2020年5月17日 『真実の礼拝とは』 (ヨハネ4章15~24節) | 説教      

2020年5月17日 『真実の礼拝とは』 (ヨハネ4章15~24節)

 今日も、先週の続きで、ヨハネの福音書4章から、主イエスがサマリアの女と出会ったという出来事から、主イエスが私たちに何を教えようとしておられるのかをともに考えたいと思います。主イエスがスカルの町にあった井戸端に座っていると、そこに一人の女性が水を汲みに来ました。時間はお昼の12時で、非常に暑い時間でした。彼女は、他の人の目を避けるためにあえて、誰も水を汲みに来ない真昼に水を汲みに来ていました。その彼女に主イエスは「水をください」と頼むのですが、サマリアの女は、ユダヤ人の男が自分に水をくれということにびっくりして、二人の間に会話が始まります。最初は、主イエスがのどが渇いていて女に水を飲ませてくれるように頼んだのですが、途中から、立場が逆転して、主イエスが水を与える者であり、女がその水を欲しがるようになりました。特に主イエスが14節で言った言葉が彼女の心をとらえました。「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」もちろん、主イエスはH2Oの水のことを語っているのではなく、人の魂が永遠に生きるための罪からの救いを意味しておられたのですが、彼女にはそのことがわからず、イエスは、ずっと、H2Oの水のことを話していると思い込んでいました。彼女にとって、毎日水を汲みに来ることは苦痛でした。いつも人がいない時間を見計らって、そっと水を汲みに来て急いで帰るので、ストレスが溜まっていました。もし、イエスが与えるような水があれば、自分は毎日水を汲みにくる必要はないと思ったサマリアの女はすごくその水が欲しくなりました。それで、彼女は15節で次のように言いました。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水をください。」彼女は、この時点では、自分の魂の問題にはあまり興味はなかったでしょう。ただ、そんな水があれば自分の生活はずっと楽になると考えていました。

