2019年4月7日 『暗闇が人の心を覆う時』(ルカ22章47~53節) | 説教      

2019年4月7日 『暗闇が人の心を覆う時』(ルカ22章47~53節)

 主イエスが十字架にかけられるまで、主イエスは長い夜を過ごしました。主イエスは12人の弟子たちだけと一緒に過ぎ越しの祭りの食事をしました。その食事の時に、主イエスは、今も私たちが行っている聖餐式を行うように弟子たちに命じられて、自分がこれから十字架にかけられることを彼らに示されました。その後、食事をした部屋を出て、彼らは、エルサレムの街の東側にあるオリーブ山のふもとのゲッセマネの園に行かれました。主イエスはエルサレムに来るたびに何度もゲッセマネの園に祈りに来ておられたようです。イエスは、そこで、十字架を前にして苦悩に満ちた祈りを捧げられましたが、弟子たちは、イエスから言われていたにも関わらず、祈ることができず眠り込んでいました。主イエスは、弟子たちの信仰面での弱さを知っておられましたし、また弟子たちがこれから厳しい状況に置かれることも知っておられたので、弟子たちに最後の教えとして、46節に書かれているように、「どうして、眠っているのか。誘惑に陥らないように起きて祈っていなさい。」と言われました。ゲッセマネの園は多くのオリーブの木が茂っている場所ですから、非常に静かな場所でしたが、イエスが弟子たちに向かって話しておられる最中に、騒々しい物音が聞こえて来ました。そのことが今日の箇所の最初に書かれています。

(1)群衆の到着 (47節)
 「イエスがまだ話をしておられるうちに、見よ。群衆がやって来た。12人の一人でユダという者が先頭に立っていた。」イエスと弟子たちが過ごしていた静かな夜に、突然、物音がしました。大勢の人々が、イエスの弟子の一人であったイスカリオテのユダに先導されて、ゲッセマネの園にやって来たのです。彼は、最後の晩餐の時に、主イエスから「あなたが私を裏切る」と言われました。(マタイ26章25節)そして、主イエスは彼にパン切れを手渡すと、「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」と言われました。すると、ユダはパン切れを受け取るとすぐに部屋を出て行きました。マタイの福音書を見ると、ユダは、最後の晩餐の前に、ユダヤ教の指導者である祭司長の所へ行って「私が彼をあなたがたに引き渡しましょう。」と言って、銀貨30枚を受け取っていました。そしてユダはイエスを捕らえる機会を狙っていました。彼は、主イエスと11人の弟子たちは、食事を終えると、いつものようにゲッセマネの園に行って祈ることを知っていました。ユダヤ教の指導者たちがイエスを捕らえようとしているのは、律法に基づいたものではありませんでした。しかも、今は、ユダヤ教最大の祭りである、「過ぎ越しの祭り」の時だったので、彼らは、できるだけ群衆に知られずにイエスを捕らえようとしていました。部屋を出て行ったユダは急いでいました。イエスを密かにそして確実にとらえるためにはそれなりの準備が必要だったからです。まず、イエスを殺すことを狙っていたユダヤ教の指導者たちを集めなければなりません。さらに、ローマの兵士を集めることも必要でした。ローマの軍隊が出動するためには、ローマ総督ピラトの許可が必要です。普段、ローマ総督は地中海沿岸のカイザリヤという町にいますが、過越しの祭りの期間中は、エルサレムに大勢の巡礼者が集まり、暴動の危険性もあったので、エルサレムに滞在していました。ユダヤ教の指導者たちは、ローマ軍の将校にイエスがローマ帝国に対する反乱を引き起こす危険人物であると説得しなければなりません。祭司長たちは急いでローマ軍の将校に兵士の出動を要請しました。このようにして急遽集まった群衆にはいろいろな人が混じっていました。52節を見ると、群衆の中には、ローマ兵士以外に、祭司長たち、宮の守衛長たち、長老たちと書かれています。その他、彼らが集めた一般人もいたはずです。ローマの兵士たちは、祭りの期間中なのでエルサレム市内の警備も必要だったので、一つか二つの師団が送られたと思います。正確な数は分かりませんが、全部で数百人は集まっていたでしょう。エルサレムでは、過去にも祭りの時に、何度も反乱がおきていたので、ローマの兵士も十分に武装していました。また、ヨハネの福音書によると、ユダヤ人たちも灯りとたいまつと武器を持って集まっていました。恐らく、彼らは、イエスが逃げることを想定して、暗闇の中でイエスを捜すためにランプとたいまつを持っていたのだと思います。
 彼らはイエスを絶対に逃がさないという決意で集まっていました。しかし、この逮捕はまったく不当なものでした。主イエスは、ローマの法律を破っていませんし、ユダヤ教の教えに反することもしていません。ローマ帝国に対する反乱を起こす考えもまったくありませんでした。にもかかわらず群衆はイエスを逮捕しようとしていました。また、群衆の多くは、主イエスが病人を癒し、人人に食事を与え、悪霊につかれた人々を自由にし、神の言葉を教えていたことを知っていました。その時は、彼らはイエスの働きに感謝し、イエスの教えに強い感銘を受けていたのです。それにも関わらず、彼らは、一部のユダヤ教指導者がイエスに抱いていた強い憎しみと怒りに完全に扇動されていました。一方で、彼らがたった一人のイエスを、何の武器も持っていないイエスを捕らえるために、これほど武装して集まってきたのは、彼らがイエスに対して恐れを抱いていたことを示していると思います。

