2019年3月17日 『誰が一番偉いのか』(ルカ22章24~30節) | 説教      

2019年3月17日 『誰が一番偉いのか』(ルカ22章24~30節)

 先週は、主イエスが弟子たちと最後の食事をした時に、食卓の上にあったパンとぶどう酒の杯をとって、今後、クリスチャンたちが主イエスの十字架の死を覚えておくために、聖餐式を定められたことを学びました。主イエスは、この時、どんな思いで、食卓のパンを裂いて弟子たちに配り、またぶどう酒の入った盃を回して弟子たちに飲ませたのか、どれほどの緊張感の中で、この言葉を言われたのか、私たちはすべてを理解することはできません。しかし、この時、主イエスは、弟子たちには、少しでも自分の気持ちを分かってほしいと願っておられたと思います。ところが、残念なことに、弟子たちには、イエスの気持ちは伝わっていなかったようです。ルカの福音書22章24節にはこう書かれています。「また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか」という議論も起こった。」弟子たちは、明日の朝十字架に掛けられる主イエスの前で、なぜ、こんな議論をしているのでしょうか。言い方を変えると、なぜ人はいつも一番になろうとするのでしょうか。2番じゃだめなのでしょうか。社会の中のいろいろなところで、人はいろいろな争いに勝つために必死になっています。それは、人に自分の価値を認めてもらいたいから、人々の人気を勝ち取りたいから、権力や財産を手に入れたいからと、様々な理由があります。場合によっては、自分が一番になるために、他の人を蹴落とすために策略をめぐらすこともあります。人はなぜ、一番になりたいのでしょうか。かつて大学で、教育原理の授業を受けたことがありますが、授業の中で人間の心理についての授業がありました。その先生によるとすべての人の心の中には「向上心」があって、それは人間の成長や発達に役立つものです。その先生は、人間の向上心をギリシャ語で「エロス」と呼んでいました。「エロス」とは、人間が、自分の努力や修行をすることで、一段上の人間になろうとする心です。それ自体は全然悪いものではなく、それがないと、人間の成長はないでしょう。ところが問題なのは、人間のエロスは、人間の罪の心によって歪んでしまったために、非常に自己中心的な向上心になってしまっています。だから、人は、他人を蹴飛ばしてでも自分が一番になろうとしたり、他の人のことは一切考えずに、自分の成功を求め、自分の欲しいものを手に入れようとしてしまうのです。この教授がクリスチャンなのかどうかは分かりませんが、神様から与えられた向上心が罪によってゆがめられたしまったことが、今日の人間社会をもたらしたのだと確信しました。弟子たちの心も、自己中心な向上心があったために、主イエスにとって、こんな大事な時に、旧約から新約聖書の世界に移るという極めて大切な時に、彼らはまったく別なことを考えていることは、本当に驚きですし、主イエスも、どれほどがっかりしたことでしょうか。

