2018年5月13日 『真理をあざ笑う人』(ルカ16章14-18節) | 説教      

2018年5月13日 『真理をあざ笑う人』(ルカ16章14-18節)

 先週の箇所は、主イエスが弟子たちに向かって、「不正を働く管理人」のたとえ話をとおして、彼らに将来に向けて、また永遠のいのちに向けて抜け目なく準備をすることの大切さを教えられました。さらに、小さなことに忠実に生きることによって、人々や神様からの信頼を得ることができて、より大きな働きや責任が委ねられることを教えられました。また、主イエスは、クリスチャンがお金と神との二人の主人に仕えることはできないことを教えられました。お金と神とは正反対の存在です。人が正直者であると同時に嘘つきであることは不可能なのと同様に、クリスチャンはこの世のお金を神のように礼拝することはできないことをはっきりと示されました。主イエスは、特に、弟子たちに向かってこれらの教えを話しておられたのですが、そこには、パリサイ人たちもまじって弟子たちと一緒にイエスの教えを聞いていました。パリサイ人たちは、旧約聖書の律法をできるだけ忠実に実行しようとする人々でしたが、とくに、きよめの儀式に関する律法を守ることにこだわりを持っていました。彼らが実行していた儀式を行わない人々を、彼らは「アム・ハ・アーレツ(地の民)」と呼んで軽蔑していました。彼らはプライドが高く、自分たちだけが旧約聖書の律法を正しく守っている人間だと思い込んでいましたので、神様のメッセージを理解できないでいました。
 主イエスキリストが神の子としての働きをはじめられた時、最初のメッセージは何であったのか、それは「時が満ち、神の国が近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)というメッセージでした。このメッセージはパリサイ人のためのメッセージでもあったのですが、彼らは、自分勝手な解釈をして、自分たちは正しい人間だから悔い改めは必要ないと思い込んでいました。そして、彼らは、主イエスを神から遣わされた救い主として受け入れませんでしたので、早い段階から、彼らはイエスを殺そうと考えていました。彼らは、ルカの福音書の16章1~13節で語られたイエスの教えを聞いていたのですが、イエスの教えを聞きながら、彼らはイエスをあざ笑っていました。今日の箇所も、クリスチャンにとって大切なメッセージです。私たちも、注意していないと、表面だけクリスチャンのようで、心の中はまったく違っているというパリサイ人のような信仰者になることもありうることを忘れてはいけないと思います。

 14節を読みましょう。「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。」イエスがこの時教えておられたのは、人は神と富との両方に仕えることはできないという教えでした。ルカはここにはっきりと記していますが、彼らはお金が好きな人々でした。彼らは、人々の目には宗教に熱心で、まじめな生き方をしている人々に見えていましたが、実際には、宗教家という立場を利用して、金を儲けることに熱心だったのです。ですから、主イエスが、神と富との両方に仕えることはできないと言った時に、彼らは自分たちのことを批判されていると思い、イエスの教えをあざ笑っていました。「あざ笑う」と訳されている言葉は、ルカの福音書の23章35節でも使われています。「 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」しかも、動詞のかたちは、彼らが一回あざ笑ったのではなく、イエスが話しておられる間、ずっとあざ笑っていたことを示しています。彼らは、ユダヤ教を人に教える立場の人間でありながら、神の教えをあざ笑っていたのです。旧約聖書の時代のイスラエルの民も、神の選ばれた民でありながら、何度も神に反抗し、神の教えを無視してきました。表面的には神を礼拝しているように見せていましたが、彼らの心は神の心から遠く離れていました。そのために、多くの預言者が、彼らのそのような姿勢を厳しく責めました。イザヤ書1章13-16節を読みましょう。イザヤの時代のイスラエルの民は、表面的には、神の教えに従って、いけにえをささげ、祭りを行い、安息日に集まっていました。しかし、それがむなしくも表面的なものだったので、神様は、彼らが宗教的なすべての行いを嫌い、耐えられないものと感じ、疲れ果てたと言っておられます。ただ、これは旧約時代のイスラエルの民だけに当てはまる言葉ではなく、今の私たちにも当てはまるのではないでしょうか。私たちは、神様に選ばれて、イエス・キリストの大きな犠牲によって、罪を赦されて神の民となっています。今、私たちは、救われた時と同じように、神様への感謝の心、神様を信じて生きることの喜びを持っているでしょうか。表面的な礼拝を捧げていないでしょうか。私たちは、いつも自分の信仰をチェックしていなければなりません。

