2017年7月16日 『あなたの心の目は明るいか』(ルカ11章29~36節) | 説教      

2017年7月16日 『あなたの心の目は明るいか』(ルカ11章29~36節)

 今日の聖書の箇所は先週の続きですが、主イエスが語りかけているのは、自分の立場にこだわってイエスを信じようとしない人々でした。彼らは、悪霊につかれて言葉を話せなかった人を悪霊から解放して言葉を話せるようにした主イエスの大きな奇跡の業を見ても、主イエスに対する批判を変えず、「イエスは悪霊の力を使って悪霊を追い出している」とつぶやいていました。そんな彼らを、イエスは無視することもできたのですが、主は旧約聖書の有名な二つの話を取り上げて、彼らの間違った姿勢を戒められました。

(1)心のかたくなな人のためのしるし
 主イエスは旧約聖書の預言者ヨナとソロモンに会いに来た南の国の女王の話をすることによって、心のかたくななユダヤ人たちに何を伝えようとしたのでしょうか。ヨナは旧約時代の預言者で、イスラエルを苦しめていた東の国アッシリアの都ニネベに住む人々に罪の悔い改めを伝えるように神様から命じられました。アッシリア人は非常に残忍で、イスラエルの人々をひどく苦しめていたので、ヨナは神の命令に従わず、アッシリアとは反対方向の地中海の港に行きました。すると、ちょうどタルシシュという最も西にある町に行く船があったので、彼はその船に乗り込みました。ヨナを連れ戻すために、神様は嵐を送りました。嵐のためにパニックに陥った船員たちは、嵐を鎮めるために一人を海に投げ込むことを決めて、くじをひいたところ、ヨナがあたりくじを引いたため、彼は嵐の海に投げ込まれます。ところが、神様はヨナのいのちを守るために、くじらにヨナを飲み込ませました。ヨナがクジラのお腹の中で神様の命令に逆らったことを悔い改めると、クジラが浜辺でヨナを吐き出したので、彼のいのちは守られました。ヨナは神様に命じられたとおりに、アッシリアの都ニネベに行き、人々に罪の悔い改めの説教を語りました。すると、驚いたことに、ニネベの人々は王様から一般の人々まで神様を信じ悔い改め、異教徒の都ニネベに大きなリバイバルが起こりました。
 30節で、主は「ヨナがニネベの人のしるしとなったように、私がこの時代のためにしるしとなる」と言われましたが、これはどういう意味なのでしょうか。まず、ヨナもイエスも、人々に悔い改めて神を信じるようにというメッセージを語ることが使命でした。また、ヨナの特別な経験は、主イエスの十字架と復活を暗示しています。魚に飲まれて海の底に三日間閉じ込められた後に、吐き出されて地上に生きて現れたことは、主イエスが十字架にかけられ、ヨセフとニコデモによって墓に葬られた後、三日目によみがえられたことの予表です。マタイの福音書には、イエスの言葉が記されています。「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」人々は、イエスを信じるためのしるしを求めましたが、私たちにとって主イエスの十字架と復活以上のしるしはありません。イエスは、この時代は悪い時代で、しるしを求めると言われました。確かに、主イエスの奇跡の働きによって信じる人々はたくさんいましたが、ただ奇跡を見たことでイエスを信じる信仰は浅い信仰なので、ちょっとした困難や、自分の考えと合わないものを見ると、その信仰は消えてしまいます。また、どんなしるしを見ても、ユダヤ教のリーダーたちはイエスを信じようとはしませんでした。信仰というのは、自分で選ぶことです。イエスを信じて、これからの人生をクリスチャンとして生きていくという決断をすることであって、頭でなっとくすることではありません。
 続いて主は31節でこう言われました。「南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」ここで、主は、しるしにはさばきが伴うことを教えておられます。ソロモンはダビデの子どもでイスラエルの絶頂期の王様でした。彼は、当時、世界一裕福で、世界一の知識を持った人物でした。Ⅰ列王記の4章を見ると、彼の知恵はイスラエル東西の国々のすべての知恵に勝っていて、3000のことわざ、1000を超える歌を作り、世界一の植物学者であり動物学者でした。(29~33節)その評判は世界中に広まっていましたので、世界中からソロモンの知恵を聞くために人々がエルサレムにやって来ました。その一人が南の国の女王で、彼女はソロモンの知恵を試そうとしてエルサレムにやって来ました。彼女はたくさんの難問をソロモンにぶつけましたが、ソロモンはすべての質問を見事に解き明かすことができました。主イエスは、南の国の女王の物語をとおして何を彼らに言おうとされたのでしょうか。主はご自分のことを「ここにソロモンよりまさった者がいます。」と言われました。主イエスは、全知全能の神です。主イエスの知恵はソロモンよりもはるかに勝っています。聖書の神を信じたシェバの女王は、今、天国にいます。そして、彼女は、イエスを信じようとしない人々を神とともに裁くのです。ソロモンは、知恵において、主イエスよりもはるかに劣っています。しかし、南の国の女王は異邦人でありながら、ソロモンの言葉を聞きたいと思って、自分の王宮を離れて、大きな危険を冒して、エルサレムに来たのです。今、イエスの前にユダヤ教の指導者たちがいます。彼らは神の御子イエスの口から直接神の教えを何度も聞いたのにイエスを信ぜず、また、イエスの奇跡の働きを見ても、それを認めず悪霊の働きだと言いました。だから、さばきの日には、異邦人であるニネベの住民やシェバの女王が、神様と一緒に不信仰なユダヤ人を裁くのです。

