2020年10月18日 『いのちの光、主イエス』(ヨハネの福音書8章12~20節) | 説教      

2020年10月18日 『いのちの光、主イエス』(ヨハネの福音書8章12~20節)

 ヨハネの福音書の中には、主イエスがご自分のことを指して「わたしは~である」と言われた言葉が7回記されているのですが、今日の箇所では、その2番目として、8節で「わたしは世の光です。」と言われました。主は、ご自分が説教を語る時に、自然の流れで語っておられるのではなく、いつも、自分の説教にもっともふさわしい時や場所を選んでおられました。7章では、主イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」と言われましたが、これは、仮庵の祭りの中で水の儀式が行われているときに言われた言葉でした。今日のヨハネの福音書8章12節からの箇所では、光について語られました。8章の出来事は、仮庵の祭りが終わったばかりの頃のことでした。エルサレムの神殿には、まだ祭りの雰囲気が残っていました。この仮庵の祭りの時に、水の儀式が行われていましたが、それは昼間に行われました。夜には神殿で明りの儀式が行われていました。この明かりの儀式は、神殿の一つ外側の「婦人の庭」で行われました。8章20節を見ると、「イエスは、宮で教えていた時、献金箱の近くでこのことを話された。」と書かれていますが、エルサレムの神殿の献金箱は、この婦人の庭に置かれていました。従って、主イエスは、この時、婦人の庭で人々を教えておられたのです。明かりの儀式のために、婦人の庭には非常に高い4本の柱が建てられて、柱のてっぺんに油を入れる4つの大きな鉢がついていました。従って、全部で16の鉢に灯りが灯されました。柱にははしごがついていて、日が暮れるころに若い祭司が柱のてっぺんにある鉢に油を注ぎ入れ、灯りをともしました。灯りがともると、神殿全体だけではなく、当時のエルサレムの町中が明るく輝いたと言われています。このことから、この明かりの儀式は非常に豪華な儀式であったことが分かります。この儀式は、昔、モーセの時代に、エジプトを脱出したイスラエルの民が荒野を旅していたときのことを記念するためのものでした。彼らが40年間荒野の危険な旅をしている間、ずっと、神様が彼らとともにおられました。神様がともにおられたことのしるしは昼は雲の柱であり、夜は火の柱でした。この儀式は、荒野を旅していたイスラエルの民が、つねに、火の柱として現われた神様によって守られたことを記念して行われていました。主イエスが、その儀式が行われた場所で、主イエス言われた言葉が、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」という言葉でした。

 ヨハネは、福音書の最初のところで、主イエスについて「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみに輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」と述べていますが、旧約聖書の中には、来るべき救い主メシアが永遠の光であることを繰り返し預言しています。例えば、イザヤ書60章19節には次のように書かれています。「太陽はもはや、あなたの昼の光とはならず、月の明かりもあなたを照らさない。主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの輝きとなる。」従って、主イエスが「わたしは世の光です」と宣言されたのは、自分が、確かに、神であり、約束の救い主であると宣言されたことを意味します。私たちが住む世の中には様々な暗闇があります。罪の闇、偽りの闇、無知の闇、悲しみの闇、そして、死の闇があります。しかし、そのような闇を照らす光として、救い主イエスは、この世に来られました。完全な暗闇であっても、光が一つあれば、闇はなくなります。この世の人々の心を覆っている多くの闇も、主イエスの光があれば、闇は消え去ります。この時、人々は婦人の庭にいて、そこに立っている4本の柱を見ながら、仮庵の祭りの時に非常に明るく輝いていた光を思い出していたでしょう。その光は、昔、モーセの時代に、荒野を中を危険な旅をしていたイスラエルの民の安全を守り、行くべき道を示した、神様の火の柱を表すものでした。イエスが「わたしは世の光です」と言われたのは、「わたしこそ、人生の厳しい旅の中であなたを守る光です。あなたに行くべき道を示す光です。わたしこそ、いつもイスラエルの民とともにいた栄光の光です。」という意味だったのです。主イエスは続けて言われました。「わたしに従う者は、けっして闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」イスラエルの民がエジプトを脱出した後40年間荒野を旅する間、常に、神様が雲の柱となって彼らとともにおられて、彼らを約束の国まで導いてくださいました。彼らは旅をしながら、水がある場所に来ると、移動していた雲の柱が止まります。するとイスラエルの民は、そこにテントを張ってしばらく滞在していました。しばらくして雲が動き始めると、イスラエルの民はテントをたたんで、旅を続けました。この雲の柱は、夜になると、雲の中に炎が現れ、火が燃えるような柱になって、イスラエルの民が行くべき道を導いていました。夜の荒野の旅は危険です。暗いと何も見えませんから、地面に何かあると、人々は躓いてしまいます。しかし、イスラエルの民は、明るく輝く火の柱がいつも彼らのそばにあったので、そのあとをついて移動する限り、彼らは安全であり、ちゃんと目的地に着くことができました。私たちを取り囲む世の中がたとえ真っ暗であっても、私たちは何も恐れる必要はありません。主イエスの光に照らされる時に、私たちは、闇の中を歩いていても倒れることはありません。そして、私たちにとっての約束の国、天国まで、主がしっかりと導いてくださるのです。
 それだけではありません。主は私たちに、「イエスに従う者は、いのちの光を持ちます」という約束をも与えてくださいました。主イエスを信じて、イエスの言葉に従って生きようとする者には、主イエスのいのちの光を持つという約束です。聖書は、二つのいのちがあると教えています。肉体のいのちと霊のいのちです。私たちは体は生きていても、神様を知らない人の霊のいのちは死んでいます。人間が肉体のいのちだけを持って生きるなら、他の動物と同じですが、神様のかたちに似せて作られている人間は、霊のいのちが与えられてはじめて、本当の人間になるのです。その時に、、私たちは、神様が私たちのために用意してくださる本当に意味のある人生を送ることができるようになります。その霊のいのちは体のいのちが朽ち果てた後も永遠に生き続けるいのちです。主イエスを信じて主に従って生きる者は、霊的ないのちの光を持つ者になります。私たちの人生には、いろいろ分からないこともあり、どっちに行けばよいのか分からないことがよくありますが、イエスの光を持っているならば、私たちは、暗い闇の中でも、道に迷うことなく目的地に到着できます。もし、イエスを信じないなら、この光を持つことはできません。そうなると私たちの人生は、暗闇を歩くような人生になってしまうのです。