 イエスの教えを聞いてあざ笑っていたパリサイ人たちに向かって、主イエスは言われました。(15節)「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」 パリサイ人たちの宗教は、外側を良く見せる宗教でした。彼らは神様に自分のすべてを捧げていると言いながら、本当は、彼らが求めていたのは人々から褒められることでした。イエスは彼らの心を見抜いておられたので、マタイの福音書に記された「山上の説教」においても彼らの生き方を厳しく批判されました。マタイ6章で、主イエスは偽善者の生活を厳しく批判しておられますが、これはパリサイ人たちのことを指しています。パリサイ人たちは、貧しい人々に施すこと、祈ること、断食することを大切な宗教活動と考えていました。それ自体は悪いことではありませんが、彼らがそれを行っていた動機が間違っていました。彼らは貧しい人々のことを本当に思いやって施しをしていたのではなく、自分が人々から賞賛を受けるためでした。祈りや断食も神様と本当に親しく交わるためではなく、自分が信仰深い人間であることを人々に示すためでした。ですから、彼らは貧しい人々に施しをする時に、主イエスの言葉によると、彼らはラッパを吹いていました。実際に彼らがラッパが吹いたかどうかは記録にありませんが、彼らは、貧しい人に施す時に、人々がそれに注目するように何かを行っていたようです。また、彼らが祈る時には、彼らは会堂の中や、人通りの多い四つ角に立って、人に見えるように祈りました。祈っている姿を人々に見せるためでした。また、断食している時には、彼らはわざとやつれた顔をして、いかにも自分は断食していますというような弱った姿を人々に見せていました。彼らの表の行いと、心の中はまったくかけ離れていたのです。それで、主イエスは、「施しをする時は人に知られないようにしなさい。祈る時は人の前で祈るのではなく奥まった部屋で神と一対一になって祈りなさい。そして、断食する時は、頭に油を塗って顔洗って人に断食していることを知られないようにしなさい。」と教えられたのです。15節で言われているように、神様は、私たちが何をしようと何を言おうと、私たちの心がどうなっているのか、そのすべてをご存知です。私たちも気を付けていないと、どこかで、神様のために生きるのではなく、人々から褒められることを願い求めて行動してしまう危険性があります。主は、そのような生き方を偽善者の生き方だ言われました。私たちは一度死ぬことと、死んだ後に神のさばきを受けることが定まっていると、聖書は教えています。すべての人は、神様の前に立って、自分がこれまで生きてきたことについて説明しなければなりません。神様の前では、記憶にありませんと言い逃れはできません。私たちは、自分の表面の行動と心の思いがいつも一致しているように気を付けなければなりません。

 主イエスは16節で次のような言葉を言われました。「 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています。」これはどういう意味でしょうか。ここで「律法と預言者」と言われているのは旧約聖書を意味します。旧約の時代、神様のメッセージは律法と預言者の言葉によって人々に伝えられていました。そして旧約聖書の中で最も大切なメッセージは、やがて時が満ちると救い主が来られるという約束のメッセージでした。バプテスマのヨハネは、旧約時代の最後の預言者として、自分の後に来る方こそ、約束の救い主だと預言していたのですが、彼が預言者として活動している時に、約束の救い主イエスが現れました。ですから、バプテスマのヨハネは、救い主について預言した最後の預言者であると同時に、その約束の救い主を最初に目撃した人物でもあります。この意味で、バプテスマのヨハネは旧約聖書の時代と新約聖書の時代との橋渡しをした特別な人物だと言えます。約束の救い主が現れて、すべてが変わりました。新しい時代、神様と新しい契約を結ぶ時代、すなわち新約の時代が始まったのです。救い主に関する最初の預言は、最初の人間アダムとエバが罪を犯して、神様の裁きを受けた時に与えられました。二人が神に逆らった結果、人間は神との交わりから引き離されてしましいましたが、その時、すでに神様は、人間と神の関係を修復するための救い主が来るという約束を二人に与えておられたのです。ですから、歴史の始まりの時からずっと待たれていた救い主の到来が、ここでようやく実現したことになります。イエスが救い主としての働きを初めて以来、多くの人がイエスを信じました
  しかし、パリサイ人たちは、主イエスの教えを聞いてあざ笑っていました。なぜ、多くの人はイエスを信じたのに、彼らはイエスから離れてあざ笑っていたのでしょうか。16節の言葉の。「だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています。」という言葉と関係があると思います。主イエスが「狭い門から入りなさい」という教えをされた時に、次のように言われました。「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」(ルカ13:24)おそらく、16節のイエスの言葉の意味は、「永遠のいのちに至る道に入りたいと思う人は、力づくで中に入らなければならない」という意味だと思います。つまり、主イエスを信じる信仰には、何となく教会に来ているだけでは入れないということです。救いに入るには自分のはっきりした決断と、実行力が必要です。それは、クリスチャンの人生が、世の中の人々の人生とまったく逆方向に進むので、決断しない限り、この世の流れに流されてしまうからです。救いの道はすべての人に開かれています。主イエスは、誰でも、疲れている人、重荷を負っている人は私のところに来なさいと、すべての人を招いておられます。しかし、この道には簡単には入れないのです。一番大きなネックになっているのが、悔い改めです。聖書は、私たちはこの世界ではどれほど立派な生き方をしているとしても、神の目には罪人であると教えています。そして、その結果、私たちは、死んだ後に裁きを受けなければなりません。自分が神の前に罪人であることを認めるには、プライドやメンツなどを捨てなければなりません。神様の前に自分を低くしなければなりません。だから、救いの道に入るのが簡単ではないのです。しかし、救いに入らなければ、私たちの魂は永遠の滅びに入ります。昨日、江藤政徳さんの納骨式を行いました。その時も話しましたが、クリスチャンは死んだら、肉体は朽ち果てますが、魂は神のもとに移されて、神と共に生きるようになります。そして、世の終わる時には、私たちの魂は、復活したイエスの体と同じ栄光の体を受けて、イエスと同じように復活するのです。これは聖書に繰り返し記されている約束です。真実の神様が私たちと結んでくださった約束だから信頼できます。そして、言い換えると、神様の言葉は真実ですから、主イエスを信じないと、永遠の滅びに行くことも確実なのです。神様の願いは、すべての人が永遠のいのちの道に入ることですが、そのためには、人は悔い改めなければなりません。パリサイ人たちは、自分で自分を正しいと決めこんでいましたので、悔い改めることなどまったく考えていません。彼らは、救いの門に入ろうとする気持ちがまったくありませんでした。
 
