2021年7月18日 『心を騒がせてはなりません』(ヨハネ14章1-3節) | 説教      

2021年7月18日 『心を騒がせてはなりません』(ヨハネ14章1-3節)

 ヨハネの福音書14章は、主イエスの優しい言葉で始まっています。「あなたがたは、心を騒がせてはなりません。」主イエスと共に部屋にいた弟子たちが心を騒がしていたことは明らかでした。13章の終わりで、主イエスは弟子たちに「あなたがたは、わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」と新しい戒めを与えられたのですが、主がその言葉を言い終えると、しびれを切らしたように、ペテロが口をはさんで主イエスに質問しました。「主よ。どこにおいでになるのですか。」ペテロはこのことを聞きたくてうずうずしていました。というのは、主イエスが彼らに新しい戒めを与える前に、弟子たちを不安に陥れるような言葉を言われたからです。13章33節の言葉です。後半を読みます。「ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」ペテロはこの言葉にショックを受けていました。彼は「主は、自分たちを置き去りにしてどこかに去って行くのだろうか。」と心を悩ませていたのです。そのため、彼はイエスが教えを語り終えるやいなや「主よ。あなたはどこに行くのですか」と尋ねたのです。すると主はペテロに答えられました。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし、後にはついて来ます。」主イエスを心から愛していたペテロは、自分がイエスの後をついていけないことが納得できませんでした。それで、ペテロは力をこめて言いました。「主よ。なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」ペテロにはプライドがありました。「自分は家族や仕事を捨てて主の弟子になったのだ。主のためならいのちを捨てる覚悟で今日まで主についてきた。なぜ、主は私を見捨てて去って行くのか。」彼は、この時まだ自分の本当の姿、自分の弱さをちゃんと理解していませんでした。彼はちょっとヒーローになったような気分で、主イエスに「あなたのためなら、私はいつでもいのちを捧げます。」とかっこよく言い放ったのですが、そのペテロに主ははっきりと言われました。「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」ペテロはこの言葉にさらにショックを受けましたが、ショックを受けたのは他の10人の弟子たちも同じでした。彼らの思いは、「あの勇敢なペテロが、主を知らないと3回も言うんだとすれば、自分はいったいどうなるんだろう。もしかして自分がイエスに裏切り行為をしてしまうのだろうか。」部屋の中にいた11人は皆、大きな不安と戸惑いを感じていました。そんな時に、主イエスが言われた言葉が14章1節の「あなたがたは心を騒がせてはなりません。」でした。