(2)裏切りのキス(47b-48節)
 イスカリオテのユダには心配なことがありました。過越しの祭りの時はいつも満月なので、結構夜でも明るかったのですが、ゲッセマネの園にはオリーブの木がたくさん生い茂っていて、中は暗かったのです。しかも、イエスは11人の弟子たちに囲まれているので、弟子の誰かがイエスの身代わりになって、イエスを逃がすのではないかと考えていました。暗闇に乗じてイエスに逃げられたら大変なことになるので、確実にイエスを捕らえるために、捕まえるイエスがはっきり分かるように、彼らの間であらかじめ一つの合図を決めていました。ユダは「私が口づけするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ。」と言っていました。それで、イスカリオテのユダは、ゲッセマネの園に着くと、イエスにキスをするために近づきました。 
マタイの福音書によると彼はイエスに近づいて「先生、こんばんは。」と言っています。英語の聖書では「Hail Master」となっています。「こんばんは」と訳された言葉は非常に親しみと尊敬を込めた挨拶で、「ハイルヒットラー」のハイル、「アベマリア」の「アベ」と同じ言葉です。ユダは非常に演技力があったのでしょう。他の弟子たちはユダが裏切るために来ていることに気づかなかったようです。しかし、主イエスはユダの心をすべて見抜いておられたので、ユダに言いました。「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか」イエスはここでもユダの名前を呼んでいます。ユダの心が今、サタンに支配されてイエスを裏切ろうとしていることを知っておられたのですが、イエスにとっては失われた魂の一人です。イエスは彼に悔い改めないかと尋ねておられるのです。イエスは最後の最後までユダに愛を注がれました。しかし、ユダはイエスの言葉を遮るようにイエスに口づけしました。口づけと訳されている言葉は愛を意味する「フィレオ―」と言う言葉が使われています。これは、家族や友人の間で深い愛情の心で交わされるキスを意味します。ある聖書では「長く口づけした」とか「何度も口づけ」したと訳されています。イエスの忠告にも関わらず、ユダは平然と偽りのキスをしました。主イエスはそれを拒否されませんでした。ユダの裏切りのキスという屈辱にご自身を委ねられたのです。そして、マタイの福音書を見るとイエスはユダにこう言われました。「友よ。あなたがしようとしていることをしなさい。」(26章50節)これは主イエスがユダに言われた最後の言葉です。ユダへの別れの言葉でした。
最後まで、イエスはユダを友と呼ばれました。この合図を見て、ユダが連れて来た人々がイエスに近づき、イエスに手をかけて捕らえました。