 主イエスが来たことによって新約聖書の時代が始まったのですが、だからと言って、旧約聖書の律法が捨て去られるわけではありません。主イエスご自身言われましたが、主イエスは律法を廃棄するために来られたのではなく成就するために来られたのです。旧約聖書の律法は大きく分けて3種類あります。第一は、律法の根本である十戒ですが、これは、私たちのモラルに関するものなので、モラル律法と呼ばれます。第二に、イスラエルの民が民として続いていくために必要な生活に関する律法があります。食事に関するものや結婚や土地の所有に関するもので社会律法と呼ばれます。第三は、宗教の儀式や祭りに関するもので、儀式律法と呼ばれます。主イエスが来られたことによって、まず儀式律法はなくなりました。主イエスの十字架と復活が信仰の中心になりましたので、いけにえを捧げたりお祭りに参加する必要がなくなったのです。社会律法には、今の私たちの生活にもプラスになるものもありますが、私たちはそれに縛られる必要はありません。ただ、モラル律法は今も私たちの生活の基盤となるべきものです。これは4000年も前に神様から与えられたものですが、殺してはならない、嘘を言ってはならない。姦淫してはならない、むさぼってはならないなどのモラルは今も昔も変わらないからです。聖書は、繰り返して、やがてこの天と地は滅びると教えています。科学の世界でも、ずいぶん先のことですが、太陽が燃え尽きることによって地球が滅びると考えられていますし、地球温暖化がこのまま進むといろいろな異常現象が起きて人類が滅びるかもしれません。主イエスは、世の終わりには戦争が増え、地震とききんがほうぼうで起きると言われました。そして、マタイ24章35節で「この天地は滅びます。しかし、わたしの言葉は決して滅びることがありません。」と言われました。主イエスの言葉は律法を完成させた方としての言葉です。この世はこれから数々の大きな変化や、異常な現象を見ることでしょう。しかし、聖書の教え、聖書の約束、これは永遠に変わることも消えることもありません。

 18節で離婚のことがモラル律法の一つの例として挙げられています。結婚や離婚に関する考え方は、人々の間でどんどん変わってきました。しかし、聖書の教えは古いと言われますが、決して変わりません。結婚は一生つづく関係として神様が与えてくださった素晴らしいものであるので、神が結び合わせたものを人が離してははならないというのが原則です。ところが、イエスの時代のパリサイ人たちは、律法、(申命記24章1節)を自分勝手に解釈して、些細なことでも妻に恥ずべきことがあると宣言すことによって意外と簡単に離婚することができるようにしていました。ですから、ここでのイエスの離婚に関する言葉は、パリサイ人たちの偽善を暴いているのです。

 聖書の言葉は真実です。私は、聖書の言葉をできる限り、自分勝手な解釈を加えないようにして、皆さんにお話ししています。聖書の生き方はこの世の生き方とは違います。そのために、この世の人々から馬鹿にされたり、あざ笑われたり、批判されることもあります。しかし、この世も、この世の考え方もいつか滅びるのです。しかし、聖書の言葉、主イエスの言葉は永遠に変わることがありません。消えることもありません。パリサイ人のようにイエスの教えをあざ笑うのではなく、この道に入ってほしいと願っています。不正を働いた管理人は、不正をしたことを主人に褒められたのではありません。自分の将来、人生の終わりに備えて必死になって準備したことが褒められたのです。あなたは、そのような準備ができているでしょうか。それとも、このパリサイ人のように、その教えを遠くから聞いてあざ笑っているでしょうか。

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