2020年5月31日 『信じる者に働く神の力』(ヨハネ4:43-54) | 説教      

2020年5月31日 『信じる者に働く神の力』(ヨハネ4:43-54)

ペンテコステ

ペンテコステとは、ギリシャ語で50日目の祭りという意味です日本語では五旬節と呼ばれます。これはユダヤ教の最大の祭りである過越しの祭りから50日目の祭りで7週の祭りとも言われていますが、ユダヤ教では、大麦の収穫を神に感謝する祭りでした。主イエスが復活されたのが過越しの祭りの時だったので、ペンテコステは主の復活からも50日目になります。イースターの7週後です。イエスが復活し40日目に天に帰られた後、主イエスを信じる者たちは、五旬節の日にエルサレムの家に集まって祈っていたところ、主イエスが約束していたとおり、彼らのうえに特別なかたちで聖霊が下り、一人一人が外国の言葉で祈り始めるということが起こりました。聖霊の力を受けた弟子たちやイエスの信者たちは新しい力を受け、特に、その日、弟子ペテロの力強い説教によって1日で3000人もの人がイエスを信じました。これがキリスト教会の始まりです。主イエスが地上で働かれた時代は、主イエスの近くにいる人たちだけが主イエスに直接会うことができました。しかし、今は、聖霊の時代で、主イエスを心から信じる人々には、その人のうちに聖霊が働いてくださることが約束されています。イエスの弟子たちが変わったように、私たちも、聖霊に満たされる時に、神の力を受けることができます。ある人は、聖霊に満たされることを、風を受けて進むヨットに例えました。ヨットにはエンジンはついていません。ヨットはただ、帆を張って風を受けて前に進みます。自分の力で動くのではなく、風の力に流されて動くのです。そのためには、ヨットを操縦する人は、いつも風の動きをよく見て、風を最大限に受けて前に進みます。いくら風が強く吹いていても、ヨットの帆が風を受けるように調整されていないとヨットは全く進むことができません。それと同じように、いくら聖霊がいつもともにいて働いておられるとしても、私たちが、聖霊に向かって心が開かれていなければ、聖霊の力は私たちのうちで働くことができません。聖霊に満たされるためには、いつも神様のほうを見ていなければなりません。神様の私たちへの言葉である聖書を読んでいなければなりません。そして、祈りをとおしていつも神様といっしょにいなければなりません。そうすると、正しい方向に向けられたヨットの帆は風を受けてすいすい進んで行きます。聖霊に満たされる時、聖霊の力によって私たちは動かされるようになるのです。
聖霊に満たされると、どのようなことが起きるのでしょうか。エペソ5章18節から21節までを読みます。「18また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。19詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。20いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。21キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。」御霊に満たされなさいという命令は、詳しく言うと、御霊に満たされ続けなさい。という意味です。ここで、パウロは御霊に満たされた人の特徴を三つ上げています。19せつにはいろいろな歌で主を賛美しなさいと言われていますが、これは、主を信じ主とともに生きることを喜ぶという意味です。20節は、すべてのことにおいて神に感謝する人になります。21節は、神様の命令や御心に従う人になるのです。

信じる者に働く神の力

 主イエスは、サマリアでの出来事が落ち着くと、旅を続けて、本来の目的地であったガリラヤ地方に入られました。 45節に、主イエスが、ガリラヤに入られた時に、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したと書かれています。そして、彼らが主イエスを歓迎した理由として、ガリラヤの人々も祭りの時にエルサレムに行っていて、そこで、イエスが行われたことをすべて見ていたからでした。ということは、ガリラヤの人々は、主イエスがエルサレムで行われたいろいろな奇跡やわざを見ていたからでした。ヨハネの福音書の2章23、24節には、「過ぎ越しの祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。しかし、イエスご自身は彼らに自分をお任せにならなかった。」と書かれています。彼らの信仰が、イエスのしるしを見て、イエスの力を信じたという一面的、表面的な信仰で、自分の罪を悔い改め、イエスを人生の主として尊敬するまでには至っていなかったことを主イエスは知っておられたのです。それで、主イエスは、ガリラヤに入ったときに人々から熱烈な歓迎を受けても、彼らの全面的に信頼してはいませんでした。そのような状況の中で、主イエスは、ガリラヤのカナという村に行かれました。そこは、聖書にも書かれているように、かつて、主イエスが最初の奇跡として、結婚式の中でぶどう酒がなくなるという事件が起きたときに、水をぶどう酒に変えられた村です。カナは、山の中腹にある村で、ガリラヤ湖の湖畔の町カペナウムからは、20キロ坂道を上ったところにありました。

