2018年3月4日 『主イエスが建てる教会』(マタイ16章13~20節) | 説教      

2018年3月4日 『主イエスが建てる教会』(マタイ16章13~20節)

 私たちの信仰は宗教としては「キリスト教」と呼ばれていますので、当然その中心はイエス・キリストです。イエス・キリストを知るためには、このイエスが誰であるのか、またイエスは何をしたのかを知ることが必要ですが、その2つのことがマタイの福音書の16章で初めて明らかにされているので、この章は聖書全体の中でも非常に重要な章と言えます。主イエスは、このことを弟子たちに教えるために、大勢の群衆がいるガリラヤ地方を立ち去って、さらに北のピリポ・カイザリアという地方に行かれました。そこは外国人も住んでいる地域で、いろいろな宗教がありました。バッカスというお酒の神の神殿やバアルという神の神殿があり、また、ヘロデ大王はローマ皇帝アウグストを祭る神殿を建てていました。
 そのような場所で、主イエスは弟子たちに質問をされました。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」すると、彼らは、「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。また他の人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」と答えました。ここには3人の人物が挙げられていますが、バプテスマのヨハネは、主イエスが救い主として来られる準備をするための預言者でした。しかし、彼は、当時のガリラヤ地方の支配者であったヘロデ・アンテパスの過ちを非難すると、ヘロデに殺されてしまいました。ただ、そのことを後悔していたヘロデは、イエスのことを聞いて自分が殺したヨハネが生き返ったのではないかと恐れていました。エリヤは旧約聖書の時代に活躍した預言者ですが、マラキ書という預言書に、神様が「大いなる裁きの日の前に預言者エリヤを遣わす」と書かれているので、イエスを預言者エリヤの再来と考えた人もいました。また、エレミヤという人もいましたが、これは聖書には書かれていないのですが、ユダヤ人の言い伝えとして、エルサレムがバビロンによって滅ぼされた時に、その時の預言者エレミヤが神殿の中にあった契約の箱を密かに隠していて、いつの日かエレミヤが神殿を回復するという話が信じられていました。人々は、イエスの教えを聞き、その働きを見て、イエスをそのように考えていましたが、イエスを旧約聖書が預言していた救い主メシヤだとは考えていませんでした。バプテスマのヨハネは、人々の悔い改めの洗礼を授けながら、自分の後に来る方こそ救い主だと宣べ伝えていたのですが、イエスを救い主だと信じる人は少なかったようです。
 続いて主イエスは弟子たちに尋ねられました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ここで大切なことは、他の人がイエスを何と言っているのかは重要ではないと言うことであり、私自身がイエスを誰だと言うのかが大事であるということです。多くの人々は、聖書を読まないで、クリスチャンではない人が書いた本を読んで、その意見をうのみにしてあれこれ聖書を批判します。それではイエスが誰であるかを本当に知ることはできません。聖書を通してでなければイエスを知ることはできないのです。私たちも、一人一人、自分がイエスを誰だと言うのか、それを考えてみたいと思います。

(1)ペテロの信仰告白
 主イエスの質問に対して、いつものようにペテロが他の弟子を代表して答えました。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」非常に短い言葉ですが、非常に大切な信仰告白です。ギリシャ語では順番が逆で、あなたは、キリストです。生ける神の御子です。」となっていて10の単語で述べられています。しかも、その中の4つが英語のtheに当たる言葉です。ここでは、このtheという言葉は、他にはいないただ一人のという意味が込められています。キリストというギリシャ語の言葉はヘブル語の「メシヤ」という言葉を翻訳したもので、「旧約聖書が予言していた約束の救い主」という意味を持っています。旧約聖書は、ダビデ王の子孫から、この世界を永遠に支配する者が現れると約束していました。また、「生ける神の子」とは、キリストが預言者でも聖人でもなく、はっきりと神であると宣言している重要な信仰告白です。この信仰告白は、ペテロが感情的に燃え上がって口にした言葉ではありませんでした。よく、ペテロは、思い付きでいろいろな言葉を言って、主イエスからひんしゅくを受けることがあったのですが、この時は違いました。それを主イエスが証言しておられます。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」つまり、この告白は、ペテロが自分の頭で一生懸命に考えて出した結論ではなく、神様がペテロにそのことを特別な方法で知らせてくださったものだったのです。この信仰告白は、一人一人のクリスチャンが行うべき信仰告白です。イエスは、優れた教師でもなく、思想家でもありません。神ご自身です。人間ではありません。

