2021年2月14日 『救いの確かさ』(ヨハネ10章22-31節) | 説教      

2021年2月14日 『救いの確かさ』(ヨハネ10章22-31節)

(1)ユダヤ人たちの質問
 22節にこう書かれています。「そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。」このことから、21節と22節の間に少し時間のギャップがあることが分かります。ここに「宮きよめの祭り」について書かれていますが、この祭りは今も「ハヌカー」と呼ばれて祝われています。ユダヤのカレンダーでキスレウという月の25日から一週間祝われますが、私たちのカレンダーでは12月になります。ちょうどクリスマスと同じ時期のお祭りです。このお祭りが始まったのは、イエスが来られる170年前頃で、聖書とは関係のないお祭りです。当時、イスラエルを支配していたのはギリシャ人でした。アレキサンダー大王がペルシャ帝国を滅ぼしたのがBC333年です。当時のペルシャはインドからエチオピアにまで広がる巨大な国でしたが、それがそっくりそのままギリシャ人アレキサンダー大王の支配に移ります。アレキサンダー大王は若くして死にますが、その後、インドからヨーロッパ、北アフリカに至るまでギリシャが支配する中で、ギリシャの文化が広まっていきます。これをヘレニズム時代と言います。紀元前175年からアンティオコス4世という王様がイスラエルを支配するのですが、この王様がとんでもない王でした。イスラエルに無理やりギリシャの文化を押し付けたのですが、そのやり方がひどく、彼はユダヤ人に、エルサレムの神殿にいけにえとしてユダヤ人が嫌う豚を捧げることを命令し、神殿の中にギリシャ神話のゼウスの神の像を建てさせました。また、ユダヤ教の信仰を守ろうとするユダヤ人を厳しく弾圧したために、ついにユダヤ人の反乱が起きます。ユダ・マカベアという人物によるゲリラ戦争によって、ユダヤ人はエルサレムを取り返すことに成功し、紀元前164年の12月25日に、神殿から偶像や異教の祭壇をすべて取り除いて、宮をきよめたことのお祭りが行われました。「宮きよめの祭り」はこのように始まりましたが、今でも、「ハヌカー」と呼ばれるこの祭りはユダヤ人の間で祝われています。
 23節に、「イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた」と書かれています。ソロモンの回廊というのは、エルサレムの神殿の外側の東側の壁になっている部分で、屋根付きのかなり広いスペースを持つ回廊でした。イスラエルは冬は雨が多く寒い日が続きます。おそらく、イエスが歩いていた日も、雨の降る寒い日だったでしょう。雨が降る日には多くの人がソロモンの回廊に行きますが、それだけでなく、多くの人は瞑想をするためにその場所を使いますし、ユダヤ教の教師が生徒を教えるのにもこの場所が使われていました。使徒の働きの時代には、ペテロとヨハネがソロモンの回廊で多くの奇跡のわざが行い、人々に主イエスの福音を伝えていました。そのソロモンの回廊をイエスが歩いていると、ユダヤ人たちが主イエスを取り囲みました。そして主イエスに質問しました。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」ここでもユダヤ人と書かれているのは、一般の人ではなく、ユダヤ教の指導者たちのことです。「キリスト」とはギリシャ語の言葉で「油を注がれた者」という意味ですが、これは旧約聖書のヘブル語のメシアという言葉をギリシャ語に翻訳したもので「救い主」を表します。旧約聖書は、神様が決められた時に、私たちに救い主を遣わすという預言を旧約聖書の最初の書物「創世記」から最後の書物「マラキ書」にいたるまでずーっと一貫して記しています。彼らの質問の意味は「あなたは、本当に旧約聖書が預言している約束の救い主なのか」ということですが、彼らは本当にイエスが救い主かどうかを知りたくて質問しているのではなく、何とかして、イエスの言葉をとらえて、イエスを訴える口実を見つけようとしていただけでした。主イエスが、人々の前で、多くの不思議なわざやしるしを行い、また、権威ある言葉で人々に神について教えておられたので、多くのユダヤ人がユダヤ教を離れて主イエスの弟子になろうとイエスの後をついて行くようになっていました。ユダヤ教の指導者たちは、自分たちの宗教がダメになってしまうのではないかと恐れました。彼らは、何とかしてイエスを捕らえて、表立って活動することができないようにしたいと思っていました。彼らは、このように質問することで、イエスに、人前で、はっきり「自分が神である」と言わせて、神を冒涜する者として捕らえる口実を得ようとしていたのです。

