2020年12月20日 『クリスマスと3という数字』(マタイ2章1-12節) | 説教      

2020年12月20日 『クリスマスと3という数字』(マタイ2章1-12節)

 今日読んだマタイの福音書に記されている記事は、主イエスが生まれてから数か月後の出来事だと思われます。11節を見ると、イエスの家族は馬小屋ではなく家に住んでいるからです。また、主イエスが生まれて8日目にヨセフとマリアはイエスを神に捧げるために神殿に行きますが、その時に、二人は捧げものとしてハトを捧げています。これは二人が貧しかったことを表しています。もし、博士たちの贈り物をもらった後だったら、正式な捧げものとして子羊を捧げていたはずです。主イエスが生まれた町ベツレヘムは都のエルサレムの南10キロにある田舎の村です。ベツレヘムとは「パンの家」という意味です。また、イエスの誕生の知らせを聞いたのが羊飼いですから、そこは田舎の農村でした。世界中の人々を救う救い主の誕生の場所としては非常に小さな村なのですが、神様がなさることはいつも人間の考えとは反対の方向にあるように思います。今日は、救い主の誕生であるクリスマスに関連する3という数に注目したいと思います。クリスマスの出来事の中に3に関係することがあるからです。もともと聖書では、3は完全な数を意味しています。神様ご自身も、父なる神、子なる神、聖霊なる神が一つとなって完全なハーモニーの中で存在しています。イエス様が神の子として働いたのが3年ですし、主イエスが十字架で死んだ後復活したのも三日目でした。今日はマタイの福音書に記された出来事の中に3に関わるものを見て行きましょう。

(1)三種類の人々
第一に、この出来事には3種類の人々が登場します。それは、イエスに敵対する人々、イエスに無関心な人々、そして、イエスを礼拝する人々です。この3種類の人々というのは、この出来事の時だけではなく、今でも世界中に存在しています。人が誰かを好きになるか、あるいは憎むようになるのか、それは2000年前も今も変わりません。世界中でいろいろな事件が起こっています。私たちの生活の周りでも、いろいろなトラブルがあります。私たちは、そのような出来事だけを見ることが多くて、「なんてひどい奴だ、そんなことをするなんて。」と言いますが、すべての出来事には何らかの理由があるはずです。なぜそのようなことが起きたのだろうかと考えると、そこには根本的な原因があり、その原因は、その人の心の中の状態にあることが分かります。今日の出来事も、ただ単に2000年前の出来事として考えるのではなく、自分自身をも含めて、出来事の背後にある私たち人間の心のことを考えたいと思います。
 第一にイエスに敵対する人間として登場するのは、イエスが生まれた時のイスラエルの王ヘロデです。ヘロデは実際にイエスを殺そうとしています。なぜ、ヘロデは赤ちゃんのイエスを殺そうとしたのでしょうか。ヘロデ王はイスラエルで最高の権力を持つ人間です。相手は、人間的に見れば、貧しい夫婦に生まれたばかりの赤ちゃんです。彼は、東の国から来た博士たちがエルサレムにやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」と聞いて動揺したと書かれています。ヘロデは、イスラエルの王でしたが、実は、もともと王家の人間ではありませんでした。父親が将軍で王家と近い関係にありました。彼はあらゆる手を使って、王家に残っていたマリアムネという娘と結婚して王家に入り込み、その後、王家の人間を次々に殺して現在の地位を手に入れていました。自分がそのような生き方をしてきたので、彼は、つねに自分の地位を狙う者がいるのではないかと疑いと恐れを持っていました。それは病的なほどで、彼は自分の妻も、3人の息子さえも殺してしまいます。彼にとっては、生まれたばかりのイエスさえ、自分の地位を脅かす存在だったのです。ヘロデは、イエスを殺すことはできませんでした。彼は思い病気にかかって死にましたが、彼は死ぬ直前に命令を出して、当時人々に信望のあつかった人々を捕らえて、自分が死ぬときに処刑するようにしました。彼は知っていたのです。自分が死んでも誰も悲しまないことを。それで、少なくとも、自分が死ぬときに人々が泣くようにと、そのようなことを行ったのです。哀れな人生でした。
 2番目はイエスに無関心な人々です。ここでは、誰がイエスに無関心なのでしょうか。4節に出て来る祭司長や律法学者たちです。彼らは旧約聖書のことをよく知っている専門家であり宗教家です。旧約聖書には救い主イエスの誕生に関する預言があちこちに記されています。東の国の博士たちは、遠い国から時間とお金と労力を使って、イエスを礼拝しにやって来ました。一方、エルサレムに住んでいた彼らは、ベツレヘムに行こうと言う考えさえまったく持っていませんでした。ヘロデは救い主がどこで生まれるのか知りたくて、祭司長や律法学者を集めたのですが、彼らは、すぐに「ベツレヘム」と答えています。それは、イエスより700年前に活動したミカという預言者が書いた言葉を知っていたからです。6節にかかれている言葉がその預言です。ベツレヘムは本当に小さな田舎の村でしたが、そのベツレヘムから、イスラエルを治める者、イスラエルを牧するものが現れることが預言されています。彼らはそのことを知っており、東の国の博士たちから、その救い主が生まれたと聞いていました。なのに、彼らはイエスを礼拝しようとはしていません。なぜでしょうか。彼らは旧約聖書のことを良く知っていましたが、彼らは職業として宗教家であることを選んでいただけで、心の中では神様に仕えて生きるという気持ちを持っていませんでした。彼らは人々に聖書を教えることで、一般の人々から尊敬を得ていましたし、生活も安定していました。彼らは人々に教えるだけで、自分自身が聖書の言葉に心から従って生きようとしていませんでした。ほぼ偽信者と同じ状態でした。ただ、人はいつも無関心だけでいられるわけではありません。彼らは、イエスが神の子として働くようになると、イエスの言葉に反対し、イエスが行うすべてのことを否定し、最後には、イエスを十字架につけることを願う人になりました。人間はいつまでも、無関心・中立でい続けることはできません。
 3番目は、神を礼拝する人々です。東の国から来た博士たちがそうです。彼らは博士とか賢者と言われています。年齢的には中年から老年にさしかかる頃で、人々から尊敬され、生活も落ち着いていたことと思います。そんな彼らがはるばる旅をしてエルサレムまで来るには、よっぽどの理由がなければなりません。お金もかかりますし、当時は、人々が通る道にはよく強盗が隠れて旅人を襲っていました。彼らはバビロン人ですが、イエスが生まれる500年ほど前に、多くのユダヤ人がバビロンに強制的に連れて行かれるという事件があり、その後また多くの人は祖国に戻って行きましたが、イスラエルに帰らずバビロンに残った人も多くいました。そんなことで、バビロンには旧約聖書を知っている人も多くいました。旧約聖書の民数記という書物の中に、「イスラエルから一つの星が進み出る」という言葉があることから、当時、中東一帯に、「近いうちにイスラエルに新しい王が生まれる。その時に、特別に光る星が現れる」という言い伝えが広く広まっていたようです。ある夜、彼らは、夜空にいつもとは違う明るさで光る星を発見した時、彼らはすぐにイスラエルに新しい王が生まれたと信じて、はるばるエルサレムにやって来たのです。

