2021年8月15日 「私たちの助け主」(ヨハネ14章22-26節) | 説教      

2021年8月15日 「私たちの助け主」(ヨハネ14章22-26節)

 主イエスは14章18節で「わたしはあなた方を捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。」と言われました。当時、有名なユダヤ教の教師には多くの弟子が集まっていましたが、弟子たちは教師のことを「父」と呼び、教師は弟子たちを「子ども」と呼んでいました。したがって教師が死ぬと、弟子たちは「孤児」と見られていました。13章33節では、主イエスも弟子たちを「子どもたちよ」と呼んでいます。それほどに教師と弟子たちとの関係は密接だったのです。主イエスは、間もなく自分が十字架にかかって死ぬことを知っておられましたし、弟子たちが不安を感じていることも知っておられました。それで、主イエスは、弟子たちに「あなたたちが孤児になることはない」と彼らを励ますために約束をされました。そして、「あなたがたのところに戻って来ます。」と言われました。ここで、主が弟子たちのところに戻ってくるのは、いつのことを指しているのでしょうか。主イエスは十字架にかかった三日後に復活して弟子たちの前に姿を現わされますが、その時のことでしょうか。主イエスは、復活された後40日目に、弟子たちを地上に残して天に帰られました。イエスが弟子たちのところに戻って来るのが復活の時だとすると、弟子たちは40日後には再び主イエスと別れることになり、孤児になってしまいます。主が戻って来ると言われたのは、主イエスがもう一人の助け主、聖霊として弟子たちの心に住んでくださる時のこと、つまり、弟子たちにとって、初めて聖霊が与えられたペンテコステの日のことを指していると思われます。主イエスが、目に見えない助け主、聖霊として私たちの心に住んでくださる, これがクリスチャンに与えられた大きな特権なのです。主イエスを信じる者はいつでも祈りによって主イエスに語り掛けることができますし、み言葉を通して、あるいは、何かの出来事や他のクリスチャンの言葉などを通して、神様のメッセージを聞くことができます。だから、弟子たちは、たとえ主イエスが十字架で死んで、三日目によみがえり、40日後に天に帰られとしても、孤児ではありません。神様と交わること、神様とともに生きることができるので、孤児になることはないのです。
 主イエスを罪の裁きからの救い主と信じてクリスチャンになるとは、主イエス・キリストの新しいいのちが与えられて生きることであり、一人ではなく、キリストにつながって生きることを意味します。私たちにはキリストの新しいいのちが与えられているだけでなく、キリストの愛も注がれています。クリスチャンとは、主イエスの愛を知って、その愛に捕らえられた人とも言うことができます。自分のような人間のためにいのちを捨ててくださった主イエスの愛を知ると、その愛が嬉しくて、主イエスを信じて生きることは苦しみではなく、むしろ喜びになります。ただ、私たちは、罪が支配する世の中に囲まれていますので、知らず知らずのうちに誘惑を受けて、正しい道から外れてしまうことがあります。正しい道から離れないためには、私たちは、イエスの教え、戒めに従って生きなければなりません。しかし、主イエスの命令は重荷にはなりません。自分が大好きな人から「何かをしてほしい」と頼まれれば、私たちはいやいやながらではなく、喜んでやってあげようと思います。頼まれた以上のことまでやりたいとさえ思うでしょう。私たちが本当に主イエスを愛しているかどうかは、主の命令に喜んで従えるかどうかで明らかになります。それで、主イエスは21節でこう言われたのです。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、私自身をその人に表します。」主が言われたことは、主イエスを本当に信じる者は、主イエスを愛する者であり、その愛は、イエスの戒めを喜んで守るとすることで明らかになるということです。そして、その人は、父なる神からも、御子イエスからも愛され、そして、主イエスは、「その人にご自身を表します」と言われたのです。イエスの弟子たちは、自分の将来がどうなるのか分からず、心を惑わせていましたが、主イエスは、その弟子たちに、心配する前に、主イエスの教えに従って生きなさいとチャレンジされました。そして、主の戒めを守る人にはたくさんの約束を与えられました。その約束とは、主イエスは、そのような人を孤児にすることはないこと、その人のところに来られること、その人の内にいてくださること、そして、その人にご自身を表してくださることでした。主イエスが私たちのためにこれだけのことをしてくださるのであれば、私たちは、将来に対して、何も恐れる必要はありません。主イエスがご自身を私たちに表してくださるとは、私たちの日々の生活の中に、主イエスが、私たちが感じられるほどまでに関わってくださり、何かの働きをしてくださるということです。私たちが自分の生活を振り返る時に、時々、「あれは、絶対、神様が働いてくださったのだ。そうとしか思えない。」そんな出来事があることに気が付きます。これこそ、主イエスが私たちにご自身を表してくださるということです。そのような体験をすると、主イエスが今も生きておられることを強く確信できるので、私たちは、この世の中で大変なことや辛いことを経験したとしても、乗り越える力が与えられるのです。