(2)主イエスの答え
 パリサイ人たちは主イエスに「あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」と言っています。それに対して主イエスはどのように答えておられるでしょうか。最初に言われたことは、「わたしは話したのに、あなたがたは信じませんでした。」ということでした。これまでも、同じような議論は、イエスが奇跡を行われるたびに起こっていました。5章には、38年間寝たきりの人が、主イエスの奇跡によって癒されましたが、この時も、ユダヤ教の指導者たちは、イエスを迫害し始めました。その理由は、その人が癒されたのが安息日だったからですが、この時も、彼らはイエスと議論をしています。そして、5章18節にこう書かれています。「そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神を等しくされたからである。」彼らがイエスを殺そうとしているのですから、主イエスが自分が神であることをはっきり言われたことは明らかです。7章でも、主イエスが神殿で人々を教えられたことがきっかけとなってユダヤ教指導者たちとの論争が始まり、主イエスは自分が父なる神から遣わされた者であることをはっきり言われました。(7章29節)この時も彼らはイエスを殺そうとしています。したがって、主イエスは何度も彼らに自分が父なる神から遣わされた者、自分が神であることをはっきりと言っておられるのです。
 また、主イエスは25節の後半で「私が父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。」と言われました。主は神の子として働かれた3年余りの間、多くの奇跡のわざを行い、多くの人々を癒されました。38年間寝たきりの人が起き上がったり、目の見えない人が見えるようになったり、死にかけていた人のいのちを守られたり、数えきれないほどの奇跡を行われました。旧約聖書には救い主の預言がたくさんありますが、例えばイザヤ書の35章5,6節にはこう書かれています。「そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」主イエスは、これらの奇跡をすべて行なわれました。これだけの証拠がありながら、パリサイ人をはじめユダヤ教の指導者たちはイエスを救い主とは信じませんでした。しかし、それは、彼らが主が救い主であることを信じるための証拠が不十分だったからではありません。主イエスが25節と26節であえて2回繰り返して言われたように、彼らは、主イエスが何を言っても、何を行っても、イエスが救い主であることを信じないと初めから心に決めていたからです。
 ユダヤ教の指導者たちは、自分の立場、すでに持っている特権、そのようなものを失いたくないために、あえて、真実を受け入れようとせず、イエスを救い主と信じようとしなかったのです。この点について主イエスは、ご自分を羊飼いに例えて、26節で次のように言われました。「あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの群れに属していないからです。」主は、彼らが主イエスを救い主だと信じないのは、自分の羊ではないからだと言われました。主は、自分の罪を悔い改めて、主イエスの十字架は自分の罪が赦されるためのものだったと確信して、主イエスを罪からの救い主だと信じる者を「わたしの羊」と呼ばれました。クリスチャンは、主イエスという羊飼いの群れに属する羊なのです。主イエスはご自分のことを「良い羊飼い」と呼び、「羊飼いは羊をよく知っているし、羊も羊飼いをよく知っているので、羊飼いの声にしたがって後をついて行く」と言われました。しかし、ユダヤ教の指導者たちは、自分の罪を認めることもなく、自分は正しい人間だと思い込んでいたので、主イエスを知ることができませんでした。羊が羊飼いのそばにいなければ危険なように、主イエスを信じない人は、永遠の滅びに向かうという危険にさらされています。一方、主イエスを信じる羊は、どんなに弱くて道に迷いやすくても、主イエスという羊飼いのそばにいれば安全です。なぜなら、羊飼いは、自分の羊のためにはいのちを捨てるからです。

(3)救いの確かさ
 主イエスは、続いて、28、29節で、良い羊飼いとして次のように言われました。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることなく、また、誰も彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」ここで、主イエスご自身がはっきりと、主イエスを救い主と信じる者は、永遠に決して滅びることがないと約束しておられます。なぜ、この約束を私たちが信じることができるのかというと、永遠のいのちは、私たちが何かよい行いをして、手に入れるものではなく、主イエスが私たちに与えてくださるものだからです。また、主は、主イエスを救い主と信じるクリスチャンについて、29節で「わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。」と言われました。こんな私であっても、主イエスは、私のことをすべてにまさって大切だと見てくださるのです。そして、羊飼いが自分の羊をあらゆる敵から守るためにいのちをかけて戦うように、主イエスは私たちを守ってくださると約束しておられます。主イエスは言われました。「誰も彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」つまり、主イエスは、私たちひとりひとりのクリスチャンを、強い者も弱い者も、若い者も年老いた者も、すべて、ご自分の手でしっかり、両腕で抱えていてくださるのです。だから、誰も、主イエスの手から私たちを奪い去ることができないのです。イザヤ書の41章13,14節に、神様の言葉として、次のように書かれています。「わたしがあなたの神であり、あなたの右の手を固く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々、わたしがあなたを助ける。」神様が、わたしたちの手をしっかり握ってくださると約束しておられます。そして、どんなことがあっても私たちを助けると、神ご自身が宣言しておられるのです。私たちは、「虫けらのヤコブ」と言われています。私たちは、神の目には、小さな虫けらのような存在です。しかし、そんな私たちを神様がしっかりと握りしめておられるので、誰も、神様から私たちを奪い去ることはできません。私たちは、虫けらのような小さな存在です。神様の助けが絶対的に必要です。みなさんは虫けらを何よりも大切なものと見なしますか?よっぽど虫が好きな人でない限り、虫けらは、邪魔な存在でひねりつぶしたくなります。しかし、虫けらのような私たちを主イエスも、父なる神も、なによりも大切な者とみなして、私たちをしっかり握って守っておられるのです。
 信仰とは神様にしがみつくことのように考えること人がいます。しかし、もしそうだとすれば、私たちは、いつか神様にしがみつくことに疲れて、手を放してしまうかもしれません。多くの人が、信仰をそのように考え、信仰は自分の力で続けるものだと考えています。だから、自分の信仰に自信が持てないのです。しかし、イザヤ書で神様がはっきり言われているように、私たちがクリスチャンとして生きるということは、神様にしっかり握ってもらって生きるということなのです。お父さんやお母さんが子供と歩く時に、しっかり子どもの手を握っています。こどもが親の手にしがみついているのではなく、親が子どもの手をしっかり握っているので、子供が手を放そうとしても、親はしっかりと握りしめています。神様は、あなたの手をしっかりと握っておられるのです。だから、私たちの救いは確実なのです。神様の御手によってしっかり守られているからです。あなたの人生は安全ですか。あなたは誰かによってしっかり守られていますか。神様は、すべての人を守るために、あなたの手を握ろうとしておられます。あなたの手を神様に差し出しませんか。

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