2017年7月9日 『悪霊を支配するイェス』(ルカ11:14-26) | 説教      

2017年7月9日 『悪霊を支配するイェス』(ルカ11:14-26)

(1)主イエスの奇跡と人々の反応(14-16節)
 今日の箇所は主イエスの奇跡の業によって始まっています。14節「イエスは悪霊、それもおしの悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、おしがものを言い始めたので、群衆は驚いた。」ところが、一つの出来事にしても、人がどういう立場でそれを見ているかによって、反応がまったく違います。私たちは、みな、自分の立場というものを持っています。そして、何を見ても、自分の立場でしか物事が見えなくなってしまいます。今話題の棋士加藤一二三さんは、「ひふみんアイ」で知られています。対局で休憩中、相手がいない時に、相手の側に回って相手の視点から将棋盤の状況を見ることによって、良いアイデアが浮かぶのだそうです。このように見方を変えて見ることができる人は良いのですが、たいていの人は自分の立場にこだわってしまって本当のことが見えないことが多いのです。14節で起こった出来事とは、悪霊に縛られていて言葉が話せない人を見た主イエスが、その人から悪霊を追い出したので、言葉が話せるようになったということです。当時はまだ教育も進んでいませんから、ほとんどの人は読み書きができません。コミュニケーションの方法は言葉を話すことがすべてでした。そんな時代に、言葉が話せないことはどれほど辛いことであったでしょうか。美智子皇后もある時言葉を話せない時がありましたが、本当に大きな苦しみだったと思います。ですから、この人は、突然、長年の苦しみから解放されたのですから、おそらくイエスに向かって「ハレルヤ、ありがとうございます。」と喜んで叫んだに違いありません。それを見た群衆はびっくりしました。素晴らしいことが起こったのです。聖書は「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい。」と教えていますが、これが意外と難しいことなのです。15,16節にはこう書かれています。「しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者もいた。
また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。」この人々は、目の前で主イエスが素晴らしいことを行っても、それをすなおに受け入れず、イエスが神の御子であり救い主であることを認めませんでした。ある人々は、もっと大きなしるしを求めました。16節に「天からのしるし」と書かれていますので、旧約聖書の時代に、天からマナという食べ物が降ってくる」という奇跡がありましたので、そのような特別な大きなしるしを求めたのでしょう。彼らは、「もっと大きな奇跡をすれば救い主と認めてもいいぞ」みたいな考えを持っていたのです。いずれにせよ、この立場の人々は、長年言葉を話せずに苦しんでいた人のことにはまったく関心を示していません。人々がイエスを神だと信じること、人々の間でイエスの人気が高まるのを防ぐことに必死になっています。どこか、今の日本の政治家に似ているような気がします。苦しんでいる人々のことよりも、自分の立場、自分と敵対する人の立場のことだけを考えているのです。
 ここで、「悪霊」が出てきます。一般の人は悪霊なんて本当に存在するのかと思うでしょう。しかし、聖書にははっきりと悪霊について教えています。第一ヨハネ4章1-3節にはこう書かれています。「4:1 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」神も目に見えない霊的な存在なのですが、神以外はすべて悪霊です。悪霊は、根本的に私たちを束縛します。しかし、神の霊は、「おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊」なのです。悪霊の働きは、私たちの社会にあふれています。占い、オカルト、魔術、スピリチュアル、これらは、皆、私たちを神から引き離して、私たちの心を恐怖と不安でしばりつけているのです。有名人や芸能人がそういうものに支配されていることはよく聞く話です。韓国のパククネ元大統領にもそういう人がいましたし、レーガン大統領の妻ナンシーさんも水晶占いにはまっていて、その占いで政治に口をはさんでいたとのことです。悪霊の働きは、すべて人の心を洗脳して自由を奪ってしまうものなのです。では、クリスチャンとしてはどのように悪霊について考えればよいのでしょうか。C.S.ルイスという人がクリスチャンが悪霊について犯す2つの過ちについて書いていますが、一つは悪霊の存在を信じないことであり、もう一つは、悪霊の存在を信じて、過度に意識して、不健全な関心を持つことです。私たちには全知全能の神が味方なので、悪霊を必要以上に恐れることはありませんが、まったく無視してもいけないのです。

