2021年5月9日 『イエスの身代わりの死』(ヨハネ福音書11章47-57節) | 説教      

2021年5月9日 『イエスの身代わりの死』(ヨハネ福音書11章47-57節)

 今日は、ヨハネの福音書11章から4回目のメッセージになります。ヨハネの11章に記されているのは、ラザロを死から生き返えらせた主イエスの奇跡の出来事です。この出来事をとおして、主イエスの言葉が信じであることが証明されました。それは、「わたしは、よみがえりです、いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。」という言葉です。イエスはいのちそのものの方で、どんな状況であっても、人にいのちを与えることのできる全能の神なのです。クリスチャンは、このことを信じているので、死に対して不安はありますが、絶望はありません。ラザロは、死んですでに4日が経っていましたが、主イエスが大声で「ラザロよ、出て来なさい。」と言われると、彼は手と足を長い布に巻かれたまま、墓から出て来ました。そこには、ラザロの姉妹であるマルタとマリヤを慰めるために集まっていた大勢の人々がいましたので、多くの人が、この場面を目撃して、主イエスが、約束の救い主メシアであると信じました。これほど素晴らしい奇跡ですから、そこにいた人が全員、主イエスを信じるに違いないと思いますが、信じない人もいました。彼らは、主イエスが行った奇跡に怪しいものを感じたのか、それとも、事実を見ても信じたくなかったのか、ラザロが生き返ったことを喜ぶこともなく、彼らはイエスを殺そうと狙っていたパリサイ人たちのところに知らせに行きました。この人たちは、もともとイエスを信じていませんでしたが、こんな奇跡を見ても、やはり信じようとしませんでした。この奇跡を見てイエスを信じた人であれば、ラザロやマルタ、マリヤとともに、ラザロが生き返ったことをともに喜んだでしょうし、その場に残って、主イエスに何か話したい、何か尋ねてみたいと思ったはずです。彼らは、イエスに敵対する人々のところに、むしろ、この奇跡によって、イエスがいっそう危険な存在になったことを知らせに行きました。
 この知らせを聞いたパリサイ人たちは強い危機感を持ちました。もし、彼らのところに来た人たちが言ったことが事実であるなら、その驚くべき奇跡を見てさらに多くの人が主イエスを信じることは確実だからです。しかも、ユダヤ教最大の祭りである、過越しの祭りが近づいていて、多くのユダヤ人がイスラエル国内からも近くの外国からも大勢エルサレムに集まって来るので、この奇跡がその人々にも伝われば、イエスの働きを抑えることは不可能になります。このまま主イエスが働きを続けてさらに多くの人が主イエスを救い主と信じるようになれば、彼らが今持っている権力、特権、影響力が失われてしまう、彼らはそれを恐れていました。それで、彼らは直ぐに行動を起こしました。彼らは、ユダヤ教の祭司長たちと相談をして、最高法院を招集しました。最高法院は、ヘブル語でサンヘドリンと言うのですが、宗教界での権限を持つだけでなく、三権分立の反対で、司法・行政・立法の権限をすべて握っていた議会でした。彼らは、ローマ帝国からの制限を受けていて、死刑の宣告をすることは認められていませんでしたが、それ以外は、イスラエル国内において、ほぼすべての権限を握っていました。彼らが集まった目的はただ一つです。「イエスをどうすればいいか」ということです。最高法院の議会で最初に言われた言葉が「われわれは何をしているのか。」という言葉でした。人々の間で主イエスの人気がますます高まっているのに、自分たちは何もできていないではないか。これが最高法院の議員たちが集まった動機だったのです。彼らは48節でこう言っています。「あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」ローマ帝国の中には様々な民族が住み、様々な宗教がありましたが、ローマ帝国はそれぞれの民族や宗教に比較的自由を与えていました。ただ、その自由は、彼らがおとなしくしていて、ローマ帝国の指示に従うという条件のもとで与えられた自由でした。ユダヤ教の指導者たちはこれまでの経験から、イエスが奇跡を行うと、人々が熱狂的になったり、あるいはイエスに敵対する人たちとの間で騒ぎが起きる危険があることを知っていました。このまま主イエスの働きを放っておくと、ローマ帝国が介入してきて、エルサレムの神殿が閉じられたり、ユダヤ教の活動が禁じられる可能性が十分ありました。「われわれの土地も国民も取り上げる」というのは、要するに、ユダヤ教にお金が入るすべがすべて奪われるということです。パリサイ人たちも祭司長たちも、国のトップの人間が考えていたのは、自分の国や国民のことではなく、自分たちの利権のことだったのです。