(1)表面的な信仰が試される
 主イエスがカナの村に入られると、そこへ、カペナウムに住んでいた王室の役人が、イエスがエルサレムからガリラヤに来られていることを聞いて、イエスのところにやって来ました。この人は王室の役人という仕事をしていましたが、当時、イスラエルに王様はおらず、ローマ帝国がこの地域全体を支配していました。ただ、主イエスがお生まれになった頃は、ヘロデ大王という王様が、ローマ帝国の許可を受けて、ユダヤの王として支配していました。ヘロデ大王が死んだときに、ユダヤはヘロデの息子たちによって4つの地域に分けられたのですが、それぞれの息子たちは、王と名乗ることができませんでした。ローマ帝国が赦さなかったのです。ローマ帝国は彼らに王というタイトルの代わりに領主というタイトルを与えて、その地域に支配者であることを許可していました。イエスが神の子としての働きを始めたころ、ガリラヤ地方の領主はヘロデ・アンテパスという人物でした。彼はヘロデ大王の息子です。ローマ帝国は彼が王と名乗ることを許さずに、領主というタイトルを与えていたのですが、ユダヤの人々は、彼がヘロデ大王の息子でもあるので、彼をガリラヤの王様と考えていたようです。したがって、イエスに近寄って来た男は、領主ヘロデ・アンテパスに仕えていた人でした。彼が、イエスのところに来たのは、自分の息子が病気にかかっていて死にそうだったからです。ガリラヤ地方の支配者に仕えていたので、彼は上流階級の裕福な人間だったでしょう。しかし、そんな彼にも悩みがありました。自分の息子が病気で死にかかっていたのです。どんなにお金があっても、地位が高くても、それによって子供の病気を治すことはできません。親にとって自分の子供が死ぬことほど大きな悲しみはありません。この役人は、藁にもすがる思いでイエスのところにやって来ました。この人と同じでなくても、人生にはいろいろな悩みや苦しみがあります。自分や家族の病気も苦しみの一つです。しかし、それは不幸なことではありません。病気になることは大変なことですが、絶望ではありません。神様は病気を通しても、私たちに様々な祝福を与えてくださいます。以前、この教会で説教を語ってくださっていた石田和男先生が、「病気になった人しか祈れない祈りがある」とよく言っておられました。事故で体の機能をほとんど失った星野富弘さんも、富弘さんにしかできない大きな働きをしておられます。ガリラヤの王室の役人にとって、息子の死に至る病は、大きな苦しみの原因でしたが、彼がイエスのところに来ることによって、彼は大きな祝福を得ることになるのです。彼は、ガリラヤの王室の役人という身分の高い人でした。このころ、主イエスが誰なのか多くの人はいろいろな考えを持っていました。ガリラヤの人々の中には、イエスは大工の子供にすぎないと考えていた人もいました。ですから、もし、この役人がプライドの高い人であったら、まだ年の若いイエスのところに自分の息子の癒しを頼むために、イエスにひざまずくことなどできなかったでしょう。イエスのところに来ていなかったら、確実に彼の息子は死んでいました。主イエスのところに来ることによって、彼は人生を変える祝福を受け取りました。私たちも、このことを忘れないで、困難な状況も神様の祝福の源なることを信じて、神の大きな力と働きを信じて前に進みたいと思います。