(2)あなたの心の目は明るいか?(33-36節)
 続いて、主イエスは、自分の教えを聞いているすべての人に向かって一つの例えを話されました。それは、イエスの言葉を聞くすべての人が、イエスの教えを聞きイエスの働きを見る時に、心を閉ざさないように努力しなければならないことを教えるためでした。それは、ユダヤ教の指導者たちと同じように、み言葉を聞いても、イエスのしるしを見ても、自分で信じないと決めてしまう人が多いからです。33節を読みましょう。「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」ここで主イエスは、自分の教えをランプの光に例えています。ランプをつけると、できるだけ多くの人に光が届くように、ランプを置きます。イエスの教えも、ランプと同じように、隠すためにあるのではなく、多くの人々に届けられるためにあります。イエスは言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」これはヨハネ福音書8章で語られた言葉ですが、この時、主イエスはエルサレムの神殿の献金箱の前に立っておられました。そこは、たえずロウソクがつけられていて光が輝いていました。それは、旧約聖書の時代に、神様ご自身が燃える火の柱でイスラエルの民を導き守られたという出来事を思い出すためのものでした。火の柱は、神ご自身を表すもので、神の民を守り導いたのですが、それと同じように、主イエスは、光として私たちを守り導いてくださるのです。ランプをつけたら隠すのではなく、誰にでも見える場所に置きます。私たちは、自分の生活の中で、主イエスをどこに置いているでしょうか。
 次に、主イエスはからだの目について語ります。主は「からだの明かりは目である」と言われました。しかし、目はランプと違って光を作りだすことはできません。では、なぜ目が体の明かりなのでしょうか。目は、ちょうど、部屋の窓のように、外の光を体の中に取り入れます。ここで、主イエスは、私たちの霊的な目、信仰の目について語っておられます。それは部屋の窓ガラスと同じで、きれいに掃除がしてあるとたくさんの光を取り入れますが、掃除しないで泥だらかになっていたり、雨戸が閉められていると、光は十分に入りません。光である主イエスの言葉や、働きは、私たちの信仰の目を通して、私たちの心の中に入ってきて、イエスの教えやしるしを理解し、それに応答する力を与えてくれます。しかし、目が悪くて、イエスの教えが心に届かず、イエスのしるしを見ても、その意味が分からず、ユダヤ教の指導者たちのように、イエスを信じることなく、何を聞いても何を見ても、イエスを受け入れることができなくなってしまいます。34節で、主が「目が健全なら、あなたの全身も明るい」と言われましたが、「健全」と訳されている言葉は、「single」という言葉です。私たちの信仰の目がシングル、つまり一つのものだけ、神様だけを見ているなら、私たちの全身は明るいのです。しかし、私たちの信仰の目、心の目が、神様だけでなく、この世のいろいろなことをも見ているならば、私たちの霊的な部分に十分な光が届かず、霊的な栄養失調に陥ってしまいます。パウロはコロサイ教会への手紙の中で次のように述べています。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」あなたの心の目は健全ですか。シンプルに、一つのものだけを見ているでしょうか。目が健全であれば、生活全体が明るくなります。
 35節で主は言われました。「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」「気をつけなさい」という命令です。主が私たちに命令されるということは、私たちはそのことができるということです。全知の神は、私たちにまったく不可能なことを命令することはありません。私たちはどのようにして、自分のうちの信仰の光が暗くならないように気をつけることができるのでしょうか。ガラスは汚れがついたらすぐに汚れをとらないと、だんだん汚れを落とすことが難しくなります。お風呂場の鏡は、放っておくと汚れがついて見えにくくなります。それと同じように、私たちは、いつも、自分の心の中に罪が入り込んでいないか点検することが必要です。パリサイ人たちがイエスの光が見えなかったのは、彼らの霊的な目が汚れていたからです。そのために、私たちは常に神様に祈って、私たちの状態を点検してもらうことが必要です。また、聖書の言葉を読むことによって、その言葉と自分の生活を比べて自分の本当の姿を見ることが必要なのです。
 ヨハネの福音書の9章で、生まれつき目が見えなかった人がイエスによって癒されて、目が見えるようになりました。素晴らしい奇跡が起こりました。しかし、ユダヤ教のリーダーたちは、そのような奇跡を見ても、イエスを神と信じようとしませんでした。そんな彼らに主は言われました。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」彼らは、肉体的に目が見えていました。しかし、彼らは世の光である主イエスの言葉を信じようとしないために、霊的な目が盲目になってしまいました。彼らは、自分たちはユダヤ教の専門家であるから目が見えると思い込んでいたために、本当は見えていないことに気づいていませんでした。だから、彼らの罪は残ると主は言われたのです。あなたの心の目は、本当に必要なものが見えているでしょうか。

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