2017年10月15日 『貪欲に気をつけなさい』(ルカ12章13~21節) | 説教      

2017年10月15日 『貪欲に気をつけなさい』(ルカ12章13~21節)

 今、ルカの福音書12章を読んでいますが、そこにはイエスが大勢の群衆に教えておられる様子が描かれています。大勢の群衆の大部分の人はイエスから教えを聞きたいという純粋な気持ちで集まっていましたが、中にはイエスの働きを止めさせたい、妨害したいという気持ちで近づている人々もいました。主イエスは、当然、そのような人がいることを知っていましたので、弟子たちや人々に、間違った宗教や間違った生き方に対して注意するようにと教えておられました。それは、信仰者としての生き方の根本にかかわる大切な問題でした。先週の最後のところでは、聖霊が働く時に、いつまでもその働きを拒み続けてはいけないことを教えられたのですが、そのような大切な信仰の教えを主イエスが語っておられた時に、突然、群衆の中から一人の人が、イエスの言葉を遮るような感じで大きな声でイエスに向かって話しかけました。「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」この人は、今までの主イエスの教えにまったく関係のない、自分と兄弟との遺産相続のトラブルについて話しています。彼にとって、主イエスの教えなんかどうでも良かったのです。早く説教を終わってくれと心の中で思っていたので、イエスの教えなど全然聞いていません。イエスの教えが終わらないので、彼は我慢できなくなって、イエスに向かって大きな声で叫びました。当時、ユダヤ教の教師は、いろいろなところへ出かけていって人々を教えたり、人々のもめごとを仲裁するような働きをしていました。この人はイエスをそのようなユダヤ教の教師の一人だと思ったのでしょう。ですから、イエスをユダヤ教の教師だと考えていたならば、このように声をかけるのも理解できないわけではありません。しかし、彼がイエスに頼んだのは、自分と兄弟の間でトラブルが起きている中で、どちらが正しいのかをきめてもらいた思っていからではありません。とにかく、自分の願っているように、自分に有利になるように自分の兄弟に働いかけてほしいと、非常に自己中心なお願いをしているのです。「私の兄弟に話してください。」と彼は言っていますから、彼の兄弟もその場にいたのでしょう。
 主イエスからすると、この男の行動は非常に失礼なものですし、働きの妨げです。この時、主イエスは、すでに十字架に向かって緊張した面持ちでエルサレムを目指していました。弟子たちや、人々にどうしても伝えておかなければならないことを一生懸命話しておられたのです。そんなことまったく無視して、この人は自分の願いを持ち出したのです。イエスは彼に言いました。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」イエスは、彼の願っている問題の解決に関わることはしませんでした。この問題は二人の貪欲な人間の間の問題なので、イエスが何をしても二人を満足させることはできないことは明らかです。二人の人間は、親が残した遺産をどのように分けるのか、そこに問題があると思っていましたが、彼らの本当の問題は、お金に対する執着だったのです。聖書は、お金自体が悪いとは言っていませんが、金銭を愛することがあらゆる悪の根であると教えています。お金自体は問題がなくても、私たちが必要以上にお金に執着する心を持ったり、神様以上に金銭を大事に考えるようになると、自分自身がお金や金銭欲に支配されるようになってしまいます。これが罪なのです。
 イエスの弟子ヨハネは、その状態をこの世を愛する生き方と呼びました。第1ヨハネの2章15,16節に次のように書かれています。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」貪欲は、世を愛する生き方の一つですが、ヨハネはこの世的な生活の特徴を3つ挙げています。「肉の欲」「目の欲」「暮らし向きの自慢」口語訳では3番目を「持ち物の誇り」と記しています。この世の大部分の人々はそのような生き方をしています。これこそ、神よりもこの世を愛する人の姿です。それが罪そのものなのです。人類で最初の罪を犯したエバも、この3つの誘惑に流されて、神のおきてを破ってしまいました。エデンの園には一つだけ食べてはならない果物がありました。しかし、悪魔はエバに「このフルーツを食べると神のように賢くなる」と誘惑されました。誘惑されたエバはその果物を見ました。創世記の3章6節によると「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」のです。食べるのにおいしそうという肉の欲、目に慕わしいという目の欲、そして賢くするというフルーツを持つことの誇り、これに支配されて罪を犯してしまったのです。多くの人はこの世を愛するために、正しい判断ができなくなってしまうのです。 
 本当の話ではないと思いますが、こんな話があります。ある金持ちの若者が自慢のベンツを運転していました。ところがカーブでスピードを出しすぎて道から飛び出しがけ下に転落しました。彼はすばやくシートベルトを外してドアから飛び出しましたが、その時に腕がドアにはさまれて、腕が切断してしまいました。後ろを走っていて事故を目撃したトラックの運転手が、トラックを止めてけがをした若者に近づきました。若者は叫んでいました。「僕のベンツが、僕の新車のベンツが」トラックの運転手がその若者に叫びました。「車なんかどうでもいいじゃないか。お前は腕を失ったんだ。早く腕を見つけないと。手術すれば繋げられるかもしれないだろう。」すると、その若者は左腕がなくなっていることに気づいて叫びました。「僕のローレックスが!買ったばかりのローレックスが!」