(1)主イエスのチャレンジ
 サマリアの女は、主イエスが語った水の意味を正しく理解していなかったので、主イエスは、彼女にとって今一番必要な水を得るために必要なことについて語り始めました。主イエスは、突然、この女に命令しました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」彼女の人生にとっては、のどが渇いていることよりも、彼女の魂が罪によって渇いていることのほうがはるかに大きな問題でした。彼女の生活が毎日水を汲に来なくてもよくなって便利になることよりも、彼女が罪に縛られた生活から解放されて、新しい生き方を始めることのほうがはるかに重要だったのです。主イエスが、この世に来られたのは、罪のないイエスが私たちの代わりに十字架で罪の罰を受けることによって、人々が罪の裁きから解放されるためでした。人々は、自分の罪を認めて、罪を悔い改めて、イエスの十字架の死による罪の許しを受け取らなければなりません。主イエスは、このサマリアの女を罪の赦しの道に導こうとしておられるのです。彼女に罪を告白して罪の赦しを受け取るチャンスを与えようとしおられました。サマリアの女はイエスの言葉にびっくりしました。自分が、これまで結婚と離婚を繰り返して悲惨な人生を歩んできたことを、初対面の主イエスが何もかも知っているのかと思ってびっくりしたのです。彼女はちょっとごまかすような感じで答えました。「私には夫はいません。」彼女の言葉は嘘ではありませんが、かなりの部分を隠していました。しかし、彼女がどんなにうまく隠そうとしても、主イエスに対してはまったく無意味でした。ただ、彼女に対する主イエスの言葉にはやさしさがあふれています。スカルの町の人間が聞いたら、「お前はふしだらな女だ。5人もの男と結婚しては離婚して、挙句の果てには新しい男と同棲しているのだからな。」と厳しく彼女を非難するはずです。主イエスも、「あなたは真実を隠している。」とか「あなたの生活は間違っている。」などと言うこともできたはずですが、主イエスは、彼女を批判する言葉ではなく、愛と善意の言葉で答えておられます。主イエスは次のように言われました。17,18節を読みましょう。「自分に夫がいないと言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」主イエスは、「あなたが言ったことは本当です」と言って彼女の言葉をやさしく受け止められました。太陽と北風というイソップの話がありますが、人は、誰かからきつい言葉で責められると心を固く閉じてしまいますが、愛をもって話しかけられると心を開きます。彼女の場合もそうでした。
 彼女は、自分の生活のすべてを言い当てた主イエスに対して、心を閉じるのではなく、むしろ心を開きました。彼女が主イエスの言葉の中に暖かさを感じたからだと思います。19節の彼女の言葉を読みましょう。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。」ここで、彼女が主イエスを預言者だと告白していますが、これは、サマリアの女にとっては「救い主」と告白していることと同じ意味を持っています。実は、サマリア人もユダヤ人と同じように救い主メシアが来ることを待ち望んでいました。ただ、サマリア人は、ユダヤ人と違って、旧約聖書の中でも創世記から申命記までのモーセ五書と呼ばれる5つの書物しか聖書と認めていませんでした。そのため、メシアに関する預言も、ユダヤ人と比べると非常に限られていました。彼らが救い主を預言する言葉だと考えていたのは申命記18章18節の言葉でした。「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じるすべてのことを彼らに告げる。」彼女は、主イエスの言葉を聞いて、主が自分の生活のすべてを知っておられることを悟り、このイエスが、申命記の言葉に預言されていた預言者だと確信したのです。彼女は、もはや自分ことを隠すことを辞めて、主イエスの言葉に従おう決心しています。彼女は結婚と離婚を繰り返していましたが、決して楽しんでそうしていたのではなかったはずです。彼女にも幸せな結婚生活をしたいという思いがあったはずですが、いろいろな理由で幸せな家庭を築くことができず悩んでいたことでしょう。そして、彼女は、今、別の男との同棲していましたが、決して満たされていなかったと思います。当時の女性は立場が非常に弱く、一人で生きて行くことは不可能に近かったので、彼女は仕方なく同棲していたのではないでしょうか。彼女は、心の中で、自分の生活がこのままではだめだと思っていました。そんな時に、このイエスに出会って、彼女は不思議な平安を感じていました。そして、このイエスに従えば自分の人生が新しく変わるのではないかと新しい希望を抱いたのです。「あなたを預言者だとお見受けします」という短い言葉の中に、彼女は自分のそれまでの生活を悔い改めて、主イエスを信頼して、新しい生活を始めたいという気持ちを抱いていたと思います。