 48節の役人に対するイエスの言葉はとても冷たい言葉のように思います。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」ここに「あなたがた」と書かれています。主イエスは、ここで、王室の役人だけに語っているのではなく、自分を大歓迎してくれたガリラヤの人々全員に向かって語っておられるのです。主イエスは、この王室の役人を含めて、ガリラヤの人々の信仰が表面的なもので、もっと信仰の成長が必要であることを見抜いておられました。このイエスの言葉は、45節の記事と関係があります。ガリラヤの人々はイエスを信じていたのですが、その信仰が表面的、自分に都合の良い信仰でした。ガリラヤの人々は、祭りの時にエルサレムを訪れていて、そこで、主イエスが奇跡のわざを行うのを見て、それで、主イエスを信じていたのです。彼らは、イエスが教えておられたことを信じて、自分の罪を悔い改めてたのではなく、イエスの奇跡を見て、イエスの力を見て、イエスが神だと信じていたに過ぎなかったのです。この役人の信仰が表面的であったことは、彼のイエスに対する求め方に現われていました。それは、一つは、役人がイエスにどうしても自分の家に来てほしいと懇願していることです。この役人は、イエスが自分の家に来て、息子のうえに手を置いてイエスが祈ったら、息子の病気が治ると考えていました。それと比べると、ローマの百人隊長のイエスへの信仰はもっと大きい信仰でした。彼の使用人が病気になったので、主イエスに癒してもらおうと頼みました。百人隊長は、自分の家に来てもらう必要はないので、ただ彼が癒されるという言葉を下さいと主イエスに頼みました。言必要はないと信じていて、イエスの「癒されよ」という言葉だけで十分だと考えていました。事実、主イエスは、言葉だけで、人々を癒すことのできるお方です。もう一つの点は、この役人が49節で、「どうか子供が死なないうちに、下ってきてください。」とちょっと焦ってイエスに頼んでいいることから分かります。彼は、主イエスは病気を癒すことはできるが、 死んでしまった人を生き返らせることはできないと考えていました。 主イエスは、この役人のまだ不十分な信仰を見抜いておられましたし、自分を歓迎したガリラヤの人々の信仰も不十分であることを見抜いておられたので、48節の言葉を言われたのです。役人は、ある意味で、イエスの言葉を無視して、あるいはまったく眼中になく、イエスに頼み続けました。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」主イエスは、彼の信仰の弱さを知っておられましたが、彼に憐みを示されました。

