2018年6月17日 『世の終わりはいつ来るのか』(ルカ17章20-37節) | 説教      

2018年6月17日 『世の終わりはいつ来るのか』(ルカ17章20-37節)

 今日の箇所は、ユダヤ教のリーダーでありイエスに反対していたパリサイ人たちが主イエスに「神の国はいつ来るのか」という質問をしたことから始まっています。ルカの福音書には「神の国」という言葉が30回近く使われていますし、また、主イエスが神の御子としての働きを始められた時に言われたのが「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」という言葉でした。神の国、原語では「神の王国」とは何を意味するのか、基本的な定義としては、神の国とは、神に選ばれた神の民が、神が備えてくださった場所で、神の支配のもとで生きる状態を意味します。神様が、この世界を造られた時、最初の人間アダムとエバは、神様が備えてくださったエデンの園で、神の支配と守りの中で生きていましたが、彼らが神の命令を破って罪を犯したために、この神の国は壊れてしまいました。実は、旧約聖書も新約聖書も、この壊れた神の国がどのように回復するのか、そのことを教える書物と言うことができます。旧約聖書に記されたイスラエルの民の歴史も、神様が神の国の回復を実現するための一歩一歩の歩みでした。そして大きく前に進んだのが、今から2000年前に、神ご自身が人となってこの世に来てくださったことでした。主イエスが、神の働きを始めた時に、「時が満ちて、神の国は近くなった」と言われたのはそういう意味だったのです。「神の国は近くなった」と言われていますので、まだ、神の国は完全に回復したわけではありません。しかし、主イエスが神の国を私たちのために大きく近づけてくださいました。それは、主イエスの十字架によって私たちの罪が赦される道が開かれるからです。

(1)パリサイ人たちの質問(20-21節)
 今日の箇所は、主イエスが弟子たちに、世の終わりの時についての警告の言葉が記されていますが、そのきっかけになったのがパリサイ人たちからの質問でした。彼らはイエスに「神の国はいつ来るのか」と尋ねました。前回もお話しましたが、この出来事は、主イエスが十字架にかかられる少し前のことでした。主イエスが十字架にかかられたのは、ユダヤ教で最も大きな祭りである、過ぎ越しの祭りの時でした。過ぎ越しの祭りは、かつてモーセの時代に、エジプトで奴隷として苦しい生活を強いられていたイスラエルの民が、リーダーモーセに導かれてエジプトを無事に脱出したことを記念して祝われていました。イエスの時代、イスラエルは外国のローマ帝国の支配を受けて苦しんでいましたので、とりわけ、この祭りが近づくと、第二のモーセが現れて、ローマ帝国の支配から解放して、新しい王国が作られることへの強い期待が高まっていました。ですから、パリサイ人たちは、政治的な新しい神の国が作られることを期待していました。そして、彼らは、新しい神の国ができるためには特別なしるしや力ある業が起きるだろうと思い、自分たちがほかの人々よりも、そのしるしを見分けて、他の人よりも早く神の国が訪れることを、知りたいという思いが含まれていました。しかし、神様のご計画は、彼らの期待とは違っていました。主イエスが「神の国が近づいた」と宣教活動を始められた時に言われたように、神の国とは、パリサイ人たちが考えていたような地上のある地域でイスラエル民族が、かってのダビデの時のような大きな国のことではなく、キリストご自身が神の国でした。おかしなことですが、パリサイ人たちは、神の国そのものであられる主イエスに、「神の国はいつ来るのか」と尋ねているのです。それに対して、主イエスは次のように答えられました。「「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」旧約聖書の時代は、神の国、神の支配を人々が感じたのは、エデンの園や、約束の国イスラエルや、エルサレムの町やその中にある神殿など、地理的な場所でしたが、新約聖書の時代には、神の国は、人として来られた神イエス・キリストのうちにあったのです。主イエスは人々に神の言葉を語り、神の権威を表す多くのしるしと力に満ちた奇跡の業を行われました。それでも、パリサイ人たちは、主イエスを神と認めませんでした。

