2018年7月15日『神に受け入れられる祈り』(ルカ18:9-14) | 説教      

2018年7月15日『神に受け入れられる祈り』(ルカ18:9-14)

 ルカの福音書18章1節から8節では、主イエスは私たちにあきらめずに祈り続けることの大切さを教えてくださいました。それに続く今日の箇所では、正しい祈り方について教えておられます。9節にはこう書かれています。「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。」主イエスの目の前にいたのは、「自分を正しい人間だと思い込み、他の人を見下している人々でした。世の中にはこういうタイプの人が結構多いのではないでしょうか。私たちはどうしても誰かと自分を比べて生きています。そして、まじめに生きている人ほど、自分と周りの人間を比べて、自分はそこそこ正しい人間だと思い込むのです。主イエスの時代のユダヤ人の中に、パリサイ人と呼ばれる人々がいて、彼らはその典型でした。主イエスが弟子たちともに神殿にいると、そこに二人の人が祈るためにやって来ました。二人の祈りは、まったく異なっていました。二人の祈りを聞いた主イエスは、弟子たちに、神に受けいられる祈りがどのようなおのかを教えられました。

 10節にこう書かれています。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。」一人はパリサイ人ですが、彼らはユダヤ教徒の中の一つのグループで、主イエスの時代には6000人ほどいたと言われています。彼らは宗教生活に非常に熱心で、旧約聖書の律法の教えを守ることにいのちをかけていました。有名なユダヤ人歴史家ヨセフスの言葉を借りれば、彼らは律法の正確な解釈と実践においては他のだれよりもすぐれた人々でした。しかし、イエスの言葉を借りれば、彼らは人に祈っているところを見られたくて、わざと会堂の中や人通りの多い交差点で立って祈ることが多かったようです。彼らは時間を決めてエルサレムの神殿にやって来て祈りを捧げていました。もう一人の人は取税人です。彼らはユダヤ人社会では人間のクズと思われていました。当時のイスラエルを支配していたのはローマ帝国です。彼らは税金を取り立てる仕事をユダヤ人に委ねていました。これらの取税人たちは、仲間のユダヤ人から決められた額以上の税金を取り立てて、自分の稼ぎにしていました。彼らは、政治的にも宗教的にもユダヤ人社会の裏切り者と見なされていたので、ユダヤ教会堂に入ることも、裁判所で証言することも許されていませんでした。そもそも、取税人が神殿に祈りに行くこと自体、ふつうの人にとっては信じがたいことでした。
 最初に、パリサイ人が祈りました。11、12節を読みましょう。「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」」このパリサイ人は、立って、祈ったと記されています。。立って祈るということは、人々に見えるように祈るという意味です。彼はいかにも敬虔な信徒のような様子で祈りを始めました。また新改訳では「心の中で」と訳されている箇所は、元々のギリシャ語では、「自分に向かって祈った」とも訳せますし、「自分について祈った」とも訳せます。主イエスは、以前パリサイ人たちの祈りについてこういわれました。「彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。」このイエスの言葉を考えれば、このパリサイ人は、神殿の人目につく場所に立って、いかにも「私は祈っています」というオーラを出しながら、自分のことを声に出して祈っていたのだと思います。彼は神に感謝して祈っていますが、実は神様に向かって祈っているというよりも、周りにいる人々に自分の敬虔な信仰を知らせるために祈っていました。また、彼が何について神に感謝しているかというと、自分が誰からも金を盗むことをせず、不倫をすることもなく、自分が清い生活をすることによって罪深い生活を避けることができたことで神に感謝しています。また、自分が週に二度断食をし、十分の一の献金をいつも捧げていることでも神に感謝しています。祈りの中で神に感謝をささげることは正しいことですし、神にお願いをする以上に神への感謝の気持ちを表すことはとても大切なことです。しかし、このパリサイ人の祈りは、神様が彼に対してどんな祝福や恵みを与えてくださったかということは一言も祈っておらず、自分がどんなことをしなかったのか、また自分はどんなことをしているのか、と言うことばかりを祈りの中で語っています。しかも、11節では、彼は、「ことにこの取税人のようでないことを感謝します。」と祈っています。祈りは、私と神様とのいわば二人きりの会話です。祈りの中で他の人のことを持ち出す必要はまったくありません。彼は、なぜ、ここで取税人のことを持ち出したのでしょうか。それは、彼が、自分自身を取税人と比べることによって、自分のきよさを強調しようとしたのだと思います。これは、言い換えれば、このパリサイ人は自分のきよさに自信がなかったのかもしれません。それで、自分よりもきよくない生活をしているように見える取税人を持ち出して、自分の正しさを証明したかったのでしょう。絶対的なものは比べる必要がありません。絶対多数と比較的多数は全然ちがいます。絶対おすすめというのと比較的おすすめも全然違います。絶対的なものは比べる必要がありません。彼は、取税人と自分を比べることで自分が正しいんだと確信を持ちたかったのだと思います。彼の祈りは、表向きは神様に感謝をささげる祈りですが、彼の心は、周りで聞いている人々に、自分の正しさを見せびらかすための祈りでした。