(1)心を騒がせてはならない
 聖書は、「信仰を持てば、世の中の問題はなくなり、人生はバラ色になります」とは約束しません。そんな約束ははっきり言って偽りでしかないからです。この世の中には心を騒がせることがたくさんあります。人は皆自分が第一だと考える罪人ですから、そういう人間が集まる世界には、心を悩ますことがあって当然です。聖書には「主イエスを信じたら病気にならない」とか「家の中がいつも安全だ」とか「商売すれば繁盛する」とかそのような約束はありません。むしろ、聖書は、この世で私たちが悩むときに、神様があなたの助け主としてあなたのそばにいること、神様は信頼できる神であることを教えています。主イエスは、弟子たちに、「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言われました。弟子たちは、イエスと出会ったときに、彼らは自分の罪を認めて悔い改めて、イエスを救い主だと信じました。彼らは、その信仰によって罪を赦された者になっていました。彼らは罪が赦されるための信仰を持っていましたので、そういう意味ではイエスを信じていました。しかし、彼らは心を騒がせていました。この後、彼らはもっともっと心を騒がせることになります。主イエスと弟子たちは、食事の後、彼らはイスカリオテのユダの裏切りを知り、イエスが逮捕される場面を目撃し、ついには、十字架で処刑されるのを見るからです。彼らは、これから2,3日の間に、大変ショッキングな出来事にいくつも出会うことになります。彼らには信仰があったのですが、それでも心を騒がせていたのです。そのような彼らに対して、主イエスが「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と命令されました。信じなさいという命令ですが、ギリシャ語には2種類の命令があります。一つは一回だけの行いとしての命令であり、もう一つは、継続的に行うようにという命令です。ここでは、主イエスは弟子たちに、継続的にイエスを信じ続けるようにといいう命令を与えておられます。彼らは、心を騒がす経験をこれから何度も持つことになりますが、主は、そのような厳しい状況の中でも、彼らがいつも主イエスを信頼し、主イエスを信じ続けることを願われました。詩篇の46篇1節には次のような言葉があります。「神は、われらの避け所、また力、苦しむとき、そこにある強き助け。」数年前に御岳が突然噴火して多くの方が亡くなりましたが、その時に人の命を守ったのがシェルターです。火山の火口近くには、どこでもシェルター、避難場所が設置されています。シェルターがなければ人は死の危険にさらされます。この詩篇を書いた人は、神様が自分にとってシェルターだと告白しています。人生には何が起きるか分かりません。最近は、地球温暖化の影響なのか激しい風が吹いたり雨が降ったりしています。先日熱海で大きな災害がありましたし、ドイツでも大勢の人が洪水でなくなったり行方不明になっています。私たちは、いつでも避難できる場所が必要です。聖書は、神様があなたの心の避難所であると教えています。困難に直面するとき、パニックになりそうなとき、私たちはふと心を神様に向けると、それだけで、不思議な平安を感じることができます。み言葉を読むことによって、その言葉に励まされます。私たちは肉眼で主イエスを見ることはできませんが、聖霊の働きをとおして、主イエスが今も自分のそばにおられるのを感じることができます。主は、私たちにとって苦しむとき、そこにある強き助けになってくださるのです。讃美歌で一番有名なのは312番の「いつくしみ深き」です。「いつくしみ深き友なるイエスは、罪とが憂いを取り去りたもう」この歌の作詞者はジョセフ・スクリーベンという人です。彼は裕福で、高い教育を受け、信仰深い両親のもとで育って恵まれた日々を過ごしていました。しかし、彼の人生のクライマックスという時に大きな悲劇が起こりました。彼の結婚式の前夜、彼の婚約者が乗っていた船が沈没して、婚約者が死んでしまったのです。彼は、絶望的な悲しみの中で、自分の悲しみを理解し、自分の心を本当に慰めてくれるのは、彼にとって最大の友である主イエスであることを悟ったのです。真実の友は、自分をそのままに受け入れてくれる人であり、良い時も悪い時もいつもそばに寄り添ってくれる人ですが、ジョセフ・スクリーベンは、主イエスこそ、自分にとって真実の友であることを知りました。この讃美歌の英語のタイトルは「What A friend we have in Jesus」というのですが、これは、私たちにはイエスという素晴らしい友がいるという意味です。一番の歌詞は、こんな感じです。「イエス様は、本当にすばらしい友だ。私たちの罪も悲しみも全部背負ってくれる。何でもかんでも主に向かって祈れることは大きな特権だ。心に平安があると思っていても、すぐに消え去るものだ。時には、必要ない重荷を自分でかかえている。なぜだろう。イエスに祈って自分の重荷をおろさないからだよ。」主イエスは、あなたにとっても最高の友となってくださるお方です。主イエスは私たちにも言われます。「神を信じ、またわたしを信じなさい。」