(1)弟子たちの間での葛藤(25-26節)
 弟子たちが、自分たちの中で誰が一番偉いのかという議論を始めた理由の一つに、最後の晩餐の食卓の弟子たちが座っていた(あるいは横たわっていた)場所が関係していたと思われます。ユダヤ人が大勢で食事をする場合、食卓はコの字型に並べられました。真四角の一つの辺がない状態です。ホストは、そのテーブルの端から2番目に座って、その右に第一のゲスト、その左に第二のゲストが座って、そこからは位の高い人から順番に座って行きますので、一番位の低いゲストは、主人の正面のテーブルの端にいることになります。最後の晩餐の時は、イエスの右にヨハネがいて、左にはイスカリオテのユダがいました。そして、おそらく一番低い者がつく席にペテロがいたようです。主イエスは、イスカリオテのユダが自分を裏切ろうとしていることは知っておられましたが、最後まで彼の決心をやめさせるために、ユダと個人的に話ができるように自分の左側に座るようにユダを誘ったのです。弟子たちは、これが地上での彼らと主イエスの最後の食事になることは分かっていなかったかも知れませんが、信仰的には非常に大切な時に、弟子たちが争っていたのは、食卓の席の順番だったのです。もし彼らが、主イエスがパンを裂いて弟子たちに配り、ぶどう酒の杯を回して、「わたしを覚えるためこのようにしなさい。」と言われた時に、主イエスの言葉の意味を本当に理解していたら、こんな議論はしなかったはずです。でも、これは12弟子に限った話ではありません。私たちも同じように心のどこかで自分をより強く、より高い人間にしようとがんばっているのではないでしょうか。なぜ人は、一番になろうとするのでしょうか。聖書は、その原因となる性質について語っています。その中心にあるのは傲慢です。イザヤ書の14章12-15節に傲慢な者の姿が描かれています。ここで明けの明星と呼ばれているのが誰を意味するのかについてはいくつか解釈があります。サタンを表すとも考えられていますし、エルサレムを滅ぼそうしていたバビロン王ネブカデネザルを意味すると考える人もいますし、両方を意味すると考える人もいます。ただ、共通しているのは、傲慢になると自分の意思で神に逆らうようになり、結果的には神の裁きを受けることになるいうことです。人間の罪の根源は「自分が神のようになろう」考える心です。いつもイエスと生活を共にし、イエスから直接教えを受けていた弟子たちでさえ、人間の傲慢の誘惑にはまってしまったのですから、私たちも、いつもこころして傲慢にならないように気を付けていなければなりません。

(2)イエスの教え (25-27節)
 主イエスは、3年間教えて来た自分の弟子たちがこのような時に至ってもなお自分のことばかり考えている様子を見て、がっかりしたのではないかと思います。主イエスは、弟子たちが神を信じない異邦人の支配者たちと同じ考え方をしていることを彼らに説明しなければなりませんでした。主イエスは次のように言われました。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。しかし、あなたがは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は給仕する者のようになりなさい。」ローマの社会では、権威や地位が非常に重要視されていて、人々がそれらを獲得するために努力することが美徳とされていたので、謙遜で控えめな生き方は軽蔑されていました。したがって、この世では、権威を持っている支配者たちは、自分の権威を振りかざして、上から圧力をかけて人々を押さえつけようとします。にもかかわらず、多くの支配者は、自分のことを「守護者」と呼んでいました。自分こそが人々にいろいろなものを施し助けを与える憐れみに富む支配者だと見られたかったからです。この「守護者」と言う肩書はローマ・ギリシャの世界では、王子や皇帝、時には神に対して使われたものです。ただ、民衆が本当に支配者を神のように考えていたわけではなく、お世辞みたいなものです。いわば、北朝鮮の人々が、金ジョンウンを将軍様と呼ぶようなものです。しかし、イエスは弟子たちにはそのような生き方をしてはいけないと言われました。むしろ、偉大な人になりたいと思う者は、一番若い人のようになれと言われました。ローマ社会では、つねに年長者に対して敬意が払われていて、経験や知識に乏しい若者は低く見られていました。また、食事会で給仕する人と食事をする人とはまったく立場が異なります。食事をする人々は主人に招かれたゲストであり、給仕する人は主人に雇われて、招待客の接待をする仕事を任されたしもべです。主イエスは、12弟子だけでなく、すべてのクリスチャンに対しても、一番偉くなりたいと思うなら、仕える人になりなさいと命じておられるのです。
 主イエスは、ただ、私たちに命令を与えておられるだけではありません。27節で「わたしは、あなたがたの間で、給仕する者のようにしています。」主は、その生き方を実践しておられました。この、最後の晩餐の時も、主イエスと弟子たちが部屋に到着した時に、ふつうはいるはずの召使がいなかったために、彼らの足を洗う人がいませんでした。外出から帰って来た人の足を洗うのは、家で最も身分の低いしもべがする仕事でした。足を洗う人がいない中で、弟子たちの中で他の人の足を洗おうする者は一人もいませんでした。誰もが、そんな仕事は自分がするものではないと考えていたからです。すると、食事が始まってしばらくした時に、主イエスが立ち上がって、弟子たちの足を洗い始めました。弟子たちは主人であるイエスが自分の足を洗ったことでひどく驚きました。そんな弟子たちに向かって主イエスは言われました。「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」

