2021年2月28日 『世の罪を取り除く神の小羊キリスト』(ヨハネ福音書10章31-42節) | 説教      

2021年2月28日 『世の罪を取り除く神の小羊キリスト』(ヨハネ福音書10章31-42節)

 ヨハネの福音書10章の最後の部分を今日は読みますが、10章の後半に記されているのは、主イエスとユダヤ教指導者たちの間で起きた論争です。主イエスは冬のユダヤ人の祭りである「宮きよめ」の祭りの時にエルサレムの神殿を歩いておられると、ユダヤ教指導者たちが主イエスを取り囲んで、「あなたはいつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、 はっきりと言ってください。」と言いました。それで、主イエスは30節で、「わたしと父とは一つです。」と言って、ご自身が神であることをはっきりと言われました。すると、この言葉を聞いたユダヤ教指導者たちは、激しく怒り、主イエスに石を投げて殺そうとしました。私たち日本人には、彼らの反応が非常に過激なものに思えます。「なぜ、イエスが自分を神だと言ったぐらいで、彼をその場で殺さなければならないのだろう」と思います。日本人にとって、神とは、人間とほとんど変わりない存在です。神道では、死んだ人間が神としてまつられています。また、多くの人は、この世の万物に神の霊が宿っていると考えているので、日本には数限りない神が存在します。このように考える日本人にとっては、イエスが神だと言ったとしても、世の中に一つ神が増えるだけですから、特に問題にしません。しかし、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、神は唯一の神であり、絶対的な存在者です。したがって、神でない、普通の人間が「自分は神だ」と言うことは冗談でさえ絶対に許されないことなのです。
 ユダヤ教の指導者たちがイエスを殺そうと必死になっているのとは対照的に、主イエスはまったく冷静でした。主は彼らに言いました。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」主イエスを取り囲んでいる人たちはイエスを殺したいと思うほどイエスに対して激しい怒りを示していましたが、主ご自身は、自分が父なる神と等しい者であるという主張を変えることはありませんでした。そして、むしろ、自分を神と認めない、ユダヤ教指導者たちに、自分が神であることの証拠として、奇跡の働きについて語られました。主イエスは、ご自身の働きの中で、多くの人の病気を癒し、死んだ人を生き返らせ、悪霊に取りつかれている人々を解放しました。その事実はユダヤ教の指導者たちも否定できません。主イエスは、これらのわざこそ、自分が父なる神と等しい存在、父なる神と一つであることの証拠だと言っておられるのです。このイエスの質問は、ユダヤ教の指導者たちを苦しい立場に追い詰めました。というのは、一般の人々は、主イエスが、そのような奇跡の働きをしてこられたことを知っていましたし、彼らは、イエスの働きをとても喜んでいたからです。主イエスの奇跡のわざを否定すると、ユダヤ教指導者たちは一般の人々をも敵に回すことになってしまいます。

 主イエスの質問に対して彼らは次のように答えました。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒涜のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているのだから。」彼らは、最初から、イエスは神ではなく人間であるという前提に立って考えているため、主イエスがどんな大きな奇跡をしても、イエスを神だとは絶対に認めませんでした。最初から、そのように心に決めていますから、主イエスが何を言っても、何を行っても、彼らは主イエスを神を冒涜する人間だとしか思えず、イエスを死刑にしようとしていたのです。彼らは、徹底したユダヤ教徒だったので、自分を神だと言うイエスを赦すことはできませんでした。しかし、主イエスは神です。しかも主イエスは、本来神でありながら、神の栄光や権威をを捨てて、私たちと同じ姿をとって、十字架にかかるためにこの世に来てくださいました。十字架にかかるまでの3年間、イエスは言葉と奇跡の働きによってご自分が神であることを示し、人々に神を信じるように教えておられました。主イエスが行われた奇跡は、旧約聖書がメシアについて預言している箇所にもはっきりと預言されているので、ユダヤ教の指導者たちはイエスをメシアと信じなければならなかったのです。しかし、彼らはイエスを「神を冒涜する者」として裁いています。自分たちこそ神に裁かれるべき人間であるにも関わらず、神であるイエスを裁こうとしていたのですから、彼らこそ、神を冒涜する者たちだったのです。

