2020年10月25日 『罪の中で死ぬ人』(ヨハネ福音書8章21-20節) | 説教      

2020年10月25日 『罪の中で死ぬ人』(ヨハネ福音書8章21-20節)

礼拝説教 2020年10月25日 『罪の中で死ぬ人』(ヨハネ福音書8章21-20節)

 今日の説教のタイトルは、ちょっと刺激的かもしれません。しかし、結論は良い知らせなので、最初は少し忍耐して最後まで聞いていただきたいと思います。聖書が私たちに語るメッセージを「福音」と言いますが、これは「良いニュース」という意味であり、私たちに希望と喜びを与えるメッセージなのです。私たちが、今、生きている世界は、将来のことが不安でなかなか心が晴れ晴れするような気分になれません。聖書のメッセージは、現実にはいろいろ問題がありますが、その現実から完全に新しい世界に移ることができる道がありますよというメッセージです。まず、私たちは現実から目をそらさずに、現実を見ることが大切です。ただ、私たちは、その現実に縛られる必要はないのです。

 今日の箇所も、ヨハネの福音書の8章ですが、7章からずっとイエス・キリストとユダヤ教の専門家たちとの論争が続いています。ユダヤ教の専門家たちは、自分たちは旧約聖書を知っているし、唯一の神を信じていると思っていましたが、それは彼らの思いこみであって、実は、彼らは、神を信じていたのではなく、信者の生活をして人々から尊敬されることを求めて生きていました。そのため、彼らは主イエスから白く塗った墓みたいだと言われました。それは表面的にはきれいに見えるけれども中は死んでいるという意味です。私たちクリスチャンも注意していないと、純粋に神様を信じる信仰から離れて、ユダヤ教の専門家たちのように、偽善者みたいになる危険があることを忘れてはなりません。主イエスは、彼らにかなり厳しい言葉を言われました。それが21節の言葉です。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」主イエスがこの言葉を言われたのは、主が十字架にかかる半年前の時です。主イエスは、半年後に自分が十字架にかかることを知っておれらましたので、この時期に語られた主イエスの言葉は、多くの人々にとって、最後のメッセージになるものでした。そのために、この頃から、主イエスが語られる言葉にはイエスの心の思いが強く表れるようになります。主は、「わたしは去って行きます。」と言われました。主イエスは、次の年の春には、自分が十字架にかかり、三日目に復活して、その40日後には自分の本来の場所である天国に戻ることを知っておられました。実は、主イエスは、このことについては7章でも言っておられました。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」(33-34節)でも、今回は、さらに加えて、聞いている人々に警告の言葉を言われました。「あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。」主イエスは24節で、もっとはっきりと言われています。「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」非常に厳しい警告の言葉です。人々が警告の言葉を語るのはどんな時でしょうか。危険があることを知っている人が危険に近づく人に向かって言う言葉です。危険が大きければ大きいほど、警告する人は相手に聞こえるように、相手がしっかり受け止めるように大きな声で叫びます。その人は怒っているわけではなく、人を助けるために叫ぶのです。このイエスの言葉もそのような言葉でした。私たちは、普段、自分はすぐには死なないと思って生きていますが、実際には、私たちは、自分の寿命のことについて何も知りません。しばらく前に、志村けんさんが新型コロナウィルスに感染して亡くなられましたが、本当にびっくりしました。本人も家族も、誰も信じられなかったと思います。志村さん本人は、自分が体調不良を感じた時も、自分が死ぬとは思っていなかったと思います。この聖書のメッセージを聞いても、皆さんは自分が罪の中に死ぬということは信じられないと思います。しかし、主イエスが繰り返して語って警告しておられるのは、それが確かに起こることだからです。健康診断を受けて、何かの病気にかかっているとか、悪い結果がでるのは嫌なことです。しかし、もしその病気がはっきりと治る病気であったり、治るための治療や薬がはっきりしていれば、安心です。「福音」と呼ばれる聖書のメッセージも、私たちにとって健康診断の結果のようなものです。私たちの心には罪があるという診断を下すからです。ただ、福音が健康診断と違うのは、診断を下すだけでなく、「人間の罪を解決するための方法を、神様が私たちのために用意してくださったので、安心してください」といった希望に満ちたメッセージが続くということをぜひ覚えていただきたいと思います。