 続いて、神殿に一人の取税人が祈るためにやってきました。、取税人はどんな祈りをささげたのでしょうか。13節を読みましょう。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」彼はパリサイ人とはまったく違う祈りを捧げました。13節には「彼は遠く離れて立った」と書かれています。おそらく神殿の中心から遠く離れた人のあまりいない場所に立ったのではないでしょうか。また、パリサイ人は神の前に立つときも自信満々でしたが、取税人は天を見上げることができず、うつむいたままで祈りました。彼は自分が罪深い人間であることを知っていました。多くの取税人が不正を働いて人々を苦しめ、それによって自分は裕福になっていました。他の取税人は自分がしたことを何とも思っていませんでしたが、彼は自分が悪を行っていることが間違っていると知っており、そんなことをする自分自身を悲しんでいたので、神に祈りを捧げたいと思って神殿に来ていました。彼は、自分のことを自慢することなく、他の人を自分と比べることもなく、ただ「こんな罪人の私をあわれんでください。」とだけ言ました。彼は自分のこれまで神の教えを無視して間違った生き方をしてきたことを悲しんでいました。主イエスはマタイの福音書の5章で8つの幸いについて語られましたが、その中で主は「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」と言われました。一般的な考えでは悲しむ人が幸いであるはずがないのですが、どうして悲しむ人が幸いなのかと言うと、悲しむ人は神様からの特別な慰めを受けることができるからです。また、何を悲しむのかと言うと、自分が欠点のある人間であり、罪を犯してしまう者であることを認め、神の前にへりくだった時の悲しみです。このような人こそ本当に幸いな人です。神様からの特別な憐れみと慰めを受けるからです。例えば、誰かが非常に困った状況になった時に、周りの人は「大丈夫だよ」などと慰めの言葉を言うことはできますが、その状況が本当に大丈夫なのかと言うと、そうだと断言はできません。人間的な力でその状況を改善することはできません。そのため、人間の慰めの言葉は、気休め程度のものになってしまいます。しかし、もし神様が「大丈夫だ。」と言ったならば、周りの状況がどうであれ、周りの人間が何と言おうと、大丈夫なのです。だから、本当に私たちにとって助けになるのは、人間的な慰めではなく、神様からの慰めです。この取税人は、確かに悪いことをしてきました。そのため、ユダヤ教の会堂にも入れてもらえなかったし、宗教熱心な人々からは村八分にされていました。しかし、それでも、この取税人は、自分の人生を新しくするためにはどこに行けばよいのかわかっていました。そして、神様に向かってどのように祈ったらよいのか分かっていました。このようにまったく対照的な二人が同じ時間に同じ場所で神様に祈りを捧げました。一人はパリサイ人、ユダヤ人社会の中のエリートで人々から尊敬されていました。もう一方は取税人、人々を苦しめて自分だけが裕福になっていた社会のクズのような人間でした。

 この二人の祈りを聞いていた主イエスは、彼らの祈りが神様によってどのように受け取られたかについて話されました。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。」パリサイ人の祈りは神に受け入れられませんでした。彼は宗教家らしい服装をし、厳格に律法を守るパリサイ人らしく、額には聖句が書かれた神が入った小さな箱を付けて、自信に満ちて神殿の真ん中に立って祈っていました。しかし、どんな立派な言葉を使って祈ったとしても、彼の祈りは聞き入れられませんでした。彼の祈りは、自分の行いによって自分を正しい者だと考えている祈りだったからです。もう一人の取税人は、不正をして人の金を盗んでいるような人間でした。しかし、彼は今までやってきたことを悔い改め、神様の憐れみを求めました。この神様の憐れみを求める祈りが聞かれて、彼が神殿を出る時には、彼のこれまでの罪が赦されて、彼の神に対する信仰によって、神様に受け入れられました。主イエスの話を聞いていた人は、パリサイ人の祈りが神に受けいられたと思っていたのでしょう。あえて、主イエスは「パリサイ人ではありませんよ。」と念を押しています。そして言われました。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」これが聖書の原則です。聖書の中で繰り返して教えられていることです。この世の考え方と、神様の考え方はまったく異なっています。主イエスがこの世に来られる時も、神様は、ひとりの貧しい女性の体をとおしてこの世に来られました。神様によってえらばれた女性マリヤは、自分が神様の働きのために選ばれたことを知って、神に向かって喜びの歌を歌いました。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」

 今日の箇所から、私たちが教えらえることは何でしょうか。私たちはどのような心で祈るべきなのでしょうか。私たちがいつも祈りの最後に、「イエスの御名によって」と言うのはなぜなのでしょうか。私たちは、すべてのクリスチャンは、もともと自分の罪によって神から遠く引き離された者でした。しかし、そのような人間が神様との関係を取り戻せるようにと、神の側で主イエスを私たちの身代わりに十字架にかけてくださり、罪のない主イエスが私たちが本来受けるはずの刑罰を受けてくださいました。私たちは、このイエスの十字架が自分と神様の関係を取り戻すために必要なものだと信じる時に、すべての罪が赦され、神に祈り、神とともに生きる者に変えられます。私たちが直接、神様に祈れるのは、自分の中に良いものがあるからではありません。ただ、主イエスの十字架を信じたから祈ることが赦されたのです。そのために、私たちは信仰の告白として、祈りの最後に「主イエスのお名前によって」と言うのです。ユダヤ人にとって名前は単なるタイトルではなく、その人そのものを意味します。ですから、「主イエスのお名前によって」というのは「主イエスのおかげで神様に祈ることができる者にさせていただきました」という私たちの信仰告白なのです。あなたの祈りはどんな祈りですか?パリサイ人のように祈りますか。それとも取税人のように祈りますか。

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