2021年7月25日 『天国に至る唯一の道』(ヨハネの福音書14章4-11節) | 説教      

2021年7月25日 『天国に至る唯一の道』(ヨハネの福音書14章4-11節)

 主イエスは、弟子たちに、これまでにも、自分が十字架にかかって死ぬことと、死んだ後三日目に復活することを繰り返し教えておられたので、弟子たちが、これから自分が何をしにどこに行こうとしておられるのか、理解していることを期待しておられました。それで主イエスは4節で「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」と言われました。しかし、この時、弟子たちの心はとても動揺していたので、弟子たちには主イエスの言葉の意味がまったく分かりませんでした。それで、トマスが主イエスに尋ねたのです。「主よ。どこへ怒れるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」恐らく、弟子たちは、主イエスがまもなく死ぬことは感じていたでしょう。ただ、主イエスは死んだ後どうなるのか分かっていません。トマスは、主イエスを愛していましたから、主イエスから離れたくないという気持ちを強く持っていました。そういうわけで、彼はこのような質問をしました。

それに対して主イエスが答えられたのが14章6節の言葉です。「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』」主イエスは、わたしは道を見出した、わたしは真理を見出した、わたしはいのちを得たとは言っておられません。主イエスは、わたしが道である、わたしが真理である、わたしがいのちであると言われました。実は、この3つのことは、人間が抱えているもっとも大事な問題を解決するものなのです。人間は、神様によって、特別に神にかたちに似せて造られました。神様と交わり、神様とともに生きることができるのは人間だけです。しかし、最初の人間であるアダムとエバが、神様の命令に従わずに自分の欲望に従ったために、人間の心に罪が入ってしまいました。それまでは人間には3つの特権が与えられていました。神様と交わりを持っていること、神様を知っており、神様に関する真理を知っていること、そして、永遠のいのちを持っていることでした。しかし、彼らが神様に対して罪を犯したときに、二人はその3つの特権をすべて失ってしまいました。神様との交わりを閉ざされてしまいました。神様に関する真理を知ることができず、悪魔の誘惑の言葉に惑わされました。そして、永遠のいのちを失い、死を経験する者になりました。アダムとエバが罪を犯した結果、人間の世界は現在のような状態になってしまいました。人間の世界には、つねに悪があり、偽りがあり、憎しみがあり、怒りがあり、不安があります。しかし、イエスが道であること、真理であること、いのちであることは、その3つの問題をすべて解決することができます。

(1)わたしは道である
道とは、一筋の線ですが、その線には始まりがあり終わりがあります。出発点とゴールです。イエスがわたしたちにとって道であるのは、罪の結果である永遠の滅びから私たちを救い出して、父なる神がおられる天国へと導く道だからです。聖書は、罪を持ったままの人間は肉体の死に加えて魂も永遠の滅びに至ると教えています。ではその罪をどのようにして取り除くことができるのでしょうか。この罪を取り除く唯一の方法が、主イエスの十字架です。父なる神様が、罪のない神のひとり子イエスをこの世に遣わし、私たち人間が持っている罪の罰を、罪のないイエスがすべて身代わりになって十字架の上で、その刑罰を受けてくださいました。罪のない者が罪のある者の身代わりに罰をうけて死ぬことを通して、罪ある者の罪が帳消しにされて刑罰を受けなくてもよいようにしてくださいました。主イエスご自身が言われた言葉ですが、「人がその友のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はありません。」かつて第二次世界大戦宙に、アウシュビッツのユダヤ人強制収容所に、コルベ神父という方が入れられていました。ある日、彼の班の一人が収容所から脱走し、捜索しましたが見つかりませんでした。このまま見つからないと、連帯責任として、見せしめのために同じ班の中の10人が処刑されることになっていました。囚人たちは点呼を取り整列させられ、収容所所長は無差別に10人を選び餓死刑に処すと宣言しました。10人が選ばれました。その中の一人が「私には妻と幼い子供がいます。助けてください。」と言って泣き崩れました。そのとき、コルベ神父が所長の前に進み出て、収容所所長に「お願いしたいことがある」と言いました。「私はカトリックの司祭です。自分は、妻子あるこの人の身代わりになりたいのです」。所長は驚きのあまり、すぐには言葉が出てきませんでした。囚人が皆、過酷な状況の中で自分の命を守るのに精一杯なのに、他人の身代わりになりたいという囚人が現れたからです。しばらくして所長は「よろしい」と答え、コルベ神父を受刑者の列に加え、コルベ神父は他の9人と共に<死の地下室>と呼ばれる餓死監房に連れて行かれました。餓死監房は生きて出ることのできない場所でした。パンも水もなく、飢えは渇きよりも苦しく、多くが狂い死にする場所でしたが、コルベ神父が入れられたときは、中からロザリオの祈りや賛美歌が聞こえ、他の部屋の囚人も一緒に祈り讃美歌を歌いました。彼は、苦しみの中で人々を励まし、仲間の臨終を見送り、<死の地下室>を礼拝堂に変えたのです。2週間後には、彼を含めて4人が残ったため、ナチスは死を早める注射を打つことにしました。コルベ神父は注射のとき、自ら腕を差し出して、47歳の生涯を閉じて、天に召されました。コルベ神父も、キリストと同じように自分のいのちを差し出して一人の人のいのちを死から救いました。主イエスの十字架は、すべての罪人を罪の罰である永遠の滅びから救い出します。そして、主イエスを信じるすべての人を天にある永遠の住まいへと導きます。主イエス・キリストは、永遠の滅びから永遠のいのちへと導く唯一の道なのです。