(2)この世の終わりのしるし
 パリサイ人たちの質問に答えた後、主イエスは弟子たちに、将来の神の国について教えられました。聖書は、この世には始まりがあって終わりがあると教えています。科学も、私たちが住んでいる宇宙は永遠から存在していたのではなく、ある時に、ビッグバンと呼ばれる出来事があって、宇宙が始まったと教えています。聖書は、この世界には始まりがあったように終わりもあることを教えていて、世の終わりの時に、主イエスがもう一度この世に来られると教えています。旧約聖書には、救い主メシヤがこの世に来られることについて300以上の預言が記されているのですが、今から2000年前に主イエスが来られたことによって、それらの預言がすべて成就したのではなく、成就したのはそれらの3分の一に過ぎません。旧約聖書は、主イエスの1度目の到来とともに2度目の到来をも預言していたのです。私たちにとっては主イエスがもう一度来られるということは非常に不思議な出来事のように思えますが、旧約聖書の時代のユダヤ人にとっても、神が人となってこの世に来られることを理解できず、その結果、主イエスを救い主と受け入れることができませんでした。しかし、救い主は確かに来られて、十字架と復活によって、信じる者の罪が赦されて永遠のいのちを受けるための道が開かれました。このようにして神の国が近づいたのですが、神の国が完成した訳ではありません。主イエスがもう一度来られること、これは私たちの信仰告白にも含まれている大切なことですし、何よりも、主イエスご自身がそのことをはっきりと語っておられます。ヨハネの福音書14章2-3節ではこう言われました。「 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」この言葉は、私はよく葬儀の時に読みますが、クリスチャンにとって非常に大きな希望の言葉です。永遠のいのちを主イエスが約束しておられるのですが、その中で、「私はまた来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」と言われました。

(3)主イエスが再び来られるときのしるし
 主イエスがもう一度来られる時のことについて、ルカは7つのしるしを書いています。それらのしるしを一つ一つ見て行きましょう。

第一に、主イエスを信じる人々が主イエスの再臨を願うようになることです。22節で主は「人の子を一日でも見たいと願っても、見られない時がきます。」と言われました。ここで、一日というのは英語でもone dayとなっていますが、主イエスが再びこられる一つの出来事の日という意味です。一方で、26節の「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。」では、人の日もノアの日も複数になっているので、これらは特定の出来事ではなく、その出来事全体の流れを表していると思います。初代教会のクリスチャンたちは、激しい迫害を受け、また人々が神を冒涜したり、信仰を馬鹿にしていましたので、早く、主イエスの再臨が起きることを願っていました。新約聖書の最後の書物であるヨハネの黙示録は「主イエスよ、来てください。」という言葉で終わっています。初代教会のクリスチャンたちが主が再び来られることを強く願ったのと同じように主の再臨を求める人々が起こされます。しかし、22節にあるように、その願いはすぐには来ないことが示されています。すべては神様の御心によるので、私たちにはその時まで待ち望み続ける忍耐が求められます。
 第二に、24節に「いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。」と書かれていることから、主イエスの再臨はすべての人がはっきりと見えるようなかたちで起きることが分かります。主イエスが一度目に来られた時は、誰にも知られずにベツレヘムという田舎の村にお生まれになりました。キリスト教の異端と言われるグループでは、すでに主イエスがひそかに再臨されて、それが自分だと主張する教祖がいます。しかし、これは24節の言葉から、その教祖が偽りを言っていることが明らかです。ですから、誰かが、主があちらに再臨したとか、こちらに再臨したとか言っても絶対に信じてはなりません。主が2回目に来られる時は、稲妻が空の端から端まで輝くように、誰も見落とせないかたちで来られるからです。
 第三に、主イエスの再臨は、この時代の人々に拒否されるため、時期が遅れることが預言されています。25節「人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。」主イエスが再臨する前に、主イエスはご自身が多くの苦しみを受け、人々から捨てられなければならないと言われました。特に、主イエスは、神に選ばれた民であるユダヤ人から拒否されました。しかし、パウロがローマ人への手紙に、ユダヤ人が心をかたくしてイエスを拒否しているのは、異邦人の救いの完成する時までであり、その後、ユダヤ人たちも救われる日が来ると預言しています。
 第四に、イエスの再臨は思いがけない時に起こります。26節と28節に、主イエスの再臨は、旧約聖書に記されたノアやロトの時にように、人々がまったくそんなことが起きると考えていない時起きると言われています。ノアの時もロトの時も、突然に、人々が神の裁きを経験するということが起こりました。ノアの時は人々の悪があまりにも増大したので、神様は大洪水を起こして人間を裁こうとされました。ただ、ノアは正しい人でしたので、彼と彼の家族だけは救い出されました。その時第二ペテロ2章5節を見ると、ノアは義を説いていたと書かれているので、彼は周りの人々に神を信じて正しい生き方に立ち返るように説教していたのです。しかし、人々は、神のさばきにまったく無関心で食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていました。神様は裁きの日まで忍耐をもって待っておられましたが、彼らは、ノアと家族が箱舟に入る時まで、自分たちの楽しみだけを求めて生きていました。また、ロトの場合は、彼が住んでいた町ソドムの人々の悪があまりにもひどかったので、神様はソドムを滅ぼすことを決めました。そのことを知ったおじのアブラハムはロトが救われるようにと祈りました。アブラハムの祈りのおかげで、ロトとその家族は救い出されるのですが、ソドムの人々は不道徳な生活を続けていました。ロトには二人の娘がいて、それぞれ結婚していたのですが、婿たちは神の裁きを冗談だと思ったので彼らはソドムの町の人々とともに滅んでしまいました。
 五番目は、主イエスの再臨によって、人々の本当の性質があらわにされるという点です。31,32節を見てみましょう。「その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。ロトの妻を思い出しなさい。」主イエスが再臨される時、人々の本当の心が明らかになります。主の再臨の時に、神の裁きが下されるのですが、ノアの洪水の時のように、あるいはロトの時にソドムの町に火が降り注いだ時も、裁きが下ったのですから、持ち物を大事に持っていてもすべて滅んでしまうのです。ヨハネが手紙の中に書いているように、神を信じない人間の心の特徴は、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢、これらのものにとらわれているのです。多くの人はそれを手放すことができません。ロトの妻もそうでした。ロトの家族は、裁きが下り始めている時も、ソドムの町での裕福な暮らしを手放すことができずにぐずぐずしていました。それで、神様はみ使いを送って彼らの手をつかんで町の外で連れ出しました。そして、彼らに、「できるだけ遠くに向かって全力で逃げなさい。絶対に振り向いては行けない。滅ばされてしまうから。」と言いました。それなのに、ロトの妻はソドムに残してきたものに未練があったのか、逃げる途中で思わず振り向いてしまったのです。すると、たちまち彼女は塩の柱になってしまいました。主が言われたように、自分のいのちを守ろうとする者はいのちを失うのです。
 第六に、主イエスが再臨する時に、人々が分けられます。34、35節を読みましょう。「その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」主イエスが再び来られる時に、私たちの間に、最終的で、永遠にいたる引き離しが起こります。その時が夜寝ている時であれ、昼に働いている時であれ、関係ありません。主イエスを信じる者は取られ、信じない者は残されます。「取られる」とか「残される」とはどういう意味でしょうか。それは、ノアの日のように、あるいは、ロトの時のように、神によって裁きから救い出される人と裁きの場に残される人に分けられるのです。
 最後に七番目のしるしは、イエスがふたたび来られる時、人々の永遠の運命が決まります。37節で、弟子たちはイエスに「主よ。どこでですか?」と尋ねています。イエスの弟子たちは、主イエスが再臨される時、、神の裁きが全世界に及ぶとは考えていなかったようです。ノアの時のように、ロトの時のように、どこか限られた場所で起きると考えていたと思います。それで、そのような裁きがどこで起きるのかを尋ねたのです。すると主イエスは謎めいたことを言われました。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」この言葉はユダヤ人のことわざだと考えられています。ハゲタカは動物の死体をえさにします。世界中のどこででも、主イエスを信じない結果神の裁きを受けた人々を、ハゲタカがえさにして食べるという意味だと思われます。神は何度も人間に警告をし、また忍耐をもって待っておられますが、神の裁きが来るときその裁きを逃れることができる人はいません。