(3)弟子たちを叱るイエス
 この時になって、ようやく11人の弟子たちは目の前の状況を理解しました。ユダと一緒にやって来た多くの武器を持った群衆がイエスを取り囲みました。同時に、これからイエスや自分たちにどんなことが起きるか悟りました。その時、彼らはイエスの言葉を思い出したのでしょう。最後の晩餐の時にイエスが彼らに「剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。49節を見ると、事の成り行きを見ていた弟子のひとりがイエスに「主よ。剣で切りつけましょうか。」と尋ねました。自分たちは11人、相手は数百人です。とても太刀打ちできる相手ではないのですが、実は弟子たちはイエスの大きな力を見ていたのです。ヨハネの福音書18章に書かれていますが、群衆がイエスを取り囲んだ時、イエスは彼らに「誰を捜しているのですか」と言われます。彼らが「ナザレ人イエスだ。」と答えると、主が「わたしがそれだ」と答えられました。すると、18章の6節を見ると、イエスが「わたしがそれだ。」と言われた時に、イエスを取り囲んでいた群衆は「後ずさりして地に倒れた」と書かれています。主イエスが自分が神であることを言葉にするだけで、群衆は力を失い倒れてしまいました。主イエスにはこのような力が備わっていました。このことからも明らかなように、主イエスは捕らえられたのではなく、自ら十字架にかかるように自分自身を捧げてくださったのです。「主よ。剣で切りつけましょうか。」と言ったのは、ヨハネの福音書からペテロであることが分かりますが、彼は、主イエスの言葉を待たずに、大祭司のしもべに剣で切りかかりました。イエスの目の前に大祭司がいて、その隣にこのしもべが立っていたのでしょう。ペテロはしもべの頭に切りかかったと思うのですが、彼は戦士ではなく漁師だったので、しもべを殺すことができず、彼の右耳を切り落とすだけでした。
 主イエスが建て上げようとしている王国は「神の王国」です。この世の王国ではありません。弟子たちが人間的な戦いをして勝ち取る国ではないのです。ペテロにはまだ、そのことが分かっていませんでした。主イエスはすぐにペテロを叱りつけました。「やめなさい。そこまでにしなさい。」そして、主はしもべの耳に触って、彼の傷を癒されました。ペテロの行動は、人間的には理解できますが、それはむしろ神の計画を妨害するものであり、不必要なものでした。ペテロは主イエスから「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われていたのに祈らずに眠っていました。祈りのない行動は神のみこころに沿わないことが多いのです。
 この時も、主イエスは自分の敵に愛を示されました。切り落とされたしもべの右耳を癒されました。人間の憎しみと敵意と裏切りのただ中で、主はゆるしと癒しを与えられたです。この出来事は、これからイエスがはりつけになる十字架は神が私たちの罪を赦すためのものであることを暗示しているように思います。ヨハネの福音書には、このしもべが「マルコス」であったと書かれています。聖書には特別な場合を除いて人の名前を書きません。とくに、この人物はしもべにすぎないのです。そのことから、多くの学者は、マルコスが後にクリスチャンになって、初代教会では有名な人物であったのだろうと考えています。

(4)救い主の勝利
 主イエスを取り囲んでいたのは、祭司長たち、宮の守衛長たち、長老たちでした。つまりユダヤ教の指導者たちであり、人々から尊敬を受けていた者たちでした。イエスは彼らに尋ねられました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って出て来たのですか。わたしが毎日、宮で一緒にいる間、あなたがたはわたしに手をかけませんでした。」本当に、主イエスがローマ帝国を脅かす危険な反乱分子であったのなら、彼らは、もっと早くイエスを捕らえることができたはずです。なぜもっと早く捕らえなかったのでしょうか。22章2節には、「彼らが民を恐れていたからだ」と書かれています。正しいことを行う時、私たちは人を恐れません。彼らは不当な理由と手段でイエスを殺そうとしていたので、人々を恐れたのです。だから、彼らは、人々に気づかれないように、真夜中にイエスを捕らえようとしていました。
 そして、イエスは彼らがなぜ今までイエスを捕らえることができなかったのか、その理由を言われました。「今はあなたがたの時、暗闇の力です。」イエスは、彼らの時は暗闇の力であると言われました。イエスを殺そうとしていた人々が、暗闇の力、すなわちサタンの力に支配されて、この世の光であるべきイエスを殺そうとしていました。その時が来たのです。すべての人を照らす真の光として来られたイエスを彼らは受け入れませんでした。彼らは心を固くして暗闇の中にとどまり続けたのです。そして、彼らはイエスを殺すことだけを考えるようになりました。人間の罪の深さを示す暗闇です。しかし、主イエスにとって、この時は、この世に来る目的の時でした。主イエスは、3年間神の子として働いておられた時に、何度か、「わたしの時はまだ来ていません。」と言われました。その時がついに来たのです。それは、人間的に見ると暗闇の力ですが、神様の永遠の計画においては、これは、私たちを暗闇から救い出すための時であったのです。主イエスが、十字架のうえで「完了した」と叫んで息を引き取られた時に、午後の12時から十字架の辺りを覆っていた闇が消えました。そして、人間が神に近づけないことのシンボルであったエルサレムの神殿の分厚い幕が上から下に真っ二つに裂けました。神と人とを隔てていたものがなくなったのです。どんなに暗闇の力が働くとしても、主イエスの力はそれよりもはるかに大きいのです。主はその絶大な力を私たちを罪から救い出すために働かせてくださいました。

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