人のことです。義を求めるとは、律法学者やパリサイ人たちのように、自分が正しい行いをしているので自分は正しいと思い込んでいるのと反対に、自分の力や行いでは神様が求める正しさを得ることができないことを認めて、ただ神様の愛を慕い求める心を持っていることを意味します。いつも賛美している「谷川の鹿のように」という歌は詩篇42篇1節の言葉が歌詞になっています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて、渇いています。」鹿は、水がなければ生きていけません。それと同じように、神様から離れては生きていくことはできないことを知って、神様の言葉を求め、神とともに生きることを心から願っている人が、「義に飢え渇いている人」です。そのような人に約束されている祝福は、「やがて飽くことできる」という祝福です。詩篇の34篇10節に「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は良いものに何一つ掛けることはない。」とあります。これは、決して、神様を信じたら何でも欲しいものが与えられるという意味ではありません。私たちには様々な必要がありますが、神様は、私たちにとって最も大切な必要はたましいが満たされることだということを知っておられます。神様は、まず、私たちの霊的な必要を満たしてくださいます。私たちは、生活の中で、あれがない、これがない、といろいろ心配をしていますが、そのようなとき、私たちはちょっと立ち止まって、考えることが必要です。それは本当に私に必要なものなのだろうか。
それは、私にとって一番よいものなのだろうか。それを持つのは今が一番良い時なのだろうか。このように考えて見ると、自分に足りないと思っていたものが、別に特に必要ではないものが多いことが分かります。赤ちゃんには様々な必要があります。しかし、赤ちゃんは心の中で、あれがないこれがないなどと心配していません。お母さんの腕に抱かれている限り、すべての必要は満たされることを知っているからです。私たちも神様の御手に守られているなら、神様は私たちに必要なものをいつでも満たしてくださる方です。
 第三の幸いは「いま泣いている者」です。マタイの福音書では「悲しむ者はさいわいです。」と言われています。悲しみは私たちのために2つのことをするとW.バークレーと言う人が言っています。一つは何にもまして人の情けを知り、人の情けが分かるようになる。もう一つは、神様の慰めと憐れみがかけがえのないものであることが初めて分かる。確かに、悲しむことを通して初めて得るもの、初めて分かるものがあります。それは大切な経験です。しかし、主イエスがここで言われている「泣く」「悲しむ」とは、自分の罪深さを絶望するほど悲しむ者は幸いであるという意味です。主イエスが神の子として働き初めて最初に言われた言葉は「悔い改めなさい」でした。「悔い改める」ためには、自分の罪を悲しむ心がなければなりません。人間が本当に変わる時は、何かの出来事を通して自分の心の目が開かれて、自分の中にある自己中心な心、自分勝手さが分かる時ではないでしょうか。その心がないと変わることはできません。キリスト教の信仰は、このように自分の罪を認めるところから始まります。これは簡単なことではありませんし、非常に辛いことです。しかし、その経験をする人が幸いなのです。それは、マタイの福音書によれば、そのような人だけが神様からの慰めを受けることができるからです。ルカは、慰められるだけでなく、罪が赦された喜び、罪から解放された喜びで、笑うようになると教えています。イザヤ書61章3節にはこう書かれています。「シオンの悲しむ者を慰め、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。」この時に、経験する喜びは、この世での楽しい出来事や楽しい人との交わりから得られる喜びとはまったく違います。この世の喜びは、いつまでも続きません。すぐに消えてしまいます。しかし、神様が与えてくださる喜びは、自分の状況に関係なく心の中にある消えることのない喜びです。
 第4の幸いは22節に書かれています。「人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがは幸いです。」これまでも3つの幸いは、私たちが自分自身をどのように見るかということに関係する幸いです。しかし、4つめの幸いは、この世の人々が私たちをどのように見るかに関係するものです。4つの言葉が使われています。「憎む」「除名する」「はずかしめる」「あしざまにけなす」この言葉から分かることは、もし、私たちが本当にクリスチャンとしてこの世で生きて行こうとすると、必ず世の人々からの反対があるということです。22節で「人の子のために」と書かれていますが、主イエスはご自分のことを「人の子」と呼ばれました。神を信じない人々は、神への怒り、憎しみがあります。主イエスも、12使徒を働きのために送り出すときに、「わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。」と言われました。主イエスは、そのような時に、弟子たちに何と言われたでしょうか。「その日には、喜びなさい。おどりあがって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。」なぜ、そのような時に、私たちは喜ぶのでしょうか。その理由は、天にある私たちのための報いが大きいからです。私たちが試練や迫害を経験するとき、私たちはこの世だけで生きる者ではなく、もう一つの世界があることを覚えておくことが大切です。使徒パウロは、「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」(2コリント4:17)と言いました。パウロはこのことを確信していましたから、ピリピという町で捕らえられて牢屋に投げ入れられた時も、明日処刑されるかも知れないというのに、彼とシラスは大きな声で讃美歌を歌っていました。あなたがこの世でクリスチャンとして生きる時に、人々から憎まれ、苦しみを受けるとするならば、むしろ喜ぶべきことです。というのは、それはあなたの信仰が本物であることの証拠だからです。そしてそのような信仰を持つものに神様は永遠の思い栄光に満ちた報いを与えてくださるのです。

(2)呪われた生き方
 4つの幸いについて教えられた後に、主イエスは、それに対応する4つの呪われた生き方について語られました。今まで述べてきた生き方をしない人々は哀れであるといわれました。「富む者」とは、自分の罪を認めず、神を信じることがどうしても必要だとは思わない人です。「食べ飽きている人」とは、神様なしには生きていけないとは思わない人、必死になって神様を求めようとしない人です。「笑っている人」とは、自分の心の問題に目を向けず、この世の生活に満足して笑っている人です。「みんなの人から褒められる人」とは、この世の人々と調子を合わせて、自分の信仰を貫く生き方をしていない人です。信仰を貫かないから、人々から憎まれることも反対されることもありません。つまり、これらの人々は真のクリスチャンとして生きなかった人々です。聖書は、この世には2種類の人々しかいないと教えています。真実にキリストに従って生きる人々、つまり幸いな人々と、その生き方をしない人々、つまり哀れな人々の2種類です。イエスのメッセージは、非常に過激なメッセージです。クリスチャンとして生きるとは、この世で、教養のある人のように生きることではありません。イエスの教えに真実に従おうとすることです。心が貧しく、つねに神を慕い求め、自分の罪を悲しみ、そして、信仰姿勢を貫いて生きるために人々からの反対を受けることも経験する、そのような人々こそ、永遠の豊かさ、永遠の満足感、永遠の喜び、そして、永遠の報いを受ける人なのです。あなたはどのような生き方をしていますか。

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