 このように、聖書は、今を生きる私たちにも警告しています。世の終わる時、神の裁きがあることを。世界の歴史は、神様の計画の通りに動いています。紀元135年にローマ帝国はイスラエルを徹底的に破壊したため、ユダヤ人たちは自分の国を追われて全世界に散らばりました。彼らは自分の国を失った民族でした。このことは聖書に預言されていました。ただ、聖書は、一度世界に散らされたイスラエルの民はもう一度世界の隅々から集められると預言しています。ユダヤ人たちは2000年もの間自分たちの国を持ちませんでした。しかし、不思議なことに1948年にイスラエル共和国が復活しました。世界の歴史において、2000年もの間自分の国を失っていたところから自分の国を回復したのはイスラエルの他にはありません。これからも、世界を揺り動かす出来事はエルサレムを中心となって続いていくと思われます。このように、聖書が語っていることはすべて真実であり、いろいろな預言が実現して来ました。確かに聖書は真実の書物です。そうなると、今日学んだ神様の警告の言葉も真実です。神様の言葉は決して変わることがありません。世の終わりの前兆に、聖書は、地震が増えること、民族同士の争いが増えること、食べ物の危機が起きて飢饉が起きることなどが、世の終わりの前兆として起きると預言しています。今の時代の世界を取り巻く状況は聖書の言葉そのものです。世の終わり、この世界が裁きを受ける時が近づいています。私たちは、今こそ、目を覚ましていなければなりません。

2018年6月
« 5月   7月 »
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930

CATEGORIES

  • 礼拝説教