(2)3種類の神の知らせ
マタイの福音書2章に記されたクリスマスの出来事をとおして、イエスの誕生を人々に知らせるのに3つの方法があることを知ることができます。第一は、一般的に人々が知ることができるものですが、この場合は星でした。東の国の博士たちは、夜空に現われた特別な星を見てエルサレムまでの旅を始めました。夜空の月も星も神様が造られらた自然ですが、神様はこれらの自然をとおして神がおられることや神の知恵・神の力を示しておられます。日本では、大自然の中に神々しいもの、神を思わせるものを感じると、人々は大きな山や、大きな木、特別に目立つ岩などに神を感じて、神社を建てています。ただ、それは神なのではなく、神様が造られらたものなので、神ではありません。東の国の博士たちが見た星が何であったのかは聖書は語っていません。しかし天文学の父と言われるケプラーは、これを紀元前7年に起こった木星と土星が重なるという出来事だったと考えました。地球から見てこの2つの星が重なるとひときわ明るい星になります。これはケプラーが生きていた時に起こったのですが、彼がこの出来事が何年に1回起きるのか計算したところ約800年に1回起きることが分かりましたが、すると、彼の時の2回前が紀元前7年だとわかりました。主イエスが生まれたのが紀元前6年ですから、タイミングとしてぴったりです。天文学的に見ると、これが一番よく説明できることのように思いますが、あるいは、この時、神様の奇跡が起こって特別に東の国の博士たちをエルサレムやベツレヘムまで導く星が現れたことも十分に考えられます。
 第二は、より具体的な知らせです。それは、神の言葉である聖書によって与えられます。さきほど救い主はベツレヘムで生まれるという預言のことを語りましたが、これを預言したのはミカという預言者です。しかし、それ以外にも、旧約聖書には主イエスの誕生だけでなく、主イエスの死についても詳しい預言が数多く書かれています。ミカと同じ時代に活躍したイザヤという預言者がいますが、イザヤは、主イエスが十字架で死ぬことを非常に細かく預言しています。自然は、漠然と神という存在、神が来られるということを知らせてくれますが、聖書は、主イエスは何のためにこの世に来られたのか、その目的をも知らせています。それは、私たちの罪が赦されるために、私たちの身代わりとなって死ぬためでした。聖書の神様は、遠いところから「ああしろ、こうしろ」と命令するような神ではなく、私たちと同じ目線に立つために、私たちと同じ姿をとって、私たちのところに来てくださる神です。私が10歳の時に、私は急性腎炎になって40日入院しました。その時までは親の言うことを全然聞かないわんぱく少年で、近所の人からもよく叱られました。ところが、病気で入院することになり家を離れて一人になると、寂しいですし、また、私は看護師さんからもよく厳しくしかられたので、すっかり気弱な少年になってしまいました。母は、そのころ体が弱かったのですが、毎日お見舞いに来てくれました。子供部屋がちょうど病院の正面玄関の真上にあったので、午後の1時ごろになるといつも窓辺から母が来るのを待つと言うかわいい少年でした。やっぱり来てくれることがうれしかったのです。救い主イエスの誕生は、そのように、わたしたちのために、わざわざ神様が私たちのところに来てくださったということです。
 第三は、これは個人的に知らされるということです。神様が星を見た博士たちの心に働いて、星が知らせる救い主を拝みに行きたいと言う思いを与えてくださいました。今も、神様は生きておられます。目には見えませんけど、いろいろな形で私たちにご自身を知らせようとしておられます。何かの出来事をとおして、聖書の言葉をとおして、クリスチャンの言葉をとおしてなど、いろいろな方法で、神様は私たちの心に語り掛けようとしておられます。聖書の神様は、全世界を造られた偉大な神様ですが、同時に、私たちと親しい交わりを持ってくださる神様です。私たちの友達になってくださる神様です。神を信じるとは、漠然と概念的に神を信じるというのではなく、祈りや聖書の言葉で、お互いの気持ちを伝えあえるような関係を持って共に生きる神様です。

