2017年9月10日『内部の問題を片付ける』(ネヘミヤ5:1-13) | 説教      

2017年9月10日『内部の問題を片付ける』(ネヘミヤ5:1-13)

 ネヘミヤのリーダーシップによって始まったエルサレムの城壁の再建工事は、神様の栄光のためにという一つの目標に向かって、全員にやる気があったので、工事は順調にすすみ、城壁は半分の高さまで完成しました。しかし、このような大きなプロジェクトを行う時には、いろいろな問題が起きることが多いです。ネヘミヤの場合は、周囲の国がこの工事に反対しており、何とか工事をストップさせようとしました。しかし、神様が計画されたことを人間が完全に妨害することはできません。彼らはいろいろな方法でネヘミヤとユダの人々を襲いましたが、4章15節に「 私たちの敵が、彼らのたくらみは私たちに悟られ、神がそれを打ちこわされたということを聞いた」と記されているように、神様ご自身が彼らの陰謀を打ち交わされました。その後、工事を行っているユダの人々が、工事の疲れから、工事の大きさを見て心がなえてしまったのと、敵の攻撃を見て恐怖心に襲われたことによって、工事を続ける気力を失ってしまいました。このような問題が起こるたびに、ネヘミヤはまず神に祈り、神の助けと導きを求めました。私たちも、信仰生活の中で、困難を経験する時、心が折れそうになることもありますが、そのような時こそ、神に祈り、聖書に記された神の力と神の約束を信じる信仰を持たなければなりません。

(1)経済的な苦しみを持つ人々の叫び(1-5)
 エルサレムの城壁を修復する工事は、ネヘミヤの指導のもとに続けられていましたが、5章に入ると、またまた、ユダヤ人内部で大きな問題が起こりました。それは人間の心に潜む自己中心の罪と深くかかわるものでした。聖書は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」と教えていますが、当時のユダヤ人の間には、それとはまったく反対の状況が起こっていました。ネヘミヤは、エルサレムの城壁を修復するために、ペルシャ国王の側近という立場を捨てて、エルサレムに来ていましたが、エルサレムに来るときのペルシャ王から「ユダヤ地区の総督」という役職をもらっていました。当時、ユダヤはペルシャ王の支配を受けていましたので、彼はユダヤで一番大きな権威と責任を持つ人物でした。そのため、彼の働きの中心は壁の修復工事ですが、時がたつにつれて、ユダヤの人々は彼を最も地位の高い政治家と見るようになり、何か問題が起きると、彼のところに訴えに来るようになりました。5章の1節から5節に、経済の苦しみにあえぐ民たちが次から次へと彼に訴えています。彼らは、みな、苦しい生活を強いられていました。そのきっかけとなったのが、3節に記された「このききんに際し」とある「ききん」であったことがわかります。当時、異常気象などでききんが起きると、非常に大きな被害をもたらしました。そのために、多くの人が自分の財産をなくし、畑を奪われて、借金をすることでがんじがらめになりました。1節に「ときに、民とその妻たちは、その同胞のユダヤ人たちに対して強い抗議の声をあげた」と記されています。普通は、役人に訴えに来るのは男ですが、妻も一緒に来ていることから、問題が非常に深刻であることが分かります。これにはいろいろな理由が考えられます。壁の修復工事をする人が集まっていたので、エルサレム地区の人口が急に増えていました。また、多くの人が工事にかかわっていたので、畑をする人の数は減っていました。
 彼らは周囲の敵について文句を言っているのではなく、同胞のユダヤ人たちに対して怒っていました。このころのエルサレム地区に住んでいる人々の状況は様々で、裕福な人たちと貧しい人たちに分かれていました。裕福な人は、バビロンで生活している間に金儲けをして裕福になった人々もいましたし、バビロンから早い段階でエルサレムに戻って来た人々の中には、エルサレムで商売をして儲けた人たちもいました。しかし、大部分の人々はかなり貧しい生活に苦しんでいました。そんな中で、ききんが起きたため、貧しい人々は本当に苦しい状況に陥っていました。そこに付け込んだのが裕福なユダヤ人たちだったのです。