ここで、一つ注目してほしいことは、このようにイエスについて議論しているパリサイ人も祭司長たちも、イエスが行った奇跡については誰も否定していません。イエスの奇跡に反論する人は一人もいませんでした。イエスの一番の敵であった彼らでさえイエスの奇跡を否定しないということからも、イエスの奇跡が事実であったことが分かります。しかし、それでも、彼らはイエスを救い主と信ぜず、自分たちの考えにしがみついていました。彼らは裁判官としても働いていましたが、主イエスに対する彼らの姿勢は、客観的な事実に基づいてイエスを裁くのではなく、自分たちへの影響がどうなるかということに基づいてイエスを裁いていました。
 そんな中、その年の大祭司であったカヤパが発言しました。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」大祭司はユダヤ教のトップです。カトリック教会のローマ法王のような存在です。そのカヤパが非常に上から目線の傲慢なことを言いました。今でもそうですが、当時も、国会議員のような存在のサンヘドリンのメンバーたちは非常に傲慢でした。カヤパの「何も分かっていない」という言葉も、何が真実で何が真実でないのかということが分かっていないという意味ではありません。このような状況の時に、「自分たちにとって一番都合がいいのは何なのか、全然わかっていない。」もう少し強めに言えば、「君たちに少しでも知恵があるなら、こんな状況の時、我々にとって一番都合がいいのは、あの男が死ぬことなんだ。そんなことも分からないのか?」という意味です。彼は、ユダヤ教のトップの人間です。一年に一度、すべての民を代表して、エルサレムの神殿の奥にある至聖所と呼ばれる所に入り、民全体の罪の赦しを求める祈りを神に捧げる人物です。そのカヤパが、当時の国のトップリーダーたちに「イエスを殺すことが我々にとって一番の得策だということを考えないのか?」とバカにしたように言い放ちました。「得策という言葉は、辞書で調べると「道徳的ではないが、自分の利益・目的にとっては、好都合であること」という説明がありました。彼は、表面的には愛国者を装っています。彼は、「自分たちには今、二つの選択肢しかない。それは、彼が死ぬことか、それとも我が国がローマによって滅ぼされて死ぬか、どちらか一つだ。」と言っています。しかし、彼の本心は、主イエスに対するねたみ、憎しみだったのです。彼の本心は、主イエスの裁判のときに、もっと明らかに現れます。主イエスは逮捕された後、カヤパのところに連れて来られます。最高法院ではイエスに死刑にするためにイエスに不利な証言を得ようとしていましたが、証拠が見つかりませんでした。そこで、カヤパは、イエスに「私は、生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか答えよ。」と言いました。それに対して、主イエスは「あなたが言ったとおりです。」と答えられました。カヤパはこのイエスの言葉を聞いて激しく憤って自分の服を引き裂いて、「この男は神を冒涜した。今、神を冒涜する言葉を聞いたのだ。」と叫びました。主イエスがカヤパの言葉を否定しなかったのは、自分が神の子であることを認めたことになるからです。ユダヤ人にとって神でない人間が自分を神とすることは神への冒涜になり、死刑に値すると見なされていました。カヤパは、人の目には、神の冒涜するイエスの言葉にショックを受け激しく怒った様子を見せていますが、内心は喜んでいたのです。彼は心の中で思っていたのです。(やっと、言ってくれたよ。自分が神の子だと。これで、この男を訴えることができる。)実際にどうなったかというと、彼らはイエスを十字架で処刑することには成功しましたが、結局、自分たちの国を守ることはできませんでした。AD70年にローマ帝国との戦争でエルサレムもユダヤ教の神殿も完全に破壊されてしまい、ユダヤ人はこの時から1900年もの間流浪の民として世界中に離散することになりました。
 このように大祭司カヤパの言葉は、宗教家とは思えない冷酷で自分勝手なものだったのですが、ヨハネは、このカヤパの言葉を、イエスの十字架の死を預言する言葉だと見なしました。51節に彼はカヤパの言葉に対するコメントとして、「このことは、彼が自分から言ったのではなかった。」と記しています。このコメントの意味は、カヤパ自身は、自分や最高法院の権力を守るためにはイエスを殺すしかないという悪意に満ちた発言をしたのですが、神様が、そのカヤパのひどい言葉を、主イエスの十字架の死を預言する言葉に変えられたということを意味します。カヤパは最悪の人間ですが、彼は、一応、ユダヤ教のトップである大祭司です。大祭司は、イスラエルの民に神の言葉を伝えるスポークスマンの務めを担っていました。カヤパは自分の発言に対しては責任を負わなければなりませんが、彼自身は何も知りませんが、自らイエスの死を預言する言葉を言っていたのです。神様は、これまでも、人間の自分勝手な行いや言葉を、ご自身の計画を実行するために用いることがありました。