 聖書によれば、私たち人間は、神様によって神様に似たすばらしい能力や可能性を持つ存在として造られました。聖書は、私たちを「神の作品」と呼んでいます。作品には価値があり造られた目的があります。もし、私たちが進化論が言うように進化の結果生まれたのであれば、私たちは作品ではなく、偶然、ポーンとこの世に生まれて来た存在であり、特別に生きる目的も価値もありません。そのような価値は自分で創り出すしかありません。しかし、聖書は、私たちは能力とか外見とか一切関係なく、生きていることそのものに価値があると教えています。ただ、人間の世界に、こんなに問題が多くて希望が見えないのは、人間が神から離れて、あるいは、神を無視して、またあるいは、神に逆らって生きているからです。人間は神から離れると、自分が神のようになります。誰もが自分に一番良いことだけを求めるようになります。そうなると、当然の結果ですが、周りの人々とぶつかって争いが起きるのです。人間が罪人であるのは子どもを見ればすぐにわかります。幼い子供は普段は天使のようにかわいいですが、自分の欲しいものが手に入らないと突然悪魔のようになります。こどもは親が教えなくても喧嘩をします。なぜでしょう。そのような性質を持っているからです。私たちの遺伝子の中に自己中心という罪が刻まれているのです。従って、本来は、神様の素晴らしい性質や能力をたくさん与えられているにもかかわらず、私たちはその素晴らしさを十分に発揮できないまま空回りの生き方をしています。してはならないと分かっていることをやってしまったり、しなければならないとわかっているのにできない自分がいます。これが罪であり、罪を持った人間は罪の中に死ぬと主イエスは言われました。聖書がいのちと言う時に、2種類のいのちがあります。目に見える肉体のいのちと目に見えない魂のいのちです。イエスがここで言われたいのちは、たましいのいのちであり、私たちのたましいのいのちは、罪の中にあって死んでいるのです。主イエスは同じことを24節で、もう少し詳しく語っておられます。「わたしが、『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになります。」ここで、イエスはご自分のことを「私はある」と呼んでおられます。この言葉はユダヤ人にはすぐに分かる言葉で、ご自分が神であると言われたのです。旧約聖書の時代、ある時期ユダヤ人はエジプトで奴隷として生きていました。彼らは生活があまりにも苦しいので、神に助けを求めました。すると、神はモーセという人物をリーダーに立てて、イスラエルの民をエジプトから脱出させてくださいました。ある日、モーセが神からリーダーになれと命令を受けた時、モーセは恐れを感じて神の名前を尋ねます。すると、神様は、「わたしはある」という者だと答えられたのです。主イエスがご自分のことを「わたしはある」だと言われたのは、私こそ、神であるということなのです。したがって、私たちがイエス・キリストを神と信じないならば、私たちのたましいのいのちは永遠の死を経験することになります。私たちの肉体は80歳か90歳で死にます。しかし、私たちの魂は、肉体が生きていた時代の記憶を持ったまま生き続けます。ただ、イエスを神と信じる人の魂は天国の光の中で永遠に生きるのですが、イエスを神と信じない人は地獄の永遠の暗闇の中で生きるのです。