 イエスがこのように語ると、聞いていたパリサイ人たちが批判しました。「あなたは自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。。」(13節) 旧約聖書の教えでは、裁判で判決をくだすときに、一人の人の証言だけで決めることは許されず、二人か三人の証言を必要としていました。彼らは、主イエスが教えたことを受け入れることを拒否して、イエスが一人で勝手に語っていることなので、信じることはできないと反論しました。それに対して、主イエスは14節でこう言われました。「たとえ、わたしが自分自身について証ししても、私の証しは真実です。聖書の律法では、裁判の判決を下すために、2,3人の証言が必要だと決められていましたが、これは、罪を持っている人間は嘘をつく可能性があるので、公正な裁判をするために2,3人の証言が必要だと決められたのです。しかし、イエスが言われたことは、裁判とは関係のないことで、自分が語る言葉は、完全な真実だという宣言です。パウロは、ローマ書3章4節で、「たとえ、すべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」と語っています。主イエスは、神であり、神のご性質の一つとして、真実な方です。したがって、主イエスには、人間の裁判の時のように2,3人の証人は必要ありません。主イエスは、世の光と言われました。光は目が見える人には必ず見えます。しかし、目が見えない人には見えません。光は見えるはずのものですが、パリサイ人たちは、イエスを信じる信仰がなかったので、イエスの言葉の光が見えていませんでした。したがって、主イエスが何を言っても、信じられずに疑ったのです。主イエスは続けて、「わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っている」と言われましたが、これは、ご自分が神であることを証言された言葉です。自分が天にいる神からこの世に遣わされて来て、十字架と復活の後に、ふたたび天にいる父のもとへ帰ることを言われました。しかし、パリサイ人は、イエスを神として信じていないので、イエスがどこから来てどこへ行くのかも知らないのです。

 パリサイ人は、自分たちは旧約聖書の律法の専門家であることを誇りに思っていました。そして、その律法をつかって、姦淫の現場で捕らえた女をさばき、そして、イエスを罠にはめようと考えていました。それに対して、イエスは15,16節で反論しています。主は言われました。「あなたがたは肉によってさばきます。」肉によって裁くとは、目で見える表面的なことだけで判断することであり、人間が生まれつき持っている自己中心の思いや偏見によって判断するということです。私たちは、自分の考えによって思い込むことがあります。それによって他の人を裁いてしまいます。しかし、主は「わたしはだれもさばきません」と言われました。それは、主イエスは、私たちの罪を裁くために来られたのではなく、私たちを罪から救うためにこの世に来られたからです。また、主イエスは、パリサイ人たちが、裁判では二人以上の証言が必要だと主張したことに対して、もともと、主イエスは神であり、世の光である方なので自分以外の証人は必要としないのですが、あえて、彼らの訴えに応えるために、自分には父なる神というもう一人の証言者がいると言われました。18節の終わりで、主は「わたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます」と言われました。しかし、実は、このような論争は以前にもあったのです。5章で、38年間寝たきりの人が癒された奇跡の後に、同じような論争がありました。その時にも、主イエスは、自分を証しするものとして、バプテスマのヨハネ、父なる神、聖書の言葉が自分について証言しているとパリサイ人たちに言っていたのですが、彼らはイエスの言葉を信じていなかったのです。
 
 パリサイ人たちは聖書の専門家でした。神のために働いている人たちでした。しかし、彼らは神を知りませんでした。自分たちの目の前に神ご自身がおられるのに分からなかったのです。彼らは、自分たちは神のことを知っており、聖書のことも知っていると思っていましたが、彼らは、知るべきことを何も知りませんでした。本当に悲劇的なことです。こんなに近くに神様がいるのに分からないのですから。彼らの目を覆っていたのは彼らの罪です。自己中心、自分が第一の罪の性質は人の霊の目を盲目にしてしまうのです。彼らは、神である主イエスから直接教えを聞いても、イエスを信じることができず、再び、イエスを捕らえようと思いましたが、イエスを捕らえることはできませんでした。主イエスが自分から私たちのためにいのちを捨てる時がまだ来ていなかったからです。私たちは、このイエスを暗闇を照らす光として、また、私たちにいのちの光を与える方として信じ、従っているでしょうか。イエスの光を持たないと、私たちは、闇の世の中を歩くときに、どこに行くべきなのか分からず道を見失い、また闇の中で倒れてしまいます。しかし、イエス・キリストを信じるなら、周りがどんなに暗闇でも、私たちは安心して前に進むことができます。そして、必ず、私たちが行くべきゴール地点、天国に行くことができます。あなたは、このイエスが与えるいのちの光を持っていますか。2000年前のクリスマス、赤ちゃんとして生まれた主イエスは、この闇に満ちた世界に光を満たすために来られたのです。
 

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