例えば、主イエスはベツレヘムで生まれましたが、それは、マリアの出産の時が近づいていた時に、ローマ皇帝が人口調査をせよという命令を出したことによって実現しました。ローマ皇帝が人口調査をするのは、税金を増やすためとローマ軍の兵士の数を増やすためであり、皇帝は利己的な理由で人口調査を行いました。しかし、それによって、マリヤとヨセフは自分たちの出身地であるベツレヘムで登録をするためにナザレからベツレヘムに移動したのです。その結果、主イエスは、旧約聖書の預言のとおり、ベツレヘムでお生まれになりました。それと同じように、カヤパは、イエスを犠牲にすることによって、自分たちの特権と自分たちの国を守ろうとしたのですが、それが、神様の主権によってキリストの十字架の死を預言する言葉に変えられたのです。
 さらに、ヨハネは、52節で次のようにコメントしています。「ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを預言したのである。」このヨハネの説明から分かることは、カヤパの言葉を用いて神様が明らかにされたことは、御子イエスキリストが、人々を救うために、自分から死のうとしておられることです。罪のない神の御子キリストが、私たちを罪の裁きから救い出すために、自分から死のうとしておられるのです。主イエスご自身が言われました。「人がその友のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はありません。」主イエスが私たちの身代わりとなって死んでくださったのは、何よりも、私たち一人一人を大切な者と見てくださり、私たちを愛する心から出ているということです。第二に、このイエスの死は、ただ単にイスラエルの民やイスラエルという国だけのためではなく、全世界の人々のためであることが明らかになりました。第三に、このイエスの死は、散らされている神の子たちを一つに集めるためのものでありました。ここで散らされている神の子というのは、広い意味ではユダヤ人以外の外国人のことを指しています。最初のクリスチャンはほぼ全員ユダヤ人だったのですが、イエスの十字架による救いのメッセージはやがてユダヤ人の枠を超えて全世界の人々に伝えられて行きます。ユダヤ人のクリスチャンも外国人のクリスチャンも、一つの神の家族に集められるために主イエスは十字架で死んでくださったことを現わしています。クリスチャンになるということは、このように神の家族に加わることを意味していますから、私たちは、クリスチャンになると洗礼を受けて、それぞれの地域の教会のメンバーになります。しかし、それだけでなく、全世界にいる、いろいろな民族や国語からなる一つの神の家族の一員になるという意味も含んでいます。私は1976年のモントリオールオリンピックの時に行われた伝道プログラムに参加しました。その時、世界中の50の国から1500人の若いクリスチャンが集まっていました。オリンピック開催中の2週間、いろいろな場所に出かけていってトラクトを配ったり、皆で賛美をしたりして伝道をしました。伝道を始める前の1週間は学びの時を持ちました。国別に参加者は固まって座って講義を受けました。英語とフランス語でメッセージが語られると、一斉にあちこちから各国の言葉での通訳がメッセージを自国言葉に訳していました。その時、世界中に本当に多くの信仰の仲間がいることを知って、私はとても励まされました。私たちは、どうしても、自分に身近な世界を見ていますが、実は、クリスチャンになることは全世界にいるクリスチャンが集まる一つの家族に加わることなのです。世界中、どこに行っても、その地の教会に行けば同じ主にある仲間と出会うことができます。カヤパ自身は、ひどい人間であくどいことを考えていましたが、彼が何も気づかない中で、神様が、彼の言葉を私たちにとって素晴らしい預言の言葉に変えてくださいました。
 53節に、「そこで、彼らは、その日から、イエスを殺すための計画をたてた。」と記されています。ユダヤ教指導者たちの間では、その日、正式に、イエスは死ななければならないことが決定されました。彼らは、自分たちの知恵と権威をもって、状況をすべてコントロールしていると思っていましたが、実際には、神様が永遠の昔から決めておられた計画を、彼らの動きを利用して、実行されたのです。ユダヤ教指導者たちは、イエスを殺す時期として、過越しの祭りの間は騒ぎが起きる危険があるので、祭りが終わってから実行しようと計画していましたが、神様のご計画の中で、主イエスは、過越しの祭りの時に十字架にかかられました。イエスが十字架にかかる準備が整いました。この後、人間は最悪のことを行い、神はその人間のために最高のことをしてくださいました。

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