(2)3種類の贈り物
最後に、東の国から来た博士たちは幼子イエスに3つの贈り物を捧げました。贈り物が3つであったことから、伝統的に博士たちは3人だったと考えられていますが、実際にはもっと大勢で来ていたと思われます。人間的に見れば、彼らが貧しい夫婦に生まれた赤ちゃんに対して、黄金、没薬、乳香という非常に高価なプレゼントを捧げているのは、不思議な感じがします。彼らは、主イエスのことを、そのような高価なプレゼントを送るのにふさわしいお方だと見ていたのです。この3つの贈り物は、このイエスが地上で働く時にどのような役割を持つのかを示す贈り物でした。
 第一に黄金ですが、今でも、金は高価なものです。昔は今よりもずっと貴重なものでしたし、今はお店に行けば手に入れることができますが、昔は、手に入れることも非常に難しかったのです。当時、王様の力は持っている黄金の量で決まっていました。博士たちが、この赤ちゃんに黄金を捧げたのは、この方こそ、ユダヤ人の王としてお生まれになった方であるという証しでもありました。彼らは、この方の星を見てエルサレムに向かって旅を始めていました。主イエスこそ、王の王、主の主です。
 第二に、彼らはイエス乳香をささげました。これは良い香りがするお線香のようなものでした。ユダヤ教の礼拝では、人々はいけにえを捧げていましたが、動物を焼いて煙にするときの、良い香りも捧げものでした。また、神殿では、祭司が毎日香をたいて祈りを捧げていました。今でも、ギリシャ正教やロシア正教などでは、礼拝の中で香を焚きます。私が聖地旅行に行った時に、エルサレムの旧市街にあるアルメニア教会に行きました。そこでは、聖職者は全員黒い衣装を身に着け、そして、礼拝堂の中では常に香がたかれていたので、礼拝堂の中は壁も天井も真っ黒で建物も香の煙で煙っていました。このように香は祭司の働きにはかかせないものでした。ユダヤ教での祭司の務めは人と神様の間に入って、人々には神のことを教え、また人々の願いを彼らに代わって神に祈ることでした。主イエスこそ、私たちと神との間に立って働いてくださるお方です。
 最後に、博士たちは没薬を贈り物としてささげました。これは、死んだ人の体のにおいを消すために使っていた薬です。生まれたばかりの赤ちゃんへの贈り物としては非常に奇妙な感じがしますが、これこそ、赤ちゃんとして生まれてくださった主イエスが誰であるかを示すものです。主イエスは、私たちのために十字架でいのちを捨て、そして三日目に復活して、罪と死の問題から私たちを救い出す救い主であることを証明されました。没薬は、主イエスが救い主であることを示めす贈り物です。

 そして、聖書は主イエスについてこのように約束しています。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」人は修行や努力をしても新しく造られた者になることはできません。しかし、イエス・キリストを信じるなら、私たちはまったく新しい人になることができます。主イエスは、あなたに新しい人生を与えるためにこの世に生まれてくださったのです。

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