(2)天国の約束
 主イエスは、心を騒がせている弟子たちに対して、もう一つのことを語られました。それは天国のことです。主イエスは弟子たちのもとから去って行きますが、その別れは永遠の別れではないことを弟子たちに約束されました。「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったでしょうか。」主イエスは、弟子たちのために場所を用意するために、彼らのもとを離れるのだと言われました。父の家とは、もちろん天国のことです。天国のことを父の家と呼ぶ意味は何でしょうか。それは、天国は素晴らしい場所であることは間違いありません。大変美しい場所であることも確かです。しかし、どんなにステキな場所であっても、そこに親しい交わりがなければ、素晴らしい場所とは言えません。天国がなぜ素晴らしいかと言えば、わたしたちのいのちを作ってくださった私たちの父なる神様がおられる場所だからです。今、私たちが地上で生活している間は、私たちは肉眼で神様を見ることはできません。私たちは祈りの中で神様に語り掛け、また聖書を読むことで、神様の語り掛けを聞くというかたちで神様と交わっていますが、やはり、目に見えないために、神様の存在が少し遠く感じられます。しかし、私たちが天国へ行くと、素晴らしい愛に満ちた神様の姿をはっきりと見ることができ、神様と直接の交わりを持つことができるのです。新約聖書の最後の書物「ヨハネの黙示録」に天国のことが詳しく描かれていますが、21章3,4節にはこう書かれています。「見よ神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」そこには、私たちのための場所がたくさんあると主は言われました。天国は、特別に信仰深い一部の人のためのものではありません。今心を騒がせている11人の弟子たちもそこに行くことが約束されています。どんなに信仰が弱くても、主イエスを救い主と信じる決心をしている人は、皆、行くことのできる場所です。だから、主は「わたしの父の家には住むところがたくさんある」と言われたのです。ちなみに、黙示録の21章16節には天国が幅、長さ、高さが全部同じ立方体であると書かれていて、すべてその距離が12000スタディオンであると書かれています。12000スタディオンは2200キロになります。従って面積だけでアメリカの半分以上あるのですが、それに高さが2200キロ加わるので、天国の大きさは想像を超えるほどの広い場所です。
 さらに、天国とは、主イエスが準備してくださる場所です。例えば、自分の家の一つの部屋にだれか親しい人を住まわせてあげようと思ったとします。すると、その人のために部屋の準備をします。どんな家具が要るのか、ベッド、机、電気製品などを準備します。布団やカーテンなども準備するでしょう。主イエスは、私たちのために天国に住む場所を準備しておられるのですが、それが言葉では表せないほど桁違いの美しさにあふれた場所です。その様子をヨハネは黙示録の21章の11節以降に書いていますが、彼が書いた言葉を読んでも、その美しさはよく分からないほどすごいものです。例えば11節では天国を都と表現していますが、「都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。」と書かれています。碧玉とは水晶のようは透明に光る宝石です。18節には、都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。」透き通ったガラスに似た純金とはどんなものでしょうか。想像できませんが、行ったら分かるので、期待していたいと思います。
 さらに、主は続けて3節でこう言われました。「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」天国は、今お話ししたように非常に美しい場所であることは確かなのですが、ただ美しいだけでは、しばらくすると美しさも当たり前のように見えて飽きてしまうでしょう。しかし、天国では決してそんなことはありません。なぜなら、そこには主イエスがおられるからです。しかも主イエスが私たちをいっしょにおらせるようにと、この天国を準備してくださったのです。主イエスは、私たちに一緒にいてほしいと思ってくださるとは、素晴らしいことではないでしょうか。誰かから一緒にいてほしいと思われることは嬉しいものです。私は今子どもに英語を教えているのですが、幼い子供を相手にするのは簡単ではありません。一人の女の子がなかなか心を開いてくれなくて、クラスをするのに工夫が必要な時があります。昨日も、最初なぜかご機嫌が悪くて、何を言っても口を堅く閉じていたのですが、いろいろやっているうちに、本当に小さなささやくような声で答えてくれるようになり、そのうちクラスが終わることは私のひざの上に座っていました。私は、ちょっと嬉しかったです。その女の子が少し心を開いてくれたのかなと感じて嬉しかったのです。主イエスは、私たちがご自分のそばにいることを願ってくださって、私たちを自分のそばにおらせるために、わざわざ、迎えに来てくださるというのです。主イエスは、復活の後、天に帰られましたが、聖書は、主イエスがまた来てくださることを約束しています。それは、主がもう一度この世に来られる時、それを再臨と呼びますが、その時かもしれないし、または私たちがこの世の人生を終わる死の時かもしれません。いずれにせよ、主は私たちを天国に導くためにもう一度私たちのところに来てくださるのです。仏教では、死んだ後、暗い場所をさまよって旅をしなければなりませんが、私たちは旅をする必要はありません。主イエスが迎えに来てくださるからです。だから、私たちは、この世の人生の中でどんな状況におかれても、心を騒がせる必要がありません。なにか不安を感じるようなことが起きたときは、主イエス・キリストを信頼すればよいのです。
 弟子のペテロは、心を騒がせて「主よ、どこにおいでになるのですか」と尋ねました。しかし、そのペテロも、大きな失敗もありましたが、主イエスによって信仰を回復してもらい、新しい使命をいただいて、彼は最後まで主のために自分の生涯を捧げました。彼は年を取ってローマの教会で働いていましたが、ローマ皇帝ネロの迫害が非常に激しくなりました。それで、信者たちがペテロにローマから逃れるように勧めます。彼にはローマ以外の信者たちのためにも大きな使命があったからです。それで、ペテロはローマの街を出て、アッピア街道を歩いていたのですが、突然、光のようなものが向こう側から近づいてくるのを感じました。思わず、ペテロはひざまずいて「主よ、どこにおいでになるのですか。」と言いました。13章で言ったのと同じ言葉です。この言葉はラテン語では、「クオ・バディス。ドミネ」と言います。ペテロの言葉に答えるイエスの声が聞こえてきました。「お前はわたしの民を見捨てるのか。お前がローマを見捨てるのなら、わたしはこれからローマに行って、もう一度十字架にかかる。」それを聞いたペテロは立ち上がって、何も言わずに来た道を引き返し、ローマに戻りました。そして、ローマで、彼は捕らえられ、十字架につけられて殉教しました。ペテロが十字架につけられる時、ペテロは申し出ました。「私には、キリストと同じように十字架に掛けられる資格はない。私は多くの失敗を犯して来た。私を十字架につけるのなら、どうか頭を下に足を上に、体をさかさまにしてはりつけてほしい。」それで、ペテロは逆さ十字ではりつけにされました。これは2世紀に書かれた「ペテロの行伝」という本に記された伝説で、これを基にして「クオ・バディス」という小説が書かれて映画にもなりました。最後の晩餐の時に心を騒がせて、大きな失敗をしたペテロでしたが、最後は、勇敢に堂々とキリストの弟子として生涯を終えました。彼は、最後までイエスを信頼した弟子として生きたからです。

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