(2)真実の礼拝
 サマリアの女は20節で「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」と言いました。彼女は、何を言おうとしているのでしょうか。彼女は真剣に神を礼拝したいと思ったのだと思います。ただ、その時に、サマリア人として抱いていた疑問がわいてきました。さきほども言いましたように、サマリア人は旧約聖書の最初の5つの書物だけを聖書と認めていました。サマリア人はダビデ・ソロモンがエルサレムに神殿を建てて、そこを礼拝の場所に決めたことを認めていませんでした。それで、彼らは、エルサレムに対抗して、ゲリジム山という山に神殿を造ってそこで礼拝をしていたのです。創世記では、アブラハムが神の声に従って遠くの国から初めてカナンの地に入ったときに、祭壇を築いた場所が、このゲリジム山の近くでしたし、また、モーセの時代にゲリジム山は神の祝福を宣言する場所と決められていました。ゲリジム山はスカルの町のすぐそばにありました。彼女は、本当に神を礼拝したいと思ったのですが、自分はどこで礼拝をしたら良いのか分からなくて、主イエスにこのように言いました。すると主イエスが21節で次のように答えられました。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」このイエスの言葉は、実は、歴史の中でも実現しました。主イエスの十字架から約40年後の紀元70年に、反抗を続けるエルサレムを攻撃し、エルサレムは神殿も含めて完全に破壊されてしまいます。また、同時に何万人ものサマリア人たちがゲリジム山でローマ軍によって虐殺されました。実際に、この2つの場所での礼拝は、そこで終わってしまうのですが、それ以上に大切なことは、主イエスの十字架と復活によってもたらされた神様と私たちの間の新しい契約によって、エルサレムの神殿での礼拝も、ゲリジム山での礼拝も、それぞれの場所で行われる儀式などを含めてすべてが過去のものとなりました。ただ、主イエスとサマリアの女が話をした時は、まだ、神と人間の間の新しい契約は始まっていません。その段階、すなわち、旧約聖書の時代においては、サマリア人が旧約聖書全体を受け入れずに、モーセが書いたと言われる最初の5つの書物だけを聖書と認めていたために、それ以後神様がイスラエルの民に示された計画や教えをサマリア人は知りませんでした。それで、主イエスは22節で「救いはユダヤ人から来るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」と言われました。サマリア人は、聖書のある個所を自分たちに合うように修正してゲリジム山で礼拝していましたが、ユダヤ人たちは、神の啓示に基づいて礼拝をしていました。その意味ではサマリア人の礼拝は正しいものではなかったので、主イエスは救いはユダヤ人から来ると言われたのです。
 ただし、ここで、主イエスがサマリアの女に言いたかったことは、どの場所で礼拝をするのが正しいのかということではなく。どのような礼拝をするのが正しいのかということでした。23節の主イエスの言葉を読みましょう。「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。」旧約時代の礼拝は、礼拝のやり方が細かいところまで決められていて、それ以外の礼拝は受け入れられませんでした。礼拝の場所もエルサレムの神殿だと決められていました。礼拝の中心は、いけにえを捧げることでしたが、動物をいけにえとして捧げることは、実は、キリストを示すひながただったのです。しかし、主イエスがこの世に来られ、動物のいのちではなく、神である主イエスがご自分のいのちをいけにえとして捧げてくださったので、旧約時代の礼拝の役目は終わりました。これからは、主イエスの十字架と復活に基づく神と人間の新しい契約による礼拝をしなければならないのです。では、新約時代に求められる礼拝とはどんな礼拝なのでしょうか。主イエスは、24節で「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」と言われました。これはどういう意味でしょうか。まず、神は霊ですから、私たちのような目に見える形を持っておられません。目に見える姿を持っていると、神様は一つの場所にしかいることができません。しかし、神は霊ですから一つの場所に縛られることがありません。私たちはどこにいても、いつでも、神を礼拝することができます。もはや、場所や時間の束縛から解放されました。また、神が霊であるということは、神は今も生きておられることを意味します。私たちは賛美で「主は生きておられる」と歌いますが、私たちは本当に神様が今も生きておられることを自覚しつつ礼拝しているでしょうか。もし、自覚しているなら、私たちはいい加減な態度で礼拝することはできません。だから、私たちは「まこと」の礼拝を捧げなければなりません。ここで、主が真の礼拝と言われたのは、偽りの礼拝に対する真の礼拝という意味ではなく、旧約時代の、将来の姿を表すひながたとしての礼拝に対して本物の礼拝という意味です。旧約時代は、すなわち、イエスが来られるまでの時代に行われていた礼拝は、すべて将来来られるイエスを指し示すものでした。当時の礼拝は、いけにえを捧げることだけでなく、いろいろな祭りや儀式すべてが細かく決められていましたが、それはそれらすべてのものが正しくイエスを表すためだったのです。でも今や、イエス本人が来られたので、もはや影のような礼拝は必要ありません。旧約時代の礼拝には、いつも祭司がいて、神への祈りもすべて祭司が仲介者として働いていました。しかし、イエスが来られた後は、礼拝に祭司は必要ありません。私たちと神様との間を取り持つ唯一の仲介者は主イエスですから、礼拝も賛美も祈りもすべて、主イエスを通して神に捧げられるべきものです。礼拝の土台となるのは聖書の言葉と聖霊の導きです。では、具体的には、私たちはどのようにすればよいでしょうか。パウロは1テサロニケ16節から18節で次のようにまとめています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」礼拝とは、日曜日に会堂に集まって皆で捧げる礼拝だけが礼拝ではなく、毎日の生活の中で心を神様に向けることが礼拝です。主イエスの十字架と復活によって罪が赦されて永遠のいのちが与えられていることを喜び、感謝すること、そして、神様に祈りを捧げること、これが礼拝です。そこには当然のこととして神様への尊敬の心が含まれています。神様は霊ですから今も生きておられて、私たちの礼拝を受けておられるのです。私たちは、神様が喜ぶような霊とまことによる礼拝を捧げているのか、今一度自分の心に尋ねてみましょう。

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