 そこで、主イエスは、彼らの言葉に対して反論しておられます。ここは誤解されやすい箇所なので注意して読みたいと思います。主イエスはこう言われました。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。『お前たちは神々だ』』と書かれていないでしょうか。神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのなだから、『わたしは神の子である』とわたした言ったからと言って、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について『神を冒涜している』と言うのですか。」ここで、あなたがたの「律法」と主が言われたのは、旧約聖書全体を指しています。ユダヤ教の指導者たちは、旧約聖書を神の言葉として非常に大切に受け止めていました。ここで、主は旧約聖書の中の一つの言葉を引用されました。「わたしは言った。『おまえたちは神々だ』」これは、詩篇の82篇6節からの引用ですが、主は、この詩篇の内容全体について考えておられます。この詩篇82篇は、ユダヤ人社会の裁判官や権力者たちが正しい裁判や正しい政治をしていないので、神様が彼らを裁かれるということを記しています。そして、この詩篇の中で、神様は裁判官や権力者たちを神々と呼んでいるのです。なぜ、裁判官や権力者たちが「神々」と呼ばれたのかと言うと、当時のユダヤ人社会では、裁判官や権力者たちは神様に任命されて、神の代理人として人々を裁き、人々のために政治を行っている考えられていたからです。彼らは「神様の代理人」「神様から委任を受けた人」という意味で、「神々」と呼ばれていました。ところが、詩篇82篇によると、彼らは正しい裁きも正しい政治もしなかったので、神様が彼らを裁かれました。聖書は、破棄されることはありませんから、ユダヤ教の指導者たちも、昔の不正な裁判官たちが「神々」と呼ばれた事実を否定することはできません。神様が不正な裁判官さえも「神々」と呼んだとすれば、父なる神から遣わされた、正真正銘の神の子が「私は神の子である」と言ったことに対して、どうして、「神を冒涜している」と言うことができるのか?主イエスは、このような意味でユダヤ教指導者たちに反論しておられます。主イエスは、ここで、自分が神であることの証拠を示そうとしておられるのではありません。むしろ、自分が神であることを宣言しておられるのです。旧約時代の裁判官たちが神の代理として働いたと言うことで、人間でありながらも、神々と呼ばれていた(もちろん父なる神とは全く次元が違いますが)ということを考えると、父なる神から遣わされたイエスは、まさしく神と呼ばれるのにふさわしいお方です。主イエスは、旧約聖書の言葉を引用することを通して、ユダヤ教指導者たちに、自分たちの思い込みからの間違った考えを捨てて、主イエスの語った言葉、行った働きについてもっと冷静で客観的な視点で考え直すようにと、彼らにチャレンジしておられるのです。

 さらに、続いて主は彼らにこう言われました。37-38節を読みましょう。「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。」主がこの言葉を言われたのが何回目なのか分かりません。これまでにも、主イエスは彼らに対して、主が行われたわざを見て、それが何を意味するのかよく考えるように繰り返し言っておられます。主イエスが行われたわざは、旧約聖書に預言されたメシアのわざそのものだったからです。バプテスマのヨハネは、当時の支配者によって牢屋に入れられていたのですが、自分の弟子を主イエスの所に送って、次のように言わせています。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」ヨハネが「おいでになるはずの方」と言ったのは、旧約聖書に預言されている「救主メシア」のことです。つまり、ヨハネはイエスに「あなたはメシアなのですか、違いますか」と尋ねているのです。それに対して、主は旧約聖書のイザヤ書35章5,6節の言葉を引用して答えられました。「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアト(思い皮膚病)に冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」主イエスは、イザヤ書に預言されているとおりのことを何度も人々のために行われました。もちろん、ユダヤ教の指導者たちも、イザヤ書の預言についてはよく知っているはずです。それにもかかわらず、不思議なことに、彼らは霊的にまったく物事が見えなくなっていて、イエスを救い主として信じることを拒みました。イエスの奇跡のわざは、彼らも見ていました。たとえ、イエスが語る言葉が信じられないとしても、主イエスが行われたわざを見れば、信じないわけにはいかないはずなのですが、彼らは頑なに、イエスが救い主メシアであることを拒みました。

 結局、主イエスのチャレンジは、ユダヤ教指導者たちの心に届きませんでした。彼らは、神の子としての主イエスの働きについて考えようともせず、イエスの言葉に激しく怒り、またも、イエスを捕まえて殺そうとしました。しかし、彼らがどのようなことを企んだとしても、イエスの時、すなわち、十字架にかけられる時はまだ来ていなかったので、主イエスは、彼らの手から逃れて、エルサレムを離れて、バプテスマのヨハネが最初に人々に洗礼を授けていた場所に退かれました。そして、11章の出来事が起きるまで、その地に滞在されました。しかし、そこにも多くの人々がイエスを捜してやって来ました。そして、彼らは主イエスを救い主と信じました。彼らは言いました。「バプテスマのヨハネは何もしるし、つまり奇跡を行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった。」この一般の人々は、ユダヤ教指導者たちのように、イエスに対する偏見や先入観を持っていなかったため、イエスの言葉を聞き、イエスのわざを見て、イエスこそ約束の救い主だと信じました。

 人々は、「バプテスマのヨハネが主イエスについて話したことはすべて真実であった。」と言っていますが、バプテスマのヨハネは主イエスについて何と言ったのでしょうか。バプテスマのヨハネは主イエスが近づいて来るのを見て「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。人々は、イエスの教えを聞いて、救い主は、人々の罪を取り除くために、十字架にかかるために来られたことを理解したのでした。私たち人間は、みな、罪人です。私たちは、自分の罪を取り除くことはできません。自分で自分の罪を赦すことなど絶対にできません。しかし、主イエス・キリストは、まったく罪のない聖なる神でありましたが、私たちと同じ人間の姿をとって、この世に来てくださり、私たちの罪をすべて背負って、十字架の上で、私たちの罪の罰を身代わりに受けてくださいました。主イエスは、ご自分で言われましたが、天においても地上においてもすべての権威を持っているお方です。この世界とその中にあるすべてのものを造られた神です。そんなに偉大な方が、私たちのような心の小さい心の汚れた人間のために命を捨てるという大きな愛を示すことによって、私たちを罪から救い出す救い主になってくださったのです。私たちは、十字架を見上げるたびに、神ご自身が自分のような人間のために大きな愛を示してくださったことを心にしっかりと刻みましょう。私たちは、このキリストの愛によって救われ、キリストとの愛によって生かされているのです。

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