(2)愚かな金持ちのたとえ
 この男の言葉をきっかけにして、主イエスは集まった人々に言われました。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」そしてひとつのたとえ話を話されました。16節から20節まで読みましょう。ある金持ちの農夫がいて、ある時、非常な豊作に恵まれました。農夫が金持ちであることも、豊作であったことも、悪いことではなく喜ばしいことです。豊作になったという結果があるのは、この農夫が一生懸命働いたからであることも明らかです。彼は勤勉に働きました。このたとえ話は「愚かな金持ち」と呼ばれることが多いのですが、なぜ、この男が愚かな金持ちと呼ばれたのでしょうか。詩篇14篇の1節に「愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。」と書かれていますが、この男は、財産に恵まれていたために、自分には神は必要ではないと思っていたようです。農業は、天候に左右されるために、多くの農夫は良い収穫になるように良い天候が与えられるように神に祈ります。また、良い収穫に恵まれた時には、神の助けがあったと思って神に感謝をささげることがい多いです。しかし、この男にはそのような考えはまったくなく、すべては自分の努力の結果だと信じていました。18節で、獲れすぎた穀物をどうするかとあれこれ考えています。日本語ではあまり分かりませんが、原語の通りに訳すと、「私は私の倉を取りこわして、私はもっと大きいのを建て、私は、私の穀物や財産はみなそこにしまっておこう。」となります。何度も何度も、「私は」とか「私の」という言葉が使われているのです。このことからも、この農夫は、自分の人生はすべて自分が支配できる、自分の好きなように生きることができると考えていたことが分かります。それで、これからの人生の計画として、彼は「「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と自分に語りかけました。彼の人生には神がいませんので、自分の財産をどのように使うべきか、その点でも愚かになっています。もちろん、人生は楽しんでもかまいませんが、ただ食べて、飲んで、楽しむだけでは、まず、健康を害してしまいます。食べ過ぎると、コレステロールや血糖値が上がって病気になります。アルコールも、先日テレビでやっていましたが、一日ビールコップ2杯以上を飲むと確実に寿命を短くするそうです。人間は、神を信じていないと、人生の計画が愚かなものになってしまいます。しかし、何よりも愚かなのは、この農夫は自分の永遠に対する備えをしていなかったことです。私たちのいのちはいつか必ず終わりが来るのですが、大部分の人は、いのちはいつまでもあるかのような生活をしています。神様は彼に、「今夜おまえのいのちは取り去られる」と言いました。彼は、新しい倉を建ててそこに財産をしまうという計画を立てていたのですが、自分のいのちの終わりに備えた計画を立てていませんでした。どんなに財産があったとしても、永遠のいのちを買うことはできません。地上の人生は80年か長くて90年、必ず終わりが来ます。そして、その時には、自分が一生をかけて積み上げた財産はすべてこの世に残していかなければならず、それは誰か他の人のものになります。私たちは、この農夫が、自分の財産を使う前に死んでしまって、多くの財産をこの世に残していったことをかわいそうにと考えがちですが、それよりももっと悲しいことは、彼が死んだ後の準備をしていなかったために、永遠の滅びに陥ってしまったことなのです。
 愚かな農夫は「神の前に富まない者」と言われましたが、神の前に富むとはどういう意味でしょうか。それは、私たちが持ってるものはすべて神様の恵みによって与えられたことを忘れないで、自分に与えられたものを神様のみこころに従って用いることではないでしょうか。十分の一の献金はもちろんですが、それ以外のものも、神様が喜ぶような使い方をすることを目指さなければなりません。その時、私たちはお金や金銭欲の奴隷になることなく、神様から与えられたものを喜び感謝する生き方ができるのです。

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