(2)表面的な信仰から本物の信仰へ
主イエスは、役人の願い、つまり、彼といっしょにカペナウムへ行って、そこで、彼の息子に手を置いて祈ることはされませんでした。ただ、役人にこう言われました。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」少し先の53節を読めばわかりますが、実は、イエスがこの言葉を言われたのと同じ時間に、役人の息子は癒されていました。このイエスの言葉は役人にとって大きなチャレンジでした。そして、彼の信仰生活の大きな転機となる分かれ道でした。この時、彼には2つの道がありました。一つは、主イエスの言葉を信じて、主に言われたとおりカペナウムの自分の家に帰ることです。もう一つは、自分の考えに従って、しつこく「一緒に来てください。今すぐわたしと一緒に家に来てもらわないと息子は助かりません。」とイエスに訴え続けることです。つまり、み言葉に従うか、自分の考えに従うかの選択です。これは、私たちにも当てはまりますが、どっちを選ぶかによって、私たちの信仰が大きく変わります。この役人は、イエスが言われた言葉を信じて、その通りに実行しました。これが本物の信仰です。イエスの言葉を聞くのは誰でも聞くのですが、神様から言われたとおりに実行する人は多くないように思います。この役人は、ここで信仰の一歩を踏み出すことにしました。自分の考えにしがみつくのをやめて、主が言われた言葉を信じました。自分の息子が治ったという証拠はありませんでした、イエスの言葉を信じて、それを実行しました。自分の家に帰って行ったのです。この決断が、彼の信仰を表面的な信仰から本物の信仰へとジャンプアップさせました。
 それで、この役人は、イエスのもとを離れて、ガリラヤのカナからカペナウムの家に向かって帰って行きました。ガリラヤ湖は海抜マイナス200mの低いところにあるので、彼はかなりきつい坂道を下っていました。その途中で、彼の家のしもべたちと出会い、彼らから、彼の息子の病気が癒されたことを聞きました。 大喜びの役人が、彼らに、息子が癒された時間を尋ねると、彼らは「昨日の第7の時に熱が引きました。」と答えました。ここで、注目してほしいのは、「昨日」という言葉です。第7の時とは、午後1時です。主イエスがこの役人に「行きなさい。あなたの息子は治ります。」と言われたのは、役人が家のしもべたちと出会う1日前の午後1時ごろでした。もし、この役人がイエスの言葉を聞いてすぐにカナを出発していれば、歩いて帰っていたとしても、その日の夜にはカペナウムに到着します。しかし、彼が家のしもべたちと出会ったのは次の日ですから、この役人はイエスと別れた後、すぐに家に帰らずに、何らかの理由で、その日、カナに泊まって次の日にカナを出発していました。これは、ある意味、すごい信仰だと思います。普通であれば、イエスから「息子は治ります」と言われたとしても、一刻も早く家に戻って息子の状態を確認したいと思うはずです。しかし、彼は、主イエスの言葉を100%確信を持って信じていたので、カナに一泊することにしたのでしょう。彼がカペナウムの家を出てイエスのところへ行くときは思いつめた感じで坂道を登って行ったことでしょう。しかし、カナからカペナウムへ向かう帰り道では、まったく落ち着いた様子で坂道を下って行ったのだと思います。状況が変わったわけではありませんでした。彼の信仰が変わったことで、彼の心の中もすっかり変わっていたのです。
そして、この役人は、しもべたちから、息子の病気が癒された時間が、主イエスが「あなたの息子は治ります」と言われた時間が同じだったことを知ります。
 この役人は、主イエスへの信仰のチャレンジを受けたときに、主イエスの言葉を信じることを選択したことによって多くの祝福を受けました。彼の息子の病気が癒されたことは、もちろん、彼にとって大きな祝福だったと思います。しかし、それよりも大きな祝福を受けました。彼は、イエスが誰であるかを知り、家族全員が救いに導かれたからです。もしかすると、彼がカナで一泊したのは、イエスから罪からの救いについてすべてのことを教えてもらっていたからかも知れません。彼は、家に帰って、自分の妻や子供たちに、自分がイエスから聞いたことをすべて話したでしょう。そして、家族全員が主イエスを信じました。この役人が神様からこんなに素晴らしい祝福を受けるためには、二つの条件がありました。一つは、神の言葉を聞くことでした。ローマ人への手紙10章17節にはこう書かれています。「信仰は聞くことから始まります。聞くことはキリストについての言葉を通して実現するのです。」役人は、イエスの言葉を聞きました。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その言葉を聞き、その言葉の意味をよく考えました。そして、次に必要なことは、信仰を働かせることです。役人は、しつこくイエスに「自分の家に来て息子のために祈ってください。」と頼むことをしませんでした。自分の考えに頼るのをやめて、主イエスの言葉を信頼して、その言葉を信じることを決心しました。決して簡単な決心ではなかったと思いますが、彼は、あえて、イエスの言葉を信じる道を選んだのです。神様の祝福は、私たちが、自分の信仰を働かせる時に与えられるのです。しかも、この祝福の体験は、彼が人生の中で最も暗い道を歩んでいた時に与えられました。皆さんの中には、この役人と同じようなつらい経験をしている方がおられるかも知れません。しかし、そのつらい経験は不幸なのではなく、神様の祝福にわたしたちを導きいれる時であることが多いです。この役人のように、イエスの言葉をしっかりと聞いて、キリストのチャレンジに信仰をもって応答する者でありましょう。             

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