 今日の個所は、その続きになるのですが、主イエスが「わたしは戒めを守る人に自分自身を表す」と言われた時に、それを聞いた弟子たちは、主の教えを全く理解していませんでした。それで、12弟子のイスカリオテではないほうのユダがイエスに質問しました。「主よ。私たちにはご自分を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのはなぜですか。」先ほども言いましたように、主イエスがご自身を私たちに現わしてくださるというのは、主イエスを信じる者の生活の中で、主が働いてくださって、主の存在や働きを感じることができるということを現わしています。クリスチャンはこのようにして主イエスと親しい交わりの中で生きて行くのです。しかし、ユダはまったく別のことを考えていました。それは当時のユダヤ人が持っていたメシア、すなわち旧約聖書が預言している約束の救い主に関する考え方が影響していました。当時のユダヤ人は、メシアは、世のすべての人々に分かる形で姿を現わすと考えていました。そして、そのメシアは自分たちを苦しみから救い出してくれることを信じていました。当時のユダヤ人は、メシアは自分たちの国をローマ帝国から独立させてくれると強く期待していました。それは、11人の弟子たちも同じでした。その期待が彼らの心の中で先入観になっていたので、イエスが彼らにやがて起きる十字架や復活の話を繰り返し語っても、彼らの頭には全然入って行かなかったのです。そのような訳で、ユダは主イエスの態度が不思議だったのです。ユダは、イエスがローマ帝国を倒して自分がイスラエルの王になることを考えているのであれば、なぜ、自分がメシアであることを世の人々にはっきりそう言わないのだろうか、そのことをユダは理解できませんでした。