 ただ、神様は、誰も永遠の暗闇の中で生きてほしいとは思っておられないので、私たちが罪の中で死ななくても良いように、神様の側で方法を考えて、永遠の滅びから永遠のいのちに変わる道を開いてくださいました。その方法とは、主イエスが21節で言われた「わたしは去って行きます。」ということです。罪のない神であるキリストが、私たちの身代わりになって、十字架で全人類の罪を背負って罪の罰を受けてくださいました。それによって、私たちは罪の罰を受けなくてもよくなりました。そして、主イエスが復活されたことで、ご自身が神であることを証明して、そして天に帰っていかれました。主イエスの十字架と復活によって、主イエスを信じる者の罪は赦され、神のこどもとなって、天国で生きるための永遠の命が与えられると約束されています。これが神様が考えてくださった、私たちが自分の罪の裁きから救われる方法なのです。私たちがしなければならないことはただ一つです。主イエスを自分の救い主と信じることだけです。ただ、このイエスを信じる時は、いつまでもあるとは限りません。もしかするとそのチャンスはなくなるかもしれません。
人生にはいろいろなチャンスがありますが、そのチャンスを逃すと、もう二度とチャンスがないことが多いです。主イエスは、人々と論じていますが、まもなく十字架にかかる時が来ます。その時が来たら、彼らはイエスを信じる機会を失うことになるのです。
 ところで、主イエスは誰に向かって語っているのでしょうか。イエスを殺そうと考えていたユダヤ教のリーダーたちです。彼らはイエスの敵です。しかし、主イエスは、敵に対しても、あきらめずに何度も何度も「私が神であることを信じなさい」と警告の言葉を語り続けておられます。ここに主イエスの私たちに対する愛があります。ヨハネの福音書の10章には、「わたしはあなたがたを「友」と呼びます」と言われた主イエスの言葉が記されています。旧約聖書の時代、「王の友」と呼ばれた人がいました。「王の友」と呼ばれた人は、その国のどんなに地位の高い人よりも、王様と親しく話をすることが許された人々で、王様の寝室にまで入ることが許されていました。実は、神様は、私たちを自分の友になってほしいと願っておられるのです。また、主イエスは次のようにも言われました。「人が、その友のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はありません。」イエスの十字架は、ローマ帝国時代のもっとも残酷な死刑の道具です。普通に考えれば呪いのシンボルです。しかし、なぜ、教会が誇りをもって十字架を掲げているのかというと、神であるお方が私たちを友と呼んでくださり、友である私たちが罪の罰を受けなくても良いように、十字架の上でご自分のいのちを捨ててくださったからです。これが福音です。本当は、永遠の暗闇にいなければならないような者が、主イエスの十字架と復活によって、永遠の光と喜びに満ちた天国の国籍を持つ者に変えられるのです。
 人生の大逆転が起きるのですが、その方法は何でしょうか。24節のイエスの言葉を言い換えるとこうなります。「わたしが『わたしはある』であることを信じるならば、あなたがたは、自分の罪の中に死ぬことはありません。」」私たちが、神の前に自分の罪を認めて、イエス・キリストが神であることを信じるなら、もはや死ぬことはなく、永遠の喜びと希望と平安に満ちた天国の国籍を持つ者となると聖書は約束しています。この約束の条件は一つだけです。イエスを神と信じることです。私たちの能力とか、学歴とか、これまで作り上げた業績とか、あるいは、逆に、過去にどれほど大きな罪や犯罪を犯した人間であっても、誰に対しても条件は一つだけ、主イエスを神と信じることです。主イエスを信じることによって私たちの国籍が変わります。この世の人間から天国の人間に変わります。23節で、主イエスは「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。」ここで、上と下と言われていますが、これは場所的な意味で上とか下ではなく、神の栄光と平安に満ちた天国と、罪と悪と汚れに満ちたこの世を意味しています。主イエスを信じる時、私たちのたましいの国籍が変わります。私たちのたましいの国籍は天国になるのです。国籍を持つことはとても大切なことです。国は国籍を持つ者を守る義務がありますから、私たち日本人は、日本という国によって守られ、外国に長い間住んでいても、国籍があれば、いつでも日本に戻ることができます。もし、私が外国で事件に巻き込まれれば、日本政府は、私を救い出すためにいろいろと努力をしてくれるはずです。国籍を持つ人は、その国によって守られているからです。天国に国籍を持つ人はどうなのでしょうか。私たちは、天国におられる神様によって、私たちがどこにいても、私たちを守り導いてくださるのです。このように、福音には素晴らしい約束がやまほどあります。主イエスを信じて天国の国籍を手に入れることができれば、私たちは、将来に向かって何も心配する必要はありません。永遠に神様に守られているからです。それでも、ユダヤ教の指導者たちは、頑固になって主イエスを神だと信じませんでした。あなたはどうですか。主イエスを信じるためにしなければならないことが一つだけあります。自分が神様の目には罪人であることを認めることです。それだけです。ある人は、次のように言います。「福音のメッセージは良く分かっている。自分の罪を悔い改めてイエスを信じるなら永遠のいのちが与えられることも知っている。ただ、人生の最後になって信じれば、十分間に合うと思うから、今はもう少し、自分の好きなように生きたい。」このように言う人は知らないのです。私たちのいのちが明日あるのかどうかも保証がないことを知りません。イエスを捜そうとしても見つけられない時が明日来るかもしれないかかのです。今日、主イエスをあなたの罪からの救い主と信じて、今日、天国の国籍を自分のものにしませんか。
 

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