2020年7月19日 『いのちのパン主イエス1』(ヨハネ6章30-40節) | 説教      

2020年7月19日 『いのちのパン主イエス1』(ヨハネ6章30-40節)

 先週のメッセージの最後のポイントは「神のわざ」ということでした。「神のわざ」とは、神様が行う働きという意味ではなく、神様が私たちに求めておられるわざ、あるいは、神様が喜ぶわざという意味です。それは、私たちが、父なる神が私たちのためにこの世界に送ってくださった御子イエスを信じるということでした。主イエスは、自分を追いかけてきた群衆に向かって、食べ物のパンをもらうことよりも、自分を神として、救い主として信じることが大切だと言われました。ところが、彼らは、イエスの言葉に対して、次のように答えています。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。」この人々は前の日に、5つのパンと2匹の魚で群衆のお腹をいっぱいにするという主イエスの奇跡を見ていたにも関わらず、イエスを信じるためにもっとしるしを行えと要求しています。イエスを信じない人々は、不信仰の人々でした。そのために、何度、しるしを見てもイエスを信じることができず、もっと奇跡を行え、奇跡を行えと、求め続けるのです。しかし、いくらしるしを見ても、彼らはイエスを信じる気持ちがないので、信じることができません。当時のユダヤ人は神の御心を理解せず、自分勝手に救い主のイメージを作っていました。彼らにとって、救い主とは、多くの不思議なわざやしるしを行って、世界を征服する王様のような存在だったので、そのような王様にふさわしいしるしを求めたのです。旧約聖書の時代に、砂漠を旅して食べ物に困っていたイスラエルの民のために指導者のモーセが神に祈った結果、毎日マナという不思議な食べ物が与えられるという特別な出来事が起こりました。その後、イスラエルの民は、40年もの間、砂漠をさまよいましたが、飢え死にすることはありませんでした。この出来事は人々にとって神様からの特別なしるしでした。それで、イエスを追いかけて来たユダヤ人たちは、その出来事を持ち出して、主イエスに、同じような奇跡をするように要求したのです。すると、イエスは次のように答えられました。32、33節を読みましょう。「まことにまことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなた方に天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」ここで、主イエスは、モーセの時代に神様がイスラエルの民に与えてくださったマナという不思議なパンと、今、父なる神がすべての人に与えようとしているいのちのパンについての説明をしておられます。、マナはモーセが与えたのではなく父なる神が与えたものです。そして、マナは当時のイスラエルの民の体を守る食べ物になりました。マナは素晴らしい神様からのプレゼントでしたが、マナは彼らの体のためだけのものでした。しかし、今、父なる神様が私たちに与えようとしておられる「いのちのパン」は、人々に本当のいのちを与えるパンであり、それは、主イエス・キリストご自身のことなのです。しかし、群衆は、普通の食べ物のパンのことしか考えていなかったので、イエスの言われた言葉の意味が分かりませんでした。それで、彼らは、主イエスに「主よ。そのパンをいつも私たちにお与えください。」と言いました。この時、彼らは、主イエス・キリストが神であることが分からないために、イエスの言葉の意味が分からず、ただ、働かなくても食べられるパンがほしいと思って、そのパンをくださいと主イエスにたのんでいます。そこで、6章の後半はずっと、主イエスが自分がいのちのパンであることを詳しく丁寧に教えておられるのですが、そのきっかけになったのが、彼らが「主よ。そのパンをいつも私たちにお与えください。」とお願いしたことだったのです。

 主イエスは、群衆があまりにも自分の言葉を理解しないので、彼らにもよく分かるように宣言されました。「わたしがいのちのパンです。」ヨハネの福音書の4章では、主イエスは、生ける水を欲しいと願っているサマリアの女に「わたしが与える水を飲む人はいつまでも決して渇くことがありません。」と言われましたが、ここでは、「私が与えるパンを食べる人は」とは言わずに、「わたしがいのちのパンです。」と言われました。ここには大きな違いがあります。イエスが与えるパンを食べると飢えることがないのではありません。主イエスが持っているパンを食べるのではなく、主イエスご自身がパンなのです。もちろん、主イエスは、私たちの体の空腹を満たすパンのことを話しておられるのではなく、魂の飢え渇きを満たすものとして語っておられます。主イエスはいのちのパンですから、いのちのパンを食べると、私たちの魂は、永遠に満たされると主イエスは言われたのですが、イエスを食べるとはどういうことでしょうか。それが、35節の後半に書かれているのですが、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ここに2つの動詞が使われています。それは「来る」という動詞と「信じる」という動詞です。主イエスのところに来るとは、今までの自己中心の生き方をやめて、イエスを自分の人生の主として生きることを決断することを意味します。ここには、はっきりとは書かれていませんが、イエスのところに来るためには、自分の罪を悔い改めることが前提となっています。そして、主イエスを信じるとは、主イエスを、神の子、救い主メシアとして完全に信頼すること、そして、罪からの救いは主イエスを信じる信仰によってのみ与えられることを信じることです。悔い改めることと信じることは、いわば1枚のコインの表と裏のようなもので、悔い改めることは、罪から離れることであり、信じることは、救い主に向かって近づくことだと言えます。いずれにしても、イエスのところに来ることとイエスを信じることとは切り離すことのできません。