 ユダの言葉に対して主イエスは23節で次のように答えられました。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」主イエスは、弟子のユダが期待していたような救い主ではありませんでした。ローマ帝国を倒すための救い主でも、ユダヤ人の国を建てるための救い主でもありません。主イエスは、私たちの心をいろいろな束縛から解放するための救い主です。私たちは、今の生活にいろいろな不満を感じる時に、誰かの責任にしようと考えます。政治が悪い、教育が悪い、家庭が悪い、だからこんな世界になってしまった、そんな風に考えます。確かに、今の政治にも、教育にも、家庭にも問題があるでしょう。しかし、聖書は、一番の問題、問題の根底は私たち一人一人の心の中にあると教えます。一人一人は、皆、自己中心の性質を持っています。聖書はそれを罪と呼びます。自己中心の心は、いつも自分が正しく周りが悪いと考えます。誰もがそのように考えているので、問題は解決することはありません。しかも、私たちの周りの状況は、たやすく変わることはありません。しかし、私たちの心が新しくなると、周りの状況が変わらなくても、私たちの生き方は変わります。不満の心が喜びの心に変わります。主イエスは、そのような心の解放を与えるための救い主、私たちを自己中心の心から解放するための救い主なのです。
 私たちの心を解放するのは、主イエスが私たちに示される愛です。私たちは誰かから本当に愛されていることを知るなら、心が嬉しくなります。その人にとって自分には価値があることが分かるからです。私たちは、神様の目には罪人なので裁きを受けなければなりません。しかし、神様は私たちに裁きを与えなくても良いように、ご自分のひとり子である主イエスに代りに罰を与えられました。それが主イエスの十字架です。イエスの犠牲によって、私たちは、罪が赦され、神の子どもとして受け入れられ、永遠に生きる新しい霊的ないのちが与えられました。これがクリスチャンの信仰です。私たちが信じている主イエスは、私たちのために死んでくださった方です。私たちは、そのイエスに感謝の心を持って生きて行くのです。いのちの恩人である主イエスの願う生き方をしようとして生きるようになります。かつて「洞爺丸」という青函連絡船が台風のために転覆するという事故が起こりました。大勢の人が亡くなりました。その船に、たまたまカナダ人の宣教師が乗っていました。彼は海に投げ出された後、海を漂いながら、救命胴衣をつけていない人に、救命胴衣を渡していました。ところが、救命胴衣がなくなってしまいました。その時、彼の近くに救命胴衣をつけていない一人の若い女性が浮かんでいました。その宣教師は彼女に尋ねました。「あなたは、イエス様知ってますか」彼女は知らないと答えました。すると彼は「私はクリスチャンです。死んでも天国に行くことを知っています。この救命胴衣を上げますから、必ず助かってください。助かったら、必ず近くの教会に行って主イエスの話を聞いてクリスチャンになってください。」と言いました。やがて彼は力尽きて沈んで行きました。助かった彼女は、その宣教師が言ったとおりに、近くの教会に言って主イエスを信じました。いのちの恩人の言葉ですから、彼女はいやいやながらではなく、自分から求めて教会に行きました。私たち、クリスチャンは、この時の女性のような者です。イエス様によって、永遠の滅びから永遠のいのちへと救ってもらったのです。だから、主イエスの言葉には喜んで従おうと思うのです。
 主イエスは、「だれでも、わたしを愛する人はわたしのことばを守ります。」と言われました。主イエスの十字架によって罪から救われて、主イエスを愛する人は、主イエスのことばを守るはずです、ということです。ここで、主イエスが「わたしのことば」と言っていますが、それは、直接的には、13章34節の言葉だと考えられます。それは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがも互いに愛し合いなさい。」という命令です。主イエスを愛する者は、互いに愛し合うことが命じられています。「互いに」とは、私たちにとっては、私たちの教会に集っている兄弟姉妹のことです。ヨハネは手紙の中で、目に見える兄弟姉妹を愛することができない人は、目に見えない神様を愛することはできないと、はっきり教えています。聖書には、多くの神様の命令が記されていますが、私たちにとって最も大切な戒めは、第一に全力で神様を愛することであり、第二に、教会の兄弟姉妹を自分自身のように愛することです。そして、この戒めを守る者に対して、主は素晴らしい約束をしておられます。それは、父なる神と主イエスが、その人のところに来て、その人と共に住んでくださるという約束です。私たちは、14章の最初のところで、主イエスを信じる者には、天国に住む場所が与えられること、そして、主イエスは将来私たちをその天国に導いてくださることを約束されました。ここでは、それまでの間、私たちが地上で生活をしている時に、私たちのところに父なる神と主イエスが来て、私たちのうちに住んでくださるという約束が示されました。私たちが信じる神様は、父と子と聖霊による三位一体の神ですから、これは、私たちのうちに、もう一人の助け主である聖霊が住んでくださるという約束を表しています。クリスチャンは一人で生きているのではなく、神様とともに生きています。神様がともにおられるから、私たちは安全なのです。神様がともにおられるから、私たちは心を平安にして生きることができるのです。

 さらに聖霊は、私たちに様々な良い働きをしてくれます。26節には次のように書かれています。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」聖霊は助け主です。私たちを教えてくださる方です。主イエスは「助け主がすべてのことを教える」と言われてましたが、すべてのこととは、私たちが神様を信じて生活するために知らなければならないすべてのことです。それは、すでに聖書の中に記されているのですが、霊的に鈍い私たちは、聖書の中ではっきりと教えられていることを正しく理解できなかったり、あるいは、理解できてもすぐに忘れてしまう弱さを持っています。私たちが聖書を読むときにも聖霊の助けが必要です。神様に祈りながら聖書を読む時に、聖霊が私たちにその言葉を理解するために必要な力やひらめきを与えてくれます。また、その言葉を自分の生活のどの部分に適用するべきかということをも教えてくれます。また、一度はその教えを読んで理解していても、私たちはすぐに忘れてしまいます。聖霊は、聖書に記された大切な教えを忘れてしまった私たちに、時にかなって、思い起こさせてくださいます。私たちの信仰生活はいつも楽しく、いつも簡単なものとは限りません。困難な時があり悲しい時もあります。しかし、私たちは一人ではありません。私たちが本当に主イエスを愛し、主イエスの言葉に従おうとする心があれば、私たちの助け主である聖霊が私たちを助け、守り、正しい方向へと導いてくださいます。信仰生活は、私たち一人でするものではありません。聖霊なる神様と、いわば二人三脚で歩む生活です。だからこそ、私たちは恐れることも戸惑うこともないのです。私たちの内に住んでくださる聖霊にひたすら助け・導きを求めて日々歩んで行きましょう。

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