(2)この岩の上に私の教会を建てる
 ペテロの信仰告白を聞いて、イエスは次のように言いました。「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」イエスはこの時「あなたはペテロです」と言われました。彼の本名はシモンですが、主が彼を自分の弟子となるように呼び出した時に、彼を「ペテロ」と呼ぶことにすると言われました。(ヨハネ1:42)シモンという名前はヘブル語の名前なのですが、主イエスは弟子となった彼にギリシャ語で「ぺテロ」へブル語では「ケパ」というニックネームを与えられました。そのニックネームは「小さな石」という意味を持っていました。続いて、主が「この岩の上に」と言われた時は「ペトラ」というよく似ているけれども違う言葉を使われました。ペトラは小さな石ではなく、大きな岩を意味します。ですから、ここで、主イエスが言われた言葉の意味は、「ペテロ、あなたは小さな石にすぎないが、私は、大きな岩であり、私自身の上に私の教会を建てる。」という意味だと思います。旧約聖書にも、救い主が岩であるという預言が書かれています。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」(イザヤ28章16節)主イエスご自身が、自分のことを指す言葉として、このイザヤ書の言葉を引用しておられますし、パウロも教会の土台はキリストであると述べています。(1コリント3:11)これらのことを読むと、聖書全体が、教会の土台がイエス・キリストであると教えているように思います。
 主イエスは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。「教会」という言葉がここで初めて聖書の中で使われています。ギリシャ語で「エクレシア」というのですが、「呼び出された人々」という意味を持っています。教会という言葉には、例えば、北本福音キリスト教会のように、世界各地にある共に集まって神を礼拝しているクリスチャンの群れとしての地域の教会を意味する場合と、もう一つ、世界全体のクリスチャンの群れ全体を意味する場合がありますが、ここでは、世界全体のクリスチャンの群れを指しているように思います。主イエスは、一つ一つの教会を建てるというよりも、この世界に、ペテロと同じ信仰を持ってイエスキリストを礼拝するクリスチャンの群れ全体を建て上げることを意味していると思われるからです。もともとエクレシアという言葉は、ギリシャの社会のさまざまな集いを表す言葉でしたが、主イエスは、ここで、わたしのエクレシアを建てると言われました。教会は、キリストの体であり、キリストを土台にした集りであり、ユダヤ人と異邦人の区別もなく、ガラテヤ人への手紙の言葉を借りれば、「奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(3:28)教会とはそのような集まりです。キリストが、教会を建て上げてくださる方であり、同時に、キリストが教会の土台であり、また、教会のかしらでもあります。ペテロは、自分が書いた手紙の中で、クリスチャン一人一人は、その教会を建て上げている一つ一つの石だと述べています。私たちクリスチャンは、北本福音キリスト教会という一つの地域教会に集まって神を礼拝していますが、同時に、キリストによって建てられた全世界のクリスチャンの群れである普遍教会の一員でもあるのです。国籍や言葉や民族が違っても、私たちは一つの神を礼拝し、一つの同じ信仰を持って神を信じています。私たちは、自分が属している地域教会のことだけを考えるのではなく、全世界のクリスチャンが属する普遍教会の一員であるということも忘れてはいけません。
 さらに、主イエスは、教会について、「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」と言われました。この言葉は何を意味するのでしょうか。ハデスとは、ヘブル語で死んだ人の魂が行く場所を意味しますが、ここでは、特にイエス・キリストを信じないで死んだ人々の行く場所を表しています。また、門は、当時の町を囲んでいた城壁に作られた門のことですが、聖書の中では「門」は権力や力のシンボルでした。門といっても、分厚い壁に作られていましたので、かなり広いスペースになっていて、そこでは裁判や集会が行われていました。ですから、ハデスの門とは、神に反対するサタンの勢力を意味すると思われます。サタンが教会や教会のメンバーを滅ぼうそうと攻撃してきても、主イエスが十字架と復活によって罪と死の力を滅ぼしてくださったので、キリストを信じる者をだれ一人滅ぼすことはできません。ルカの福音書22章によると、主イエスが十字架にかけられる時に、サタンがペテロの信仰を試す許可をイエスに求めて、それが許可されたと主イエスご自身が言っておられます。しかし、主は続けて言われました。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ペテロの信仰はキリストという岩の上に建てられていたので、主イエスの祈りと守りによって、一度は信仰の挫折を経験しましたが、主イエスの働きで信仰を回復し、その後は、初代教会のリーダーとしてその生涯を全うしました。私たちが、このキリストへの信仰を持っている限り、私たちが滅びることは決してないのです。

(3)神の王国のカギ
 19節で、主イエスは「わたしはあなたに天の御国のカギをあげます。」と言われました。ここで「天の御国」とは天国のことを言っているのではありません。誰も、地上の人間が天国までカギを持っていくことはできません。これらの天の御国のカギとは、人々をキリストに導く信仰のドアを開けるカギのことで、ペテロには多くの人をキリストに導く特権が与えられたことを意味します。事実、ペテロは、初めて聖霊が弟子たちに下ったペンテコステの時に、大勢のユダヤ人に向かってキリストについて大胆に説教をした結果、1日で3000人のユダヤ人がクリスチャンになりました。また、ペテロは、ユダヤ人の血が半分混ざっているサマリヤ人をもキリストに導く働きをしましたし(使徒8章)、パウロが異邦人のために宣教の働きをする前に、コルネリオという異邦人をキリストに導く働きもしています。しかし、この働きはペテロにとどまらず、他の弟子たちも同じ働きをしていますし、後にはパウロもその働きに加わりました。
 さらに19節でイエスは「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」と言われました。このことは、後にペテロだけでなく他の弟子たちにも言われましたが、人々を神様に結び付けたり解いたりする権威が与えられました。ただ、注意することは、動詞の使い方です。たとえば前半の「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており」の天においても「つながれている」と訳されているところは、難しい言葉ですが未来の完了形という形の動詞が使われています。ですから、もう少し詳しく訳すと、「あなたが地上でつなぐなら、天においては、すでにつながれているはずである。」というような意味になります。後半も同じです。これが意味することは、人間が決めたことを神様が従うと言うことではなく、神様が天において決められたことは何でも、人間が地上で従わなければならないということです。教会とは、人間が願うことを天において神様に行わせるのではなく、神様の御心を地上において従って行く集まりなのです。 
 最後に、主イエスは弟子たちに自分がキリストであることを誰にも言ってはならないと言われましたが、それは、特にユダヤ教の指導者たち、律法学者やパリサイ人たちが、まだ、そのメッージを受け入れる準備ができていなかったからです。ですから、弟子たちは、イエスの言葉を守って黙っていました。しかし、聖霊が下ったペンテコステの日にペテロは、大胆にイエスが約束の救い主であることを大胆に語り、それによって3000人の人がイエスを信じました。この日、初めて、地上にキリストの教会が誕生したのです。

2018年3月
« 1月   4月 »
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

CATEGORIES

  • 礼拝説教