2021年3月28日『十字架に示された神の愛』(マルコ福音書14章33-39節) | 説教      

2021年3月28日『十字架に示された神の愛』(マルコ福音書14章33-39節)

 十字架というのは、ローマ帝国では最も残酷な死刑の方法でした。したがって、どんなに悪いことをしてもローマの市民が十字架にかけられることはありませんでした。一方、イスラエルでは当時ローマ帝国の支配に反対する反乱が何度も起きており、その都度ユダヤ人は十字架に掛けられていました。十字架は、ローマ市民にとっては、悪のシンボルであり、呪いのシンボルでした。良識のある人は「十字架」という言葉を口にすることがなかったほどです。しかし、主イエスの十字架は違います。主イエスの十字架は、神の愛のシンボルです。主イエスの十字架の苦しみは、十字架を呪いのシンボルから愛のシンボルに変えました。

 主イエスは木曜日から金曜日に代わる真夜中、ゲッセマネの園を出たところでローマの兵士たちに捕らえられてその後一晩中、ユダヤ教指導者やローマ総督ピラトのもとで裁判にかけられました。当時、ユダヤ人には死刑の判決を下すことは認められていなかったので、イエスを死刑にしたいユダヤ教指導者たちは、ピラトがイエスに死刑を宣告するようにいろいろな理由をあげて訴えたのですが、ピラトが納得するような証拠は見つかりませんでした。ピラトはイエスが十字架刑にあたるような犯罪を犯してはいないことを知っていました。ピラトがなかなか死刑を宣告しないので、ユダヤ人たちは彼を脅迫しました。「イエスを死刑にしないのは、ローマ皇帝への反逆だ。ローマ皇帝に訴えるぞ」ピラトはローマ帝国の役人として出世を狙っていたので、ここで、何か暴動が起これば、自分は左遷されるかもしれない。自分の保身に走ったピラトは、イエスが無実であるのを知りながら、ユダヤ人たちの脅迫に流されてイエスを十字架にかけることを認めました。主イエスは金曜日の午前9時に十字架につけられました。

 イエスの十字架の死は特別なものでした。それを示すかのように、はりつけになって3時間後、ちょうどお昼になったころ、突然あたりが暗闇に覆われました。その様子を見て、誰も言葉が出ませんでした。お昼から3時ごろまでの3時間、あたりはしーんとしていました。この暗闇は何を意味するのでしょうか。2つの意味があると思います。一つは、父なる神の怒りと呪いを表すものです。出エジプトの時に、イスラエルの民がエジプトを出るのを拒んだエジプト王ファラオに対して10の災いが与えられましたが、その一つが、暗闇がエジプト全土を覆うというものでした。世の罪を取り除く小羊としての御子イエスのうえに、この3時間の間、神様の怒りと呪いが何度も何度もイエスに注がれたのです。彼は、その結果、罪と呪いそのものになりました。しかし、もう一つの意味があります。それは父なる神の悲しみです。父なる神が、常に一つとなって存在していた御子イエスを見捨てなければならないことへの父なる神の計り知れない悲しみを表しています。預言者アモスは次のような預言の言葉を残しています。(8章9,10節)「その日には、ー神である主のことばーわたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたの歌をすべて哀歌に変える。すべての腰に粗布をまとわせ、頭を剃らせる。その時、ひとり子を失ったときの喪のように、その終わりを苦渋の日のようにする。」この暗闇が続いた3時間、父なる神は御子イエスの上に何度も何度もすべての時代のすべての人の罪を注ぎ続けました。父なる神は、ひとり子イエスにこのような苦しみを与えることによって、私たちの罪を許されたのです。しかし、そこには父なる神の大きな悲しみがありました。父なる神が御子イエスに、偽りや人殺しや憎しみや傲慢など私たちの心の中にあるあらゆる罪を注がれるたびに、人間の体が鞭で打たれた時に反り返るように、主イエスの心は苦しみで、いわば、けいれんを起こしたような状態だったと思います。十字架刑は、肉体の苦しみも極めて大きいのですが、主イエスにとって、肉体の痛みはまったく微々たるものでした。罪を背負うことの苦しみは我々の想像を超える極限の苦しみであったのです。ついに、主イエスは、神の呪いそのものになってしまいました。ガラテヤ書3章13節には次のように書かれています。「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖いだしてくださいました。」

 3時ごろまで、暗闇と沈黙が続いていましたが、突然、主が大きな声で叫ばれました。「「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」実は、この言葉は詩篇22篇の1節の言葉ですが、イエスの十字架を預言する言葉だったのです。主イエスは、暗闇の中で、すべての人間の罪を背負わされ、永遠の時間の中でそれまで一秒たりとも離れたことのなかった父なる神から見捨てられるという恐怖の中で、旧約聖書の中でただ一つ、神から見捨てられることが語られている詩篇の22章1節を引用して叫ばれました。これによって、その預言の言葉が成就しました。主イエスは、父なる神から見捨てられたことを大きな声で宣言されました。その結果、暗闇が少しずつ消えて行きました。神の裁きが終わったことを現わしています。人々は、「エロイ、エロイ」という言葉を聞いて、主イエスが旧約聖書の預言者エリヤを呼んでいるのかと勘違いしています。ヨハネの福音書によれば、主は続いて「わたしは渇く」と言われました。それで、36節を見ると、「一人が駆け寄って、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、それを葦の棒につけてイエスに差し出しています。酸いぶどう酒には痛みを麻痺させる効果がありました。
 37節に「イエスは大声をあげて息をひきとられた」と書かれていますが、他の福音書を見ると、イエスは最後に2つの言葉を大声で言われました。普通、十字架につけられた者は、くぎを打たれた手足からの出血、高熱、そして、呼吸困難になって、最後は力をなくして死にます。しかし、主イエスは最後まではっきりとした意識を持ち、叫び声を上げる力を持っておられました。二つの言葉のうちの一つは、「完了した」という言葉です。この「完了した」という言葉は、すべては終わったという絶望の叫びではありません。自分が委ねれられたすべての使命を完了したという宣言の言葉です。主イエスが、神の栄光の座を離れて、低い者となってこの世に来られて、そして、十字架の死にまで従い、神に見捨てられるという神の裁きと呪いを受けることによって、イエスが地上で果たすべきすべての使命を完了されたという宣言です。そして、最後の最後に「父よ。わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」と言って、息を引き取られました。主イエスは、父なる神に自分の霊を委ねたのです。以前にも言ったように、イエスは、いのちを奪われたのではなく、自分からいのちを捨てられました。そのことがこの最後の言葉に現われています。主イエスは、私たちを友と見なしてくださり、私たちのために自分のいのちを捨ててくださいました。ここに主イエスの愛が現れているのです。