(2)恵みに満ちたイエスの言葉
 ユダヤ教の指導者たちは、自分たちの立場にしがみついているので、イエスが何を語っても信じない、どんな力に満ちた業を行っても信じない、そんな心になっていました。人間的に考えれば、十字架にかかる時が迫っているイエスにとって、言いがかりをつけるそんな人たちを相手にする必要はまったくありません。イエスは、何も言わずに彼らから離れて行っても良かったのですが、このまま放っておくと、この人々は滅びに至ってしまうので、イエスは、彼らに真実を分かってもらおうと、彼らの間違いを指摘して、彼らが考えを変えることを願って忍耐強く彼らに語り続けられました。主は二つの例えを用いて話されました。一つは、国が仲間割れするという例えです。17,18節を読みましょう。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。」イエスが悪霊の力を使って悪霊を追い出しているという人々の批判に関して、イエスが言われた第一のことは、国の内部で対立があって仲間割れすると崩れてしまうという点でした。それは、一つの国であっても、軍隊であっても、会社であっても、さらには家庭であっても同じことです。ある国の王様が自分の国の軍隊を攻撃したらどうなるでしょうか。その国は滅んでしまいます。船越英一郎さんと松居一代さんが家庭内でもめていますが、このような夫婦はもう修復不可能です。もし、イエスが、彼らが言うように悪霊の力を使って悪霊を追い出しているとすれば、悪霊が別の悪霊と戦って自分たちの領域から追い出すことになり、それは、同士討ちと同じで、そんなことをすれば悪霊自体が滅んでしまうでしょう。20節を読みましょう。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」この「神の指」とは神の力を表しています。もしイエスが神の力で働いているのだとすれば、神の国がこの世に来ていて、私がその代表者だとイエスは宣言されました。
 もう一つの例えが21,22節に記されています。それは強い人と、もっと強い人の話です。「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」ここで家と訳されていますが、これはむしろ城と考えたほうが良いでしょう。ある城が、十分に強い殿様や軍隊で守られていれば、その城の中に住む人々もその中にあるすべての財産も安全です。この強い人とは悪魔を表しています。その人の持ち物とは、この箇所に出てくる悪霊につかれて言葉を話すことができなかった人のように、悪魔に支配されている人々です。そして、もっと強い者とは主イエスのことです。もっと強い人が城を襲うと、その中に閉じ込められていたものは全部奪われ、もっと強い人のものになります。悪霊に縛られて話すことができなかった人が主イエスによって悪霊から解放され、話すことができるようになったのは、神の子であるイエスが、敵である悪霊に縛られた人を解放したからです。イエスは悪魔の仲間ではなく、悪魔の強力な敵であって、ご自身の強い力によってこの人を悪霊の支配から解放したということなのです。

(3)イエスのもう一つの警告(23-26節)
 主イエスが、ユダヤ教の指導者たちと論争をしている時に、その様子を見ている人々がいました。彼らは、主イエスが悪霊につかれた人を解放した様子を目撃していましたので、イエスを批判する人々の言葉に同意はしていませんでした。彼らはイエスを批判する者たちに反論することなく、また、イエスの側につくこともなく、自分たちは中立の立場でいようと思っていたようです。その様子を見て主は言われました。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」福音書とは、神様から私たちへのメッセージですが、私たちに応答を求めます。イエスを信じるのか、イエスを信じないのか、このどちらかの道を選ぶように神様は私たちにチャレンジしているのです。聖書は、神に敵対する悪魔の存在を教えています。悪魔は悪霊を使って人々に働き、神を信じないようにしています。つまり、霊的な世界において、神と悪魔との戦いが起きているのであって、すべての人は神の側にいるか、悪魔の側にいるかのどちらかで、中立という立場はないのです。したがって、もし、私たちがはっきりとイエスに従うという姿勢を示さないならば、悪魔の側についているのです。
 中立状態の危険性を知らせるために、主イエスはもう一つの例えを話されました。瀬尾要造先生は、この例えを次のように現代風にしています。一人の悪い男が借りていた家から追い出されたので、いろいろ安宿を転々としていたが、昔住んでいた家が懐かしくなって戻って来てみると、家の中はきれいに掃除されていて、飾りまでされている。まだ誰も借りていない様子だ。そこで、彼は、また追い出されるといけないので、やくざ風の男を7人連れてきてその空き家に住み込んだ。そうすると、その家の状態は前よりもいっそう悪くなった。主イエスは、この例えで何を言おうとしているのでしょうか。
 人が自分の生活を改善しようとすることはすばらしいことですが、自分の悪い性格や習慣を改めようとして、悪いものを自分の中から捨て去るとしても、心の中が主イエスによって満たされていないと、もっと悪い結果になるのだということです。今日、競争の厳しい社会でストレスで押しつぶされそうになっている人が多くいます。ある人は瞑想をして解決しようとしたり、座禅や修行をしたり、いろいろな本を読んで解決しようとします。それらは決して悪いものではないのですが、聖書は、「そのようなものは一見賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては何のききめもない」と断言しています。私たちが、自分の罪や弱さを認めて、イエスの十字架が自分の罪が赦されるためであったことを認め、主イエスを救い主として信じること、つまり、心の中を主イエスによって満たさなければ、私たちの生き方は変わらないのです。しかし、ヨハネの福音書の1章12、13節には次のような約束が記されています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」キリストを信じる人は霊的に新しく生まれて、神様から新しいいのちをいただきます。イエスを信じる信仰は私たちの内側を新しくします。主イエスを信じる信仰によって、私たちは神の家族の一員となって新しい生活をスタートするのです。あなたは、どちらの側についていますか?主イエスの側ですか、それとも悪魔の側についていますか。中立という立場はないのです。

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