(3)主の約束 
 弟子たちは、私たちと同じような欠点を持つ普通の人間でしたが、それでも、彼らは自分の下の生活を捨て、家族から離れて主イエスの弟子として生きていました。彼らの思いを主はよく知っておられました。28節で主はこう言われました。「あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、いっしょに踏みとどまってくれた人たちです。」おそらく主イエスはヨハネの福音書6章に記された出来事を指しているのだと思います。ある時、主イエスは5つのパンと2匹の魚だけで、5000人もの人のお腹をいっぱいにするという大きな奇跡をおこなわれました。この奇跡に感動した大勢の人々がイエスの弟子になろうとしてついてきたのですが、彼らは多くは、イエスのそばにいればいつでもパンがもらえると思っていただけでした。それで、イエスが福音について彼らに語ると、多くの人はイエスの教えにつまずいて、イエスから離れて行ったのです。その時に、主イエスが12人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいですか」と尋ねると、ペテロは「あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちはあなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」と答えて、イエスから離れませんでした。12弟子たちにはライバル意識があったり、主イエスの教えを理解できないところがあったり、欠点も多かったのですが、イスカリオテのユダは別として、皆、イエスに忠実について行こうとしていました。主は彼らのそういう部分をちゃんと見ておられました。そして、彼らに対して、主イエスは将来のすばらしい約束を与えられました。それが29、30節の言葉です。「わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。そうしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座についてイスラエルの12部族を治めるのです。」神様が計画された救いの歴史が完成する時に、弟子たちは大きな報いを受けるとの約束を与えられました。12弟子たちは、ここで言われているイスラエルの12部族とは、旧約聖書の時代の古い神の民イスラエルのことではなく、主イエスを救い主と信じるすべてのクリスチャンを表していますので、彼らは、神の教会の支配者となることが約束されているのです。彼らは、まもなく、イエスが捕らえられる時には、イエスを見捨てて逃げて行きます。ペテロはイエスを知らないと3度否定します。彼らは大きな失敗をした弟子たちです。しかし、主は彼ら一人一人の信仰を回復させて、彼らに、全世界に出て行って罪から救われるという福音を知らせる最も大切な使命を委ねられました。主イエスは、彼らに仕える者になりなさいと言われ、主イエスご自身も仕えられるのではなく仕える者となって働かれました。12弟子たちも仕える者になりました。その12弟子たちは天においては支配する者として生きるのです。
 私たちの天国での生活は12弟子とは異なるでしょうが、この世にあって私たちは仕える者であっても、天国においては主イエスとともに世界を治める者になることが約束されています。人間には二つの道しかありません。この世で自分を高くする者は、神の前では低くされます。しかし、この世にあって自分を低くする者を、神様は天国において高く上げてくださるのです。1994年のフィギャースケート全米選手権のことですが、二人の選手が優勝を競っていました。ナンシー・ケリガンとトーニャ・ハーディングです。試合前の練習の時に、ナンシー・ケリガンは暴漢に襲われて足を痛めて、試合に出ることができず、試合ではトーニャ・ハーディングが優勝しました。ところが、後に、この事件はハーディングの夫とボディーガードが企てたものであることが判明しました。そして彼女自身もこの事件にかかわっていたことが分かり、彼女は執行猶予付きの判決を受け罰金と奉仕活動を命じられました。そして、アメリカのスケート競技から追放されることになりました。彼女が一番になりたいためになりふり構わず行った結果、彼女は自分のスケート人生を失ってしまったのです。私たちは、自分の一番を求めるのではなく、つねに神様の一番を求める者でありましょう。

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