(2)わたしは真理である
次に、主イエスは、「わたしは真理である」と言われました。主は弟子たちに「私は父なる神についての真理を語りましょう」とか「わたしは父なる神に関する真理を見つけました」とは言っておられません。「私はイコール父なる神に関する真理です。」と言われました。わたしは真理そのものですという意味です。この言葉は、もし主イエスが神でなければ、とんでもない発言になります。自分が真理そのものだとは、常識のある人は決して言いません。しかし、主イエスは父なる神とは、いわば一心同体の存在です。だから、主イエスは、弟子たちに、「わたしを見た人は、わたしの父を見たのです。」と言われました。主イエスご自身が神そのものですから、神について知りたいと思うなら、何か本を読むのではなく、主イエスを見れば良いのです。主が言われる言葉、主が行われること、主が考えること、これらすべて、父なる神も同じことを言い、同じことを行い、同じことを考えるのです。御子イエスは神について何を教えてくれるのでしょうか。一つは、聖書の神は聖なる神である点です。聖なる神は、罪を見て見ぬふりをすることはできません。この世の中には人間の罪があふれています。そして、人間がその罪に支配されて、罪の奴隷のような状態になることを何とか防ごうとしておられるのです。罪は、悪い例えかも知れませんが、麻薬みたいなもので、最初は気持ちの良い物で、次第にそれから離れられなくなり、最後にはそれがなくては生きていけなくなって、完全に自分をコントロールできなくなります。罪も私たちに同じように働くので、神様は、人間が罪の支配下におかれないことを願っておられます。そこに神様の愛があります。神様は私たち一人一人を心から愛しておられます。なぜかと言うと、私たちは、一人一人、神様によって造られた者だからです。私たちは、もし親しい人が麻薬に手を出そうとしたら、何とかしてそれを止めさせようとします。それは、いじわるをしているのではなく、その人が麻薬でダメ人間になってしまわないように、必死になってその人を守っているのです。神様も同じことをされます。罪を裁くという神様の聖なる面と、罪人を裁きから助け出したいと言う神様の愛の一面をあわせもっておられるのが御子イエスです。御子イエスは、そのすべてが神を表す存在です。神様を知るために、私たちは難しい本を読む必要はありません。聖書に記されているイエスの言葉やイエスの働きを見ることによって、神様がどんなお方であるのかを知ることができます。主イエスは、父なる神を表している真理そのものなのです。

(3)わたしはいのちです
キリストは、神です。神は天と地とその中にあるすべてのものを創造された神です。人間のいのちも神様が造られました。神様が人間を造られた時は、他の動物と作り方が違っていました。旧約聖書の創世記を見ると、神様は土地の土であらゆる野の獣と空の鳥を形造られたと書かれています。一方、人間については、「神は大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで、人は生きるものとなった」と書かれています。どこが違うかというと、人間の場合は、土のちりで形造られた後に神様が人間の鼻にいのちの息を吹き込まれて初めて生きる者になったという点です。旧約聖書の言葉であるヘブル語では、息を意味する言葉には、霊、たましいという意味もあります。人間は、他の動物と違って、神様から霊的な命、目に見えない命が与えられているのです。人間だけが神という存在を知っています。人間だけが神に祈ります。人間だけが永遠ということを考えます。それは、私たちに内に霊的ないのちが与えられているからです。しかし、罪を持つ人の霊的ないのちは死んでいます。生まれたままの人間の霊的ないのちは死んでいます。だから、赤ちゃんは親から教えられなくても親に反抗します。悪いことをします。それは、生まれてくるときに罪人の性質を持った状態で生まれるからです。しかし、人は、御子イエスを信じるなら、決して滅びることがなく、永遠のいのちが与えられるとヨハネの福音書3章16節は約束しています。私たちの体は、永遠に生きることはできません。80年か90年すると、それ以上生きることができなくなります。しかし、私たちの魂は、永遠に生きることができます。私たちの体が死ぬとき、私たちの霊的ないのちは、体から解放されますが、行き先がふたつあります。御子イエスを信じる者のたましいは、天国に行きます。そこで永遠の安息と喜びの中で永遠に生きるのです。一方、御子イエスを信じない人の魂は、永遠の滅びに陥るのです。あなたは、自分が死んだ後、自分の魂がどこに行くか知っておられますか。主イエスは、この世のすべての人が永遠のいのちを持つことを願って、この世に来てくださいました。ヨハネの福音書の10章28節を読みましょう。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。かれらは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」永遠のいのちとは、今の人生がそのままいつまでも続くことではありません。まったく次元の違う新しい世界で生きるいのちです。永遠に神様から祝福を受け続けるいのちです。しかも、ここで約束されていることは、主イエスは永遠のいのちを与えてくださるだけではなく、そのいのちをいつも守ってくださるのです。信仰は神様の手をしっかりつかむことではありません。主イエスがわたしたちの手をしっかり握っておられるのです。だから、主イエスは「だれも彼らをわたしの手から奪い取ることはできません。」と言われたのです。

主イエスは、わたしたちのための道となるため、真理となるため、そしていのちとなるためにこの世に来てくださいました。そして、主イエスは、父なる神がおられる天国に行くための唯一の道です。私たちは自分でその道を見つける必要はありません。主イエスが、その道そのものなのですから、私たちは、ただ、主イエスを、本当に、道であり真理でありいのちである方だと信じて受け入れるだけです。あなたは、主イエスを救い主と信じませんか?

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