 主イエスが十字架で私たち罪人のために自分のいのちを犠牲にされたとき、いろいろなことが起こりましたが、マルコは特に2つの出来事を記しています。。その一つが38節に記されています。「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」エルサレムの神殿には、天井から床まで非常に分厚い幕が垂れ下がっていました。その幕の奥にある場所は神様がおられると見なされた場所で、「至聖所」と呼ばれていました。そこには、ユダヤ教トップの大祭司以外、誰も入ることは赦されませんでした。しかも、大祭司でさえも、一年に一度、ごく短い時間だけしかその中に入ることができませんでした。聖なる神様に、罪を持つ人間は近づけないのです。そのように、非常に厳重に人間の立ち入りが禁止されていた場所でした。その分厚い幕はとても人間の力で引き裂くことはできません。その幕に、超自然的に、まるで天井から床まで一気に鋭い刃物で切り落としたかのように、幕屋が二つにさけて、これまで、1000年間私たちから完全に隔離されていた場所が、誰でも近づける場所に変わりました。キリストの十字架の死は、死ぬことと死後にさばきを受けるという束縛から私たちを解放してくださったことを意味します。主イエスを信じる者は、誰でも、いつでも神様の直接近づくことができるようになりました。今、私たちは、自由に、父なる神様に向かって祈りを捧げることができます。神様に祈るとは、神様に語り掛けると言う意味です。旧約聖書の時代、人々は直接神様に祈るのではなく、神殿に行って祭司に祈ってもらって、自分の願い事を神様に知らせていました。しかし、今はだれでも、いつでも神様に近づくことができます。
 またイエスの死は、そのように人々を制限から解放するだけではありませんでした。もう一つの出来事は39節に記されています。そこにはイエスの正面に立っていた百人隊長の言葉が記されています。百人隊長とは、ローマの軍隊の100人の部隊のリーダーですが、彼が、今回のイエスの処刑の責任者でした。彼はその任務をローマ総督ピラトから与えられていました。従って、彼は、主イエスの処刑の最初から最後まですべて見届けていました。ピラトの裁判が終わった後、イエスが激しくムチで打たれたこと、重い十字架を背負わされて、処刑場まで歩かされたこと、ゴルゴタの丘で、イエスが十字架に太いくぎではりつけにされたことなど、すべての場面を目撃していました。また彼は、イエスが十字架の上で語られた言葉も全部聞いていました。イエスが、自分を十字架に着けた人々のために父なる神に「彼らをお赦しください。」と言われた祈りも、イエスの隣で磔になった男に、「あなたは今わたしといっしょにパラダイスにいる」と言われた言葉もすべて聞いていました。また、彼はお昼の12時から3時まであたりが暗闇に覆われたことも体験し、そして、3時にイエスが「完了した」と言って息を引き取られたのもすべて、目撃していました。彼は、イエスが「完了した」と宣言する言葉とともに息を引き取る姿を見ました。その最後の姿は、今まで彼が見て来た犯罪者たちの死に方とはまったく異なっていました。それらを見たローマの軍人の百人隊長は言いました。「この方は、まことに神の子であった。」この言葉が意味することは、主イエスの十字架の死をよく見て、そのことについてよく考えれば、彼の死が普通の人間の死ではないこと、そして、イエスが神であることが聖書のことを何も知らない人にも明らかにされるということです。主イエスは、神であり罪がまったくなかったにもかかわらず、人となってこの世に来てくださり、恥と屈辱の塊のような十字架の死を自分の任務として実行してくださいました。私たちの罪が赦されるために、主は神の怒りと呪いを全部受けてくださいました。そして、私たちに代わって、父なる神様から見捨てられるという恐ろしいことを体験してくださいました。私たちも、この百人隊長と心を合わせて「この方こそまことに神の子です。」と告白できます。
 イエスが息を引き取った後、12時からあたりを覆っていた暗闇は消え去りました。十字架が立つゴルゴタの丘にふたたび太陽の光が豊かに注がれました。暗闇の3時間の間に、私たちの罪が赦されるための罪の罰がイエスに与えられましたが、イエスが完了したと言葉を発した時から光が回復したのです。私たちの罪が赦されるために、しなければならないことを主が全部行ってくださって、完了しました。太陽の光は、私たちと神様とが新しい平和の関係に入ったことを示すシンボルだと思います。私たちが主イエスを救い主と信じるなら、イエスの十字架が私たちを罪と死の束縛から解放し、私たちは、永遠に神様とともに生きる者になるのです。

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