 2節から4節まで、4つのグループの人々がネヘミヤに苦しみを訴えています。2節、「私たちには息子や娘が大ぜいいる。私たちは、食べて生きるために、穀物を手に入れなければならない。」おそらくこの人々は、自分の土地を持っておらず、家族を養っていくための食べ物がなくなっていて空腹に苦しんでいました。3節の人々は、「このききんに際し、穀物を手に入れるために、私たちの畑も、ぶどう畑も、家も抵当に入れなければならない。」と言っています。彼らは土地を持ってたのですが、自分のところでは作物が取れず、食べ物を手に入れるために自分の土地を抵当に入れなければなりませんでした。飢饉で食べ物が少ないですから、値段はべらぼうに高くなっていたはずです。需要と供給のバランスが崩れると、値段は大きく動きます。また、こういう時に、人間の欲深さがはっきりと表れます。私の兄は阪神大震災の時に神戸に住んでいたのですが、地震の日の午後にはどの店も商品がすっかりなくなっていました。電気もガスも不通になっていたのですが、その時、道端で誰かがカセットコンロ用のボンベを売っていたのですが、その値段が1本5000円だったといって非常に怒っていました。欲深い人間は、人の弱みに付け込んで金を儲けようとするのです。この人々も、そのような強欲なユダヤ人のせいで、田畑や家を手放していたのです。4節では人々が税金について文句を言っています。「私たちは、王に支払う税金のために、私たちの畑とぶどう畑をかたにして、金を借りなければならなかった。」当時、ユダヤを支配していたペルシャ王アルタシャスタは、支配地域に住む人々にかなり重い税金を支払わせていました。後に、アレキサンダー大王がペルシャを打ち破った後に、スシャンにあったペルシャ王の宮殿に行った時、金貨270トン、銀貨1200トンを発見したそうで、これは今日の金額では8兆円に相当するそうです。今は、集めた税金は住民のためのいろいろなサービスに使われますが、この時の税金はただペルシャ王が使うために集められていました。
 しかも、この税金を払うために、人々は仲間のユダヤ人からお金を借りていましたが、借金の返済ができない時には、自分たちの畑を売ったり、自分たちの子どもを奴隷として売ったりしなければなりませんでした。旧約聖書の教えでは、人にお金を貸すことは認められていました。ただし、外国人に貸す場合は利息をとっても良かったのですが、同胞のユダヤ人から利息を取ることは禁止されていました。また、お金を貸した時に受け取った担保は、貧しい人の場合、夜寝る前にはその担保を借りた人に返すように命じられていました。聖書の考えでは、もともと、人間も土地も、すべてのものは神様のもので、人間はそれを委託されているだけなのです。人間が、神様のものである人間やものを使って自分の利益だけを増やそうとすることは神の教えに反するものでした。そのため、聖書の律法には「ヨベルの年」という年が設定されていました。これは50年に一度ですが、売買された土地は元の持ち主に無償で返すように決められており、貧しい家庭が仕方なく売った子供たちもその年には解放されました。これは、彼らの世界を神様が作られた時の状況に戻すことによって、金持ちだけが金持ちになり貧しい人々がもっと貧しくなるのを防ごうとするものでした。このように、旧約聖書の律法は弱い人や貧しい人々のことを十分に配慮していたのですが、一部のユダヤ人は、その律法を無視して、仲間のユダヤ人からいろいろなものを奪い取ってますます裕福になっていたのです。新約聖書にも、「金銭を愛することはあらゆる悪の根である。」と書かれていますが、貪欲というのは人間の罪の性質の中心にあるものだと思います。