 主イエスは、自分が「いのちのパンである」ことを宣言された後、集まっていた人々の不信仰について語られました。「しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。」イエスを追いかけていた人々は、イエスの奇跡を何度も見ていました。イエスの教えを何度も聞いていました。しかし、彼らが見たイエスの奇跡も、彼らが聞いたイエスの教えも、彼らの信仰には結び付きませんでした。今でも、聖書を読む人、聖書を研究する人はたくさんいます。しかし、イエスを救い主と信じる人は少ないです。主イエスは、目の前の群衆は自分から得になるものを得ようとしているだけで、自分の魂の問題、罪の問題などには無関心であることを見抜いておられました。しかし、それでも、主イエスはがっかりすることはありませんでした。主イエスははっきりとした確信を持っていました。それが37節の言葉です。「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。」主イエスは、父なる神が自分に与えてくださる人は必ず自分のところに来ることを知っておられたのです。父なる神がイエスに与える人とは誰のことでしょうか。それは主イエスを救い主と信じて救われる人のことですが、父なる神は全知全能の神であるので、それらの人々をあらかじめ選んでおられたのです。そのことはエペソ人への手紙1章4節にも書かれています。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」これは、本当に不思議な言葉ですが、イエスを信じて救われた者にとっては素晴らしいみ言葉です。一人の人間が救われるということは、実は、私たちが生まれるはるか昔、永遠の昔に、父なる神様の心の中から始まっていたことなのです。その時から、私たちは神様によって選ばれていました。そして、私たちがイエスを信じたときに、私たちを罪のない者として受け入れてくださり、そして、神の前に傷もけがれもない者として育てようと神様は心に決めておられたのです。しかも、ここで、主イエスが言われたように、私たちは、父なる神から御子イエス・キリストへの素晴らしいプレゼントとして与えられた者なのです。従って、御子イエスは、父なる神から与えられた一人一人を、父からの愛のこもったプレゼントとして見るわけです。救われた私たちは、このみ言葉によれば、父なる神が御子イエスに与えた素晴らしいプレゼントです。そういう訳で、私たちが自分の罪を悔い改めてイエスのところに来て、イエスを救い主として信じる時に、私たちは、イエスにとって、父なる神からの特別なプレゼントになります。御子イエスは、私たちを父なる神からの素晴らしいプレゼントとして扱ってくださいます。37節の後半で言われているように、主イエスは、ご自分のところに来る者を決して外に追い出したりすることはありません。今、この礼拝に集まっている人は、皆、父なる神がイエスに与えてくださった人々です。永遠の昔から、神様があなたを選び、イエスにお与えになったのです。あなたは、自分で教会に来ているとか、誰かに連れられて教会に来ているとか、そのように感じておられることでしょう。確かにそうなのですが、そのずっと背後には、神様があなたのことを永遠の昔から選んでおられて、いろいろな経過を経て、今日、私たちの教会で礼拝を守っておられるのです。あなたが罪を悔い改めて、イエスを救い主と信頼して生きることを決心する時に、あなたは、本当に父なる神様から御子イエスへの素晴らしいプレゼントになります。その素晴らしいプレゼントであるあなたを主イエスは決して追い出すことなどありません。