(2)ネヘミヤの怒りと大集会
 ネヘミヤは、エルサレムの壁を修復するためにペルシャからエルサレムに来て、工事の完成のために毎日忙しくしていました。また、まだエルサレムに来て日が浅かったために、ユダヤ人社会で、これらの人々が訴えるようなひどいことが行われていることを知らなかったと思います。民たちの訴えを聞いたネヘミヤは激しく怒りました。しかし、それは単なる感情的な怒りではなく、神の民として、神の教えに背く人々の生き方に対する怒りでした。ですから、彼はすぐに反応せずに、7節に書かれているように、彼は十分に考えました。「十分に考える」と訳されている部分は、もともとのヘブル語では、「王様になる」とか「王として支配する」という意味を持っています。ネヘミヤは強い怒りを感じましたが、彼は自分の心を、王様が民を支配するように、支配しました。つまり、冷静な心を持ち続けたという意味です。それから、彼はこの問題を解決するために、大きな集会を開きました。
 集会の中でネヘミヤは、貧しいユダヤ人を苦しめていた裕福なユダヤ人を厳しく非難しました。旧約聖書は貧しいユダヤ人を助けるために、利息をつけて金を貸すことを禁じたり、金を貸して担保を取っていても、夜にはそれを返すようにと命じていますが、この時のユダヤ人は貸した金を返せない人から、畑を奪い、さらに子どもたちを取り上げて奴隷として売っていました。自分たちが儲けるために、仲間のユダヤ人を苦しめていました。8節でネヘミヤはこう言いました。「私たちは、異邦人に売られた私たちの兄弟、ユダヤ人を、できるかぎり買い取った。それなのに、あなたがたはまた、自分の兄弟たちを売ろうとしている。私たちが彼らを買わなければならないのだ。」この言葉から、ネヘミヤやリーダーたちはバビロンで捕らえられていた仲間を救い出すために、金を支払っていたことが分かります。そのようにして、ネヘミヤたちは、ユダヤ人たちを外国人の奴隷の状態から解放していたのですが、エルサレムの金持ちたちは、自分の仲間であるユダヤ人のこどもを奴隷として売っていたのです。そのことが、ネヘミヤが一つにまとめようとしていたユダヤ人社会を引き裂くことになっていました。それで、ネヘミヤは彼らに貧しい人々から取り上げた畑や、貸したお金の利子として奪っていた穀物や油を返すように命じました。聖書の教えは、この世の教えとは違うのです。自分の利益を得ることよりも、互いに助け合うことのほうが重要だと聖書は教えています。主イエスを信じる者たちの最初の教会がエルサレムに生まれた時、人々は、それぞれが自分が持っているものを出し合って、みんなで分け合っていました。そのようにして、互いに助け合っていました。これこそ、神様が願っておられる人間社会の姿でした。それとはまったく反対のことを行っていたためにネヘミヤから厳しい追及を受けた金持ちたちは、悔い改めて、ネヘミヤの言葉に従うことを約束しました。

 大集会は三つのことによって幕を閉じました。第一に、ネヘミヤは着物の裾を振るいました。それは、裕福なユダヤ人たちが、約束したことを守らなかった時には、その人が神の家族からふるい落とされることを示すシンボルでした。第二に民全体が「アーメン」と言いました。これは、大集会でネヘミヤが語ったことに賛成するという意味のアーメンで、非常に厳粛なアーメンでした。そして、最後に皆で、神をほめたたえました。神が建てたリーダーであるネヘミヤが問題を正しく解決したことを見て、この問題の背後におられる神様に感謝をささげ、新しい思いで神様に従おうとする決意を表しています。すると、13節の最後に、民はこの約束を実行したと書かれていますので、不正なことを行っていた人々もすべて、神とネヘミヤの前で誓ったことをきちんと行ったことが分かります。私たちクリスチャンも、実は当時奴隷になっていたユダヤ人のように、主イエスによって救い出された者です。イエスを信じる前は、すべての人は自分の罪の奴隷となって、自分の欲望に支配されて生きていました。その私たちを救い出すために、主イエスは、お金ではなく、十字架の上で自分の命を差し出して、その命と交換に私たちを罪から救い出してくださいました。これを「あがない」というのですが、そのことを忘れないで、私たちもお互いに、神様によって救い出された者として、むさぼり合うのではなく、助け合う教会でありたいと思います。

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