 御子イエスはなぜ、父なる神から与えられた人たちを決して見捨てることがないのか、その理由が38節から40節までに述べられています。第一に、御子イエスがこの世に来られたのは、自分の思いを行うためではなく、父なる神のみ心を行うためだったからです。主イエスがこの世に来られた目的はただ一つだけです。それは、自分をこの世に遣わされた父なる神の御心に完全に従うことでした。そのことはこれまでにも主ご自身が繰り返して話しておられます。例えば、4章34節では、主イエスは「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方の御心を行い、そのわざを成し遂げることです。」と言われました。従って、主イエスが父なる神から与えられた者たちを救いに導き、永遠のいのちを与えてくださることは永遠に保証されています。主イエスは39節で次のように言っておられます。「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。」主イエスは、「一人も失うことなく」と言われました。私たちは、主イエス・キリストを信じて、罪から救われただけで終わるのではありません。主が私たちのために働いてくださって、私たちの地上での生活の間、ずっと私たちを守り支えてくださいます。そして、終わりの日に、私たちが裁きを受けることなく永遠の恵みの世界に入るようによみがえらせてくださることが約束されています。私たちが、どんなに弱く小さな信仰者であったとしても、誠実な心で自分の罪を悔い改めて「主イエスを救い主と信じます」という信仰告白をするならば、この主イエスの約束の中に入れられています。私たちは、主イエスの御手の中でしっかりと守られているのです。私たちは、信仰生活の中で、聖書の教えのとおりに生活ができていないと、自分はダメだと思って落ち込んでしまうことがあります。私たちが罪を犯したのであれば、それはすぐに神様に祈って悔い改めなければなりません。すると、神様は真実で正しい方ですから、その罪を赦すだけでなく、私たちを正しくない思いや行いから清めてくださるとヨハネの手紙に書かれています(1章9節)。ヨハネは3つの手紙を書きましたが、どれも教会のクリスチャンに書き送ったものです。その中で、ヨハネは、「もし自分に罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真実はありません。」と言っています。私たちは完全に罪0%で生きることはできません。大切なことは、その罪に対して敏感な者であり、罪があればすぐに神に悔い改める、この姿勢が大切です。私たちに「自分はダメだ」と思わせるのはサタンです。サタンは私たちをつぶして神様から引き離そうと必死になって働きかけて来ます。私たちが落ち込みそうになったときは、サタンの言葉ではなく、主イエスの言葉に耳を傾けなければなりません。赤ちゃんの場合、ある日突然歩きだす赤ちゃんはいません。何度も失敗しては起き上がって歩き方を身に着けます。クリスチャンも失敗しない、罪をまったく犯さないクリスチャンはいません。罪を犯して倒れたときにどうすればいいのでしょうか。もう一度起き上がって、もう一度やり直してみることです。赤ちゃんは、そうやって、少しずつ歩くことを身に着けます。もし、赤ちゃんが倒れたときに、「自分はダメだ。一生歩けない」と思い込んで、起き上がらなかったら、本当に歩けなくなってしまいます。それと同じように、クリスチャンが何かに落ち込んだ時に、サタンの言葉を信じて「わたしはもうダメだ。ダメなクリスチャンだ。」と思い込んだら、本当にダメなクリスチャンになってしまいます。主イエスは、私たちが一人も失われないようにと、今も働いていると宣言しておられるのです。たとえ、あなたにダメなところがあったとしても、主イエスが、弱い私たちを助けて、私たちを永遠のいのちに導いておられることを忘れてはなりません。私たちは傲慢になってはいけませんが、いつも主イエスの御手の中に守られていることの確信を失ってはなりません。あなたは、主イエスを信頼していますか。それならば、何も恐れる必要はありません。あなたは、主イエスの御手に守られて、天国にまでエスコートしてもらっているのですから。

 ヨハネの福音書6章37節の言葉は、19世紀のイギリスの詩人シャーロット・エリオットの人生を変えました。彼女は体が弱くまた障害を持っていたので、神を恨んでいました。神様が愛の神というなら、なぜ自分はこんな苦しみを受けなければならないのか、そのように感じていました。彼女を助けようと思って一人の牧師が彼女を訪問しましたが、彼女は牧師に腹を立てて、牧師を罵りました。しかし、その牧師は、彼女を見つめて言いました。「あなたは自分自身に疲れているんじゃないですか。他に頼りになるものがないので、憎しみと怒りにしがみついているんですね。だから、あなたの心には苦々しい思いしかないんですよ。」シャーロットは言いました。「じゃあ、どうすればいいんですか?」牧師は答えました。「あなたがバカにしている信仰を試してみればどうですか。」「クリスチャンになれば、私もあなたのような心の平安を持つことができるのですか。じゃ、どうすればいいんですか。」牧師が答えました。「今、心の中にある憎しみも愛も怒りも恐れもプライドも恥も何もかも持ったまま、今のままでいいから、イエスに自分を任せなさい。」シャーロットは牧師の言うとおりに、ありのままの自分をイエスに任せるを決断しました。その時に、彼女の心は変わりました。主イエスの愛を感じて、不思議に心の中の苦々しいものが溶けて行きました。後に、彼女は、自分の体験を用いて讃美歌の詩を書くようになりました。そして、その詩の売り上げ金を捧げて、貧しい牧師家庭の子どもたちを助ける働きを始めました。彼女が書いた讃美歌の中で有名なものの一つが讃美歌271番「いさおなきわれを」です。これは、その後の大きな伝道集会の中でいつも歌われる有名な讃美歌となりました。「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりしません。」この言葉が彼女の人生を変えたのです。主イエスは、今もあなたをご自分